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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十七話
123/224

【円相】④

   ■■■




 簡素を湛えた畳敷きの自室にて、正座で黙祷を続ける初老の男。

 その手には墨が滴る筆、眼前には半畳程もある真っ白な半紙が置いてある。


 対面に座る少女が心気の高まりを感じ取った瞬間、男は目を見開き、息を結んで一気に大きな円を描き上げた。

 そして残心のようにゆっくりと筆を置きながら言葉を紡ぐ。


『喜怒、哀楽、愛憎、善悪は表裏一体、相半ばするものである』


 在りし日の篠咲静斎が娘に対して唯一穏やかに何かを説こうとした瞬間であった。

 禅の公案として用いられる書画、『円相図』。

 陰陽のバランスは全て同じ根源から生まれたものである、というのが静斎の解釈であった。


 彼はその日の午後、山中での修行にて娘に頭を砕かれて死亡することになる。


 取るに足らないと値踏みしていた娘の剣境に驚き、醜く嫉妬心を剥き出して対抗していたが、もはや手も足も出ない差があることを悟ると、最後の瞬間は満足そうに笑って死んでいった。

 それで篠咲鍵理はようやく理解したのだ。

 全てが父親の思惑通りだったことに。


 古流を憎む者もまた表裏一体。古流を愛する者と等価である。


 父親の笑顔が呪いのように身体を這い回り、細胞全てに染み込み、深く鋭く骨髄に刻み込まれていく。

 心中に残ったのは行き場のない憎しみだけであった。

 産み、育てる機械として使い捨てにされた母親の仇を取ろうとしていた原初の記憶も喪失してしまっている。

 ここまでの道程で憎しみ以外の感情全てを落としてしまい、肉親の死すらどうでもよくなっていることに気付いた。

 静斎の望み通りに作られた人形は口端を歪める。


 ――ならば、それでいい。


 父親の遺したもの、作ろうとしたもの全てを破壊する目的で生きていこうと決めていた。

 望まず古流という価値観の中に落とされた者を解放するという、形を変えた憎しみを抱いて生きていこうと決めていた。


 この日から三年後、篠咲鍵理は小枩原有象という男に出会った。




 ―――

 ――

 ―




 闘技場の照明の下、二人の女の足元に幾重にも分かれた影が伸びている。

 もはや言葉は要らない。

 それぞれの存在を懸けて雌雄を決する時。


 篠咲は過去に一度だけ道を引き返せる機会があったことを思い出し、哀愁の想いに駆られながらも抜刀して構えていた。

 示現流、蜻蛉の構え。

 日夜、立ち木が擦り減り圧し折れるまで打ち込み続けて手に入れた(わざ)が、思考よりも先に身体を動かしていた。


 篠咲静斎も、長波遠地も、千葉碩胤も、小枩原有象も、誰一人止め得る事ができなかった最速の一撃、【雲耀】。

 対手に立つ、かつて恋人だっと男の母親にまでも同じ太刀を振り下ろそうとしている。


 愛憎一体を説く不玉の言葉は篠咲の心底深くに刺さっていたが、感情とは無関係な仕組みが身体の内に構築されていた。

 自分の意志では止められない歯車が火花を上げて回転し、激情の水面を凍結させていく。

 篠咲が憎しみの果てに手に入れた水月の境地は、意図して作り上げた別人格で心を切り離すという力技であった。

 

 二分する心の裏側で目覚めた殺戮人形は、五感と知識を組み合わせて機械的に最適解となるパターンを辿り始める(・・・・・)


 中段で構える不玉は無手だが、差し出された左の義手は刀剣に匹敵する武器である。

 斬撃を防ぎ得る強度を有し、打撃で擦過傷を負えば必殺の毒術を埋め込まれる。

 大会で見せた投げ技や内部を破壊する打撃を無理に狙う必要性はもう無い。

 重心を巧みに操る運足で接近した後、最終的に狙うのが【衰枯】であることは疑いようもない。

 問題はそこに至る手順が何手何通りかである。


 何れにせよ、最初手は接近する布石だと判断した篠咲は蜻蛉構えを僅かに上げる。同時に、対手の不玉が前足で土を掻き、黒土を蹴り上げた。

 視覚を潰す定石は篠咲の顔の前を遮る左腕に阻まれる。

 続けざまに再度巻き上がった土も余裕を持って防ぐ。

 一度目を防いだ油断を突き、視線を通す瞬間を狙って二歩目でも目潰しを狙ってくるのは分かっていた。


 不玉が三歩目で膝を抜き【勁草】に移行したのが見えると、篠咲は左手を左腰に落として身を捻る。

 居合とは逆方向、突き出す左腰から水平に射出された鉄鞘が、左前方へ転身して突進する不玉を捉えていた。

 急造の飛び道具ではあるが、鉄鞘の質量は刀身そのものを凌駕し、相対速度で迫ってくれば決して無視できる物ではない。


 あわよくば鞘投げで勁草を止め得る結果を篠咲は期待していたが、不玉は止まらなかった。

 眼前に伸ばした義手で鉄鞘に触れると、引き戻しながらも少しずつ力を込めて柔らかに受け流している。

 高速移動中の続飯付。これも篠咲の予想の範疇である。

 もし事前情報の無い立ち会いならば予想を超えてきた居着きで敗北していたかも知れないが、試合を二度も観た後なら話は別だ。

 疑いようもない事実があった。


『小枩原不玉の眼筋と動体視力は大会参加者の中でも明らかに突出している』ということ。


 古流柔術や沖縄空手の術理に目が行きがちだが、視覚情報の有利はそれだけで未来予知に近い立ち回りを可能にしてしまう。

 彼女と対峙した者たちはその事実に辿り着く前に敗北したのだ。


 篠咲は刀を保持する右手を顔の左側に移動し、腰の左手を上げて柄頭を握った。

 【逆蜻蛉の構え】。

 左右に不得手はなく、状況による最適解に身体が合わせていく下地があった。


 篠咲が構えのスイッチングで右足を引くと、その膝頭に不玉の足底が掠る。

 一叢流の【斧棯(フジン)】と呼ばれる蹴り技を知らない篠咲だが、勁草の運足から後ろ足を関節蹴りに変えてくることは予想できていた。

 辿り着いて(・・・・・)みれば、何のイレギュラーも無い、予定調和な結末だけが横たわっている。


 逆蜻蛉から雲耀の袈裟斬りを放とうとする篠咲。

 対して不玉は鞘を弾いた義手が身体の前で泳ぎ、左足の前蹴りはすんでの見切りで躱されている。


 防御として一度掲げてしまった義手では袈裟斬りを止めるだけの粘りを発揮できない。

 蹴りを躱されて浮いた前足では踏鳴で自重を上げて対抗することもできない。

 防御には必ず弱点があり、敢えて防御させることもまた戦術である。



 確実な勝利が見えた篠咲は、死闘の幕を引く袈裟斬りを――振り下ろせなかった。



 微かな違和感。

 居着かされているかに見える不玉は、袈裟斬りを避けようとする気配すら見せていない。

 篠咲の雲耀の袈裟斬りは囲碁の碁盤を両断し得る威力を持っている。

 不玉は五指を広げた義手を刀の軌道上で縦に配置しているが、片腕の続飯付で斬撃を支えきれないのは明白。

 一瞬の時間で篠咲が出した結論は、『相打ち』狙いであった。


 続けて疑問が生じる。

 義手を防御に回せば【衰枯】は使えず、素手の右手で【档葉】を狙おうにも、術理上浮いた前足では必殺の威力を出せないはず。

 投げを狙う間もなく斬り殺される瞬間に、何を以て相打ちを狙うのか?


 蛮勇なのかブラフなのか分からないが、未知の技を使われる可能性を捨てきれない篠咲は、刀身を掲げたまま右方へ転身して距離を離していた。

 不玉は篠咲を追わず、ゆっくりと身を起こしながら、再度一叢流の中段で構える。

 口元は、笑っていた。

 その笑みの意味を共有した篠咲も僅かに口端を歪めた。


 剣境の高みにて実力伯仲の者同士が相対した際、暫し打つ前に結果が見えることがある。

 両者共に相手の実力を認め、死の気配を感じ取り、反撃に備えながらも引き下がることで『相打ち』というリスクを回避したのだ。


 それは奇しくも剣戟の境地とされる【相抜け】が成立した瞬間であった。




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