【闇路】⑧
◆
足や膝による槍操作は、一叢流槍術に於いて【苞焔】と呼ばれる裏技に当たる。
古流の戦いでは相手の技を知り応じ技をぶつける事が大きな有利になり、多くの術理が開示されてしまった現代、未知の流派が現れても流祖や系統を調べることで体系を予測することすら可能と言える。
苞焔は柔術流派の打撃を取り入れた変化技であり、熟練の手合いを居着かせるという目的を考えれば簡単に衆目に晒すべきではない。
泥蓮も当初は一ノ瀬相手に使うつもりはなかった。
しかし、一ノ瀬の持つ選択肢は一流派の世界に留まっておらず、長い剣道経験から未知の技に対応する身体能力も持っている。
途上ながら予想を超えて立ち回る一ノ瀬を相手に、泥蓮は秘技の解放を余儀なくされていた。
そんな初見殺しの刃を、頬肉の下の奥歯で受け止められるとは想像もしていなかったと言わざるを得ない。
気力の差。
真剣と木刀のぶつけ合いであるという優位性、後に篠咲との戦いを控えているという温存。
油断はないが、泥蓮はこの戦いで命を賭けていない。
死中に踏み入る気力を見せた一ノ瀬との覚悟の差が攻防の結果として現れていた。
一ノ瀬は既に、槍の引き戻しよりも速く穂先を潜り抜けて剣の間合いに到達している。
隠剣の構えから横薙ぎの兆しが見えるが、それを躱しても体当たりを捻じ込むであろう勢いで踏み込み。
体当たりをバックステップで吸収する防御を泥蓮は一度見せたばかりであり、槍を蹴り上げる操作も知られている。
先程の剣戟を省みて逃げ場を潰した上での同じ対峙に、「二度目はない」という一ノ瀬の意志が聞こえてくるようであった。
泥蓮は奥歯が割れるほどに噛み締めて猛る。
――ふざけんな!
気力、覚悟、心構え、決意――そんな不確かなもので積み上げた努力と技が覆されることは認められない。
競技ではなく、死闘を勝ち残るために磨き続けた牙。
フィジカル差のある敵の体当たりを想定していない訳がなく、後退を潰しただけで選択肢が尽きたと思い込む一ノ瀬の浅はかさに殺意が湧く。
――剣道じゃねえんだよ!
剥き出す本能とは真逆の脱力で上体を屈めた泥蓮は、半歩ほど踏み込むだけで【華窮】の助走を終えていた。
前足で床を蹴り込み、全速力の体重を脚部から頭部へと移動させていき、一ノ瀬の横薙ぎを下から持ち上げるように槍の柄を押し出した。
首を揺さぶる危険性から剣道では禁止されている下方向からの体当たり。
それに加えて、流派の運足と体重移動が両者の間にある絶対的な質量差を覆した。
全力の突撃を正面から押し留める衝撃を顎部に受け、体重百キロ近い肉体を宙に浮かされた一ノ瀬は、コンマ数秒の僅かな時間気を失っていた。
この期に及んで常識の外にある泥蓮の体術を読み切れていない未熟さが、体当たり勝負の勝敗を分かつ。
本来なら決着の瞬間。
一ノ瀬がどのような策を持っていようとも宙空に居着かされた時点で床を舐める末路は変わらない。
しかし、両者共に全く予測していなかった事態が最後の最後に訪れた。
「デレ姉ッ!」
唐突に背後から響く叫び声。
聞き慣れた少女の声に泥蓮の手元が止まる。
この対峙を用意した張本人がいることを思い出し、一対一の戦いではないことを意識して一ノ瀬への追撃が遅れてしまう。
一ノ瀬は失神の間に響いた春旗鉄華の声を聞いていない。
意識を回復した時、眼前にはただ意味不明に居着く泥蓮が佇むだけであった。
策とは程遠い偶然が作り上げた時間。
泥蓮が体当たりを受け止める極小の可能性を考慮していた一ノ瀬は、ただ無念無想に仕込んでいた技に移行する。
切落しを粘り残して追撃する高上極意の応用。
槍の柄に残した木刀を手放して密着し、左手は自身の右肩を掴み、右手は泥蓮の左脇下を通って背中で右袖を取り、押し付ける前腕で頸部を圧迫した。
立位の変形袖車絞め。
両腕の自由を殺し、癖の悪い足技は側面に腰を入れて届かせない。
そのまま小さな体躯を壁に押し付けた時、誰の目にも勝敗は決していた。
「ぐ……ううっ……」
口端から泡吹く唾液を垂らして泥蓮は耐える。
脳裏では覆しようがない状況であることを理解していたが、育んできた積年の闘争心が諦めを許さない。
――邪魔をするな!
泥蓮の血走る視線は一ノ瀬にも、背後に居る鉄華にも向けられていない。
待ち望んだ決闘、ようやく手が届くはずだった篠咲の背中が遠退いて行く。
――邪魔するんじゃねえ!
背筋を波打たせて絞め技を逃れようとしても、身長差で足先を浮かされた状態ではフィジカル差を超える術理を発動できない。
泥蓮は靄がかる思考に手を伸ばし、過去の記憶から打開策を模索する。
藻掻く指先で掴み取ったのは、もはや届き得ない起源であり目標でもあった一欠片の記憶であった。
「……にぃ……さん…………」
口から零れる言葉の重みに、指の間から流れ落ちる兄への想いに、泥蓮は涙を流しながら意識を喪失した。
■■■
「一ノ瀬さん、ありがとうございました」
「構わないよ。大会は散々だったけど、最後は実のあるものになった。礼を言うのは僕の方かもな」
決着から十数分後。
それまで一ノ瀬は寡黙を通していたが、泥蓮を搬送する救急車両に同乗する直前、かつての弟子と一言だけ交わして別れた。
互いに想いを言葉にすれば陳腐な問答になってしまうことを認識している。
鉄華も後悔はなかった。
クラスメイトの曜子と鈴海を見送った後、念のために会場の搬入路から侵入した鉄華は、結果的に泥蓮だけでなく一ノ瀬の戦いにも水を差したことになる。
それでも、どちらも失わずに今夜を乗り切った満足感の方が大きい。
奇妙なまでに手薄な警備体制から察するに、今夜が一巴の用意した決闘の場であったことは疑いようもない。
篠咲をどんな方法で呼び出すかまでは分からないが、戦う相手がいなくれば策略は成立せず、明日以降同じ手段を取ることは不可能だろう。
ホテルのエントランスを通り抜けながら、鉄華は携帯電話の画面を表示した。
少しの躊躇の後、アドレス帳から木南一巴を選択して通話ボタンを押してみる。
だが予想通り、圏外を示すガイダンスが流れるだけであった。
能登原を排除する過程でかなりの無茶をしたはずだ。
或いはもう一生会うことはないのかもしれない。
最終的に裏切られた鉄華だが、一巴への恩義は今だ変わることなく心中に在り続けている。
彼女なりに抱えていたものがあったのだろう。
一巴への詮索が無遠慮に踏み込まれたくない領域を跨いでいた可能性はある。
失踪によって一巴の足跡を知る機会が失くなったことは、両者にとって最良の選択のように思える。
心なしか安堵を覚えた鉄華であった。
一巴の無事を祈りながら自室のドアに手をかけ、最大の懸念が解消されたことを師に報告すべく声を上げた。
「不玉さん。問題は片付きましたよ」
返事はない。
緩やかに響く空調の音が静けさを深める室内。
対流する空気の層に乱れはなく、既に就寝した可能性を考えた鉄華は、起こしてでも伝える必要性を感じて寝室のドアを開いた。
「……不玉さん?」
そこには客室清掃で綺麗に整えられたベッドがあるだけであった。
■■■
撃剣大会会場。
各棟を繋げる連絡通路での決闘が終わった頃。
黒土が敷かれた競技場では、興行の日程を終えた夜中にも係わらず煌々と輝く照明が焚かれ続けていた。
その中央。
帯刀した一人の女が目を閉じて佇んでいる。
篠咲鍵理。
わざわざ競技場に出向いたのは、護衛と連絡役を務める由々桐からの伝言にある。
『能登原さんから緊急連絡があり、直接会って話がしたいとのこと』
篠咲はその言葉が嘘だと分かっていた。
根拠はないが、能登原は由々桐を信用していないという確信がある。
本当に重要な話ならリスクの有無に関係なく直接現れる能登原の気質を理解しているからこそ、由々桐の嘘を一瞬で見破っていた。
それでも現れたのは、背後に拙い絵図が見え隠れしていたからだ。
由々桐が裏切ったのならば、協力者は一叢流か薬丸自顕流かシロ教である。
こんな大それた裏工作を組んで競技場に呼び出すのは暗殺ではなく決闘を望んでいるからであり、今から誰が現れるかも自ずと知れる。
篠咲の心中ではある種愉悦とも言える感情が渦巻いていた。
どこか期待していた小枩原有象の妹との対決は、何者の邪魔も入らない完璧な状況で実現することになる。
常日頃押し殺している皮下の感情が全身の毛穴から滲み出る感覚。
自身の計画とは逆行する感情の居着きを、今は敢えて愉しんでいた。
逢瀬を待つ篠咲の様子を遠く離れた客席から黒髪の少女、冬川亜麗が観ている。
いずれ冬川自身も戦うことになる舞台、地形把握のため会場に住み込む形で参加していた彼女だが、この瞬間の観戦は篠咲の指示によるものだ。
冬川から春旗鉄華に顛末が伝わることを見越しての見届け役である。
立ったまま黙祷を続ける篠咲は、俄に空気が動いたことを感じ取った。
続いて競技場に繋がる通路から大きな金属音が鳴り響く。
由々桐か他の誰かか、決闘を仕組む意図で防火扉を閉めたのであろう。
当然防火のセキュリティも起動することになり、それが戦いの制限時間でもある。
闇の通路から浮かんだ人型がゆっくりと光照らされる舞台に歩み出て、一歩ずつ確実に黒土を踏み締めて中央へと進む。
時が満ちたことを感じた篠咲は、目蓋を開いて音のする方向へと視線を送った。
雪のような肌に隈がかる双眸、乱雑に跳ねた黒髪をうなじで一纏めにし、纏う道着は白一色。
その女の体躯は篠咲鍵理に並び立つ長身であった。
「……」
篠咲は言葉を失ってしまう。
予想していなかったわけではないが、居着く感情の中で小枩原泥蓮が現れるものだと思い込んでしまっていた。
「……まさか、貴方が出てくるとは思いませんでした」
「こうして会うのは初めてじゃな」
女は口元に三ヶ月のような笑みを浮かべて歩みを止める。
右手の甲を支えにして顎先を撫でる左手は、照明の光を反射して銀色に輝いていた。