【怨嗟】③
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その神社は住宅街から少し外れた丘の上に鎮座している。
稲荷神を祀ってはいるが特に歴史があるわけではなく、年末年始にだけ自治会の溜まり場にされる程度の小規模な造りであった。
普段は祭事用の倉庫として扱われていて訪れる者も少ないので、手入れされない草木が野放図に氾濫していた。
鉄華は蔦が絡まった鳥居の前で息を整えている。
履き慣れない長靴のせいもあってつま先は鈍い痛みを発していた。
学校を出たその足で傘も差さずに走り回っていたので全身ずぶ濡れであったが、久々のランニングに図らずも充実感を感じていた。
指定された場所は自宅から数分の近場で、いつもランニング時に通りかかる見知った神社だ。
相手は春旗家の住所を知っているのであろうか。
歌月に渡された手紙は手の中で雨と汗にまみれてぐしゃぐしゃになっていて、滲んだインクが擦れて汚れのようになっていた。
文面はもう思い出せない鉄華であったが、差出人はよく覚えている。
例え誰かの悪戯であったとしても無視はできない。
多くの酸素を取り入れるために鉄華はまず一度肺の空気を全て吐き出した。ゆっくりと深く吐き切った後、腹式で一気に吸い込こんで、またゆっくり吐き出す。
祖父に教わった呼吸法を数回繰り返して平時の呼吸を取り戻すと、意を決して十段程の石段を登っていく。
境内は生い茂る木立ちの影に覆われていて、その暗さに目が慣れるまで少しの時間を要した。
社へと続く石畳の道は苔と玉砂利に囲まれ、それらが雨音を吸い込んで異様な静けさを保っている。
まるで現世から切り離された異空間のようであった。
手水舎の屋根の下に人影を見つけた鉄華は慎重に歩み寄っていく。
人影は少女であった。
刃心女子とは違う制服を着ていて、肩には黒革の竹刀袋を下げている。
「早かったわね。私もさっき着いたばかりよ」
「っ……」
少女は淡々と語りかけたが、鉄華は声を出せずにいた。
疲労ではなく、精神の高揚が肉体の反応を遅らせている。
その輪郭と目付きは鉄華の記憶を喚起する。
少女の名は冬川亜麗。
中学時代の三年間、決勝で戦い続けた相手であった。
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「剣道には飽きたのかしら?」
冬川亜麗は問う。
遠雷が鳴り響く中でも不思議なくらいはっきりと声が聞こえた。
質問が意味するところは、鉄華が剣道を辞めたことを知っているということである。
ある程度身辺を調べた上で現れていることを鉄華は理解した。
「……冬川さんは、まだ剣道を続けているの?」
「いいえ、もう辞めたわ」
三年間、剣道で一位の座を争い続けた少女たちは、今初めて言葉を交わす。
冬川は手水舎の屋根から歩み出て、雷雨の中に身を晒した。
前髪の間から除く鋭い眼光は怒気を帯びて鉄華を睨みつけていた。
「あなたのおかげよ」
鉄華は返す言葉が見つからない。
心の何処かで、彼女の剣道人生を終わらせたのは自分だという自責の念があったからだ。
忘れかけていた心の痛みが雨の日の古傷のように蘇った。
狼狽する鉄華を見据えながら冬川は口の端を上げ自嘲的に微笑んだ。
それから黒皮の竹刀袋を開ける。
中から黒檀の木刀を二本取り出すと、一方を鉄華に向けて放り投げた。
木刀がカランと石畳の上で甲高い音を上げて弾んだ。
「私は貴方が憎いと同時に憧れていたのよ。でも、決して届かないことを思い知らされたわ」
そこまで言うと冬川は木刀を正眼に構え、剣気を込めて鉄華を見据えながら 「剣道ではね」と付け加えた。
――戦う気だ。どうして。
鉄華はもっと話したいことがたくさんあったのに、謝りたいこともあったはずなのに、それらの想いは言葉に出来なかった。
冬川はその全てを拒絶する怨嗟に包まれている。
「……冬川さん、私は」
「拾いなさい」
「……」
「倒し飽きた私が相手では不服かしら? ……拾わなければ目を抉るわよ」
冬川は本気だ。
放たれる殺気を感じ取った鉄華は、目線を逸らさないまま手探りで木刀を拾って八相に構え、運足の邪魔になる長靴を脱ぎ捨てた。
構えにはもはや剣道の名残りは無く、古武術部で学んだ知識が自然と体を動かしていた。
「……古流を学んでいるという話は本当のようね」
仇敵の構えを見た冬川は冷たく蔑む視線を投げかける。
「私もよ」
「……え?」
「私も古流をやっているわ」
鉄華は耳を疑った。
雨風でざわめく葉音が作り出した幻聴のようにも思えたが、よく見ると冬川の構えは剣道の正眼ではない。
右足前の撞木足。
彼女も剣道を捨て、古流を選んだ。
身体性能も境遇も違う二人の好敵手は、奇しくも同じ道を辿っていた。
「もはやあなたへの興味は失せていたというのに、また同じ舞台にあなたが立っている。心底殺してやりたい気分よ、春旗さん」
そう言うと冬川は破顔する。
その顔貌は、歓喜であり、憤怒であり、悲哀であり、悦楽であり、全ての要素を含んで見えた。
感情のコントロールが出来ていない。
なんて樣だろう。
これから始まるのはただの喧嘩だ。それも殺し合いに近い決闘を冬川は望んでいる。
――冬川亜麗は壊れている。
剣道を捨て、倫理を捨て、剥き出しの暴力で決着を付ける。
春旗鉄華に勝てるのであれば彼女はそれでいいのだ。
独自の価値観を増幅させ、言葉が届かない獣と化していた。
それほどまでに冬川を追い詰めていた事に今更気付いた鉄華だが、もはや感傷に浸っている場合ではない。
「何を怯えているの? 古流の行き着く先はここよ」
獣が言葉を繰る。
鉄華は無意識に後ずさりしていた。
――怖い。
素肌に木刀を打ち込まれたら無事では済まない。
打ち込まれるのも、打ち込むのも怖くて仕方がない。
対して冬川はゆっくりと距離を詰める。
恐怖心が欠落したかのように笑みを浮かべながら。
才能と言える程の機動力を活かして戦う彼女は、相手の打突を待つような戦い方はしない。
心で負けていることを感じた鉄華は少し息を止めて集中力を上げた。
そして彼我の構えを比べる。
木刀は竹刀とは全く別の武器だ。先に打たれた方が大きく戦力を失ってしまう。
初手を取る意味が大きなウェイトを占める攻防では、コンビネーション技の優先順位は下がる。
中段からの攻撃は必ず「振り上げて、振り下ろす」という二回の挙動を要するが、鉄華の八相の構えは振り下ろすだけの一挙動で攻撃ができる。
一見すれば後者の方が有利ではある。
もちろん冬川もその程度のことは理解しているだろう。
彼女が狙うのは突き技だと鉄華は予想した。
中段構えでも突き技なら一挙動で打てるからだ。
しかし左肩を前にした半身で構える鉄華の芯を捉えるのは容易ではない。
人体は球面であるが故に、突き技が威力を発揮するのは垂直面を捉えた時だけで、刃のない木刀なら尚更である。
つまり狙うのは常に正面を向いていて必倒の急所でもある頭部だ。
鉄華は確信する。
顔に迫る突きを弾き落としながら小手を打てばいい。
小手ならば全力で打っても殺してしまうことはない。
泥蓮の時は失敗した技だが、今なら出来る。
分析から確信に至り、確信は自信となって後退する体を止めた。
二人の少女は弓を引き絞る様に距離を詰める。
互いの生命を賭けた一撃は、雷鳴を合図に放たれた。