【円相】②
◆
光と音。
視覚と聴覚を一度に潰し見当識障害を引き起こす非殺傷兵器。
闇に順応した目と静けさに慣れた耳で受ければ訓練された者でも行動不能に陥る。
閉鎖空間での戦闘を熟知する山雀は咄嗟に耳を塞いで飛び退いていたが、回避した先を掠めていく銃弾に気付いて、更に数回前転して距離を稼いだ。
――どうやって?
背後からの射撃を躱された時から続く漠然とした違和感が、山雀の脳裏に疑問を落としていく。
煙幕と閃光で徹底的に視覚情報を遮断する由々桐の戦略は本人も同じ影響下に置くことになる。
普通に考えれば逃走を前提とした撹乱であるが、問題なのはスタングレネードを飛び込み前転で回避した位置へ向けて発砲できたことだ。
サーマルビジョンでも遮蔽物の向こうまで見通すことはできない。
由々桐は視覚に頼らず位置を特定する術を持っている、と山雀は結論した。
聴覚か嗅覚か、或いは天井にカメラを仕掛けて俯瞰視点を得るような技術を使用しているか。
片目とはいえ失明しているハンデを補う何かを持っていなければ大会に参加しようとは思わないはずだ。
山雀は心の中で舌打ちする。
由々桐の試合を見ていない分、その性能を知らないまま飛び込むのは自殺行為であり、攻める前にひと手順追加する必要がある。
スチール製デスクの下に隠れる山雀は、手探りで机上のテープカッターを掴み、ゆっくりと持ち上げて放り投げた。
石膏の台座が地面で重たい音を立てると同時に、サプレッサーの射撃音が五発鳴り響く。
着弾地点はテープカッターの落下地点から身を隠す机の反対側。
――音だ。
由々桐は衣擦れを伴わない音がブラフだと気付いて、飛び出すであろう反対側を狙い撃っていた。
盲目の人間はエコーロケーションに近い共感覚を手にすることがあり、それこそが由々桐の武器であることを裏付ける反応である。
山雀はスマートフォンを取り出しながら、煙が充満しきった室内を見渡してある事実に気付く。
――なぜ火災報知器やスプリンクラーが作動しない?
由々桐が動作を停止させたことは間違いない。
だが戦闘が始まってから操作したとは考え難く、コントロールルームに来た時点で真っ先に停止していたと思われる。
つまりこの戦闘とは別の意図があるはずだ。
山雀が能登原を拷問して得られた情報は三点。
赤軍残党の入国を手引きしたのが大会参加者の由々桐であること。
能登原を拉致したのは由々桐、一叢流関係者、シロ教であること。
彼らが篠咲の殺害を企てていること。
以上を聞き出した時点で特別高等班の部隊が追いついて時間切れになっていた。
山雀が深夜の会場に潜り込んだのは能登原の所持品を押さえに来たからであって、由々桐と出会ったのはただの偶然である。
――今ここで何が起こっているのか?
答えは『篠咲の殺害』しか考えられない。
こうしている今、会場のどこかで篠咲の暗殺が実行されようとしている。
山雀も能登原の共犯者たる篠咲を生かしておくつもりはないが、彼女を殺そうとする連中の目的が分からなくなってしまうことは避けたい。
特にシロ教を泳がせ続けるのは危険だ。
「なあ、アンタはなんでここにいたんだ?」
返事はない。
宣言通りならば、由々桐にとってこの戦闘は仕事の範疇を超えた復讐であり、もはや交渉する気すら無いだろう。
それでも山雀は足りないピースを埋めるために言葉を紡ぐ。
「言葉の通じる文明人同士なら会話で解決することもあるんじゃないかい、由々桐さん」
「お前がそれを言うか」
「なんだ喋れるじゃないか」
山雀は視界を奪われたことで自身の聴覚と音を分析する思考も冴え渡っていることを認識した。
溜め息に続いて袖が動き、ハンドガンのリロード音が聞こえる。
初撃で見えた銃口はサプレッサー付きのグロッグ17。グリップエンドは見えなかったがロングマガジンなら八発でリロードの必要はない。
「一叢流の女がどうしても篠咲と決闘したいらしいから、お膳立てしてやったんだよ」
開示して差し障りのない情報が小枩原と篠咲の怨恨という点に疑問が生じる。
「それは動機じゃないな。何でアンタが能登原と篠咲を狙うんだ?」
「能登原が先に裏切っただけの話さ。篠咲の方は……なんとなくだ」
「なんとなく?」
「お前は頭おかしい部類の正義漢だが、一応は公安だろ? だったらさっさと篠咲を殺すべきだぞ。ありゃ本格的に公共の敵だ」
篠咲鍵理の父親の事を言っているのだろう。
しかし由々桐の行動には矛盾がある。
篠咲が極左の父の意思を継ぐ計画を掲げているならば、赤軍残党と行動を共にしていた由々桐が思想的に相容れない訳がない。
思想を超えた内ゲバの原因に山雀は興味を持った。
「まぁ尤も、ここから生きて出られたらの話だがな」
由々桐が会話の終わりを告げると同時に、備えていた山雀は先に動く。
身を起こしながら頭上の机を持ち上げて、宙に浮いた底面を突き蹴りで前方へ飛ばした。
それに合わせて由々桐も引き金を引く。
スチール製の机がひしゃげる音。机上の文房具がばら撒かれ、紙束が舞う音。サプレッサーの銃声と弾かれた銃弾の音。
その最中、アラームがセットされたスマートフォンが床を滑る。
起動は十秒後。
山雀は机を盾に飛び出し、聴覚と嗅覚を最大限に研ぎ澄ます。
衣擦れ音と煙草の臭いを捉え、床に飛び込みながらハンドガンの引き金を引いた。
空気を切り裂く銃弾が衣服に吸い込まれる鈍い音を立てたのを確かめ、同じ箇所に向けて射撃を繰り返す。
射線上の煙が押し退けられて視界がクリアになった時、山雀の背筋が凍りついた。
視線の先にあるのは、救急隊員の青色の制服が掛けられた椅子の背もたれ。
空調の風の真下、胸元に差さる煙草と一緒に揺れていただけである。
感じていた五感の冴えの何割かは由々桐が演出したものだと気付き、反射的に回避行動を取っていた。
十数発。
襲いかかる弾丸の数を数えている暇は無かった。
山雀の幸運は、由々桐が聴覚能力ではなく経験知識で発砲していたことにある。
蹴り飛ばした机が壁にぶつかり、引き出しが外れ、溢れ出した中身が意図せずして音の混沌を作り上げていたことが原因であった。
足元から掃射していく由々桐に対し、山雀は宙返りで空中に逃れている。
ほんの僅かな認識のズレが命を繋いだ。
山雀は空中で体勢を整えると着地を待たずに応射した。
狙いは濃霧に広がる雷雲のようなマズルフラッシュの中心。
着地までに二発、着地後に三発、引き金を引く――が、いずれも乾いた金属音しか返ってこない。
――また位置の探り合いか。
山雀が停滞する煙の中で身を屈めようとした刹那、鞘滑りの音が確かに聞こえた。
日本刀の居合。
咄嗟に頭の中で浮かんだ言葉は「あり得ない」だった。
合理的に近代兵器を使って銃撃戦を仕掛ける男が日本刀を抜いて接近戦を仕掛けてくる。
弾倉を撃ち尽くしたのであれば距離をとってリロードする方が遥かに確実で安全な状況なのに、蛮勇とも言える特攻が押し寄せてくる。
この落差を感じる瞬間の居着きこそが由々桐の演出であると気付いた時には遅かった。
山雀の右眼球に刀身の先端が届いていた。
ハンドガンの銃身を盾にして防いだつもりでいたが、それすら押し込む斬撃が放たれている。
立身流【向】。
片手打ちになる通常の居合ではなく、抜刀から両手で柄を保持する粘りの居合。
古流を修め、聴覚の有利を保持する由々桐だからこそ可能な正確無比な立ち回りであった。
右眼の光を失い、涙のように流れる水晶体の温度を頬で感じながらも、山雀は冷静に刀身を受け留めるハンドガンを発砲する。
弾丸が向かうのは天井であったが、マズルジャンプで跳ね上がる銃身が由々桐の刀を弾き返して致命傷を回避した。
二人の男は渦巻く攻防で煙幕が押し退けられた小さな空間にいた。
両者の左眼が互いの動きを目視する。
山雀は無理な体勢の発砲でハンドガンを保持できず後方へと手放していた。
由々桐は弾かれた刀身を宙空で回して袈裟斬りに移行していた。
避けも防御も間に合わない瞬間。
それでも山雀は口端を上げて笑う。
同時に由々桐は居着く。
眼前の笑みの意味を探ろうとする前に、答えが後方から鳴り響いたからだ。
しかし瞬時に携帯電話のアラーム音だと気付き、一度止めかけた袈裟斬りを再開する。
その時間の差分、山雀の一手が間に合った。
左手に握る棒状の懐中電灯が、右手で開いた胸元を照らす。
山雀の小脇に下がる物体を見た由々桐は完全に手を止めていた。
袈裟斬りの刀身は頸動脈の三センチ手前で留まっている。
由々桐の視線の先、明かりに照らされたオリーブ色の長方体の表面には、ご丁寧に白字で『TNT爆破薬』と書かれていた。
圧倒的不利の状況、ようやく訪れた拮抗状態に嘆息した山雀は返事をするように右手で握るスイッチを振ってみせた。
そして改めて言葉を吐く。
「なにお揃いにしてくれてんだオッサン。隻眼じゃPSVRできねえだろ」




