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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十六話
118/224

【闇路】⑦

   ◆




 両足が宙に浮く状況。

 抗いようがない慣性の中に身を置くという隙は、続く技で転倒させられ一方的な剣技を受ける起点となる。


 しかし、大会に於いて驚異的な身体力で宙空の不利を覆した者がいる。

 山雀州平は体重移動で着地のタイミングを大きくずらしてみせた。

 滝ヶ谷香集と篠咲鍵理は反撃を仕込んだ上での跳躍を選択した。


 小枩原泥蓮は肘打ちの少し前にバックステップを開始していたことを一ノ瀬は感じ取っている。

 短期的に蓄積した経験が、肘打ちから続く袈裟斬りを僅かに躊躇させていた。


 そしてその判断が正しかったことを証明するように、木刀を振りかぶる一ノ瀬の眼前を槍の石突が下から上へと通り抜けていく。


 手元で柄を回転操作して出せる速度ではない。

 泥蓮は無作法にも、最後まで地に着いていた足で槍の柄を蹴り上げていた。

 偶然にも躱すことが出来た一ノ瀬は泥蓮を追うのではなく、まずは槍に向かって袈裟斬りを振り下ろす。

 足を使った槍の操作。

 一叢流には今だ未知の体系が潜んでいる可能性を捨てきれず、剥き身の槍に対する木刀の不利を潰す方が先だと判断した。


 切落しの粘りを乗せた袈裟斬りは、無理な体勢で保持する槍を難無く叩き落とすことに成功する。

 泥蓮の着地と同時に、弾き飛ばされた槍がリノリウムの床で乾いた音を上げた。


 ――これで素手と木刀。


 たった数秒の攻防で戦力差が覆る。

 一ノ瀬は振り切った袈裟斬りの手首を返し、斬り上げに備えて居着きを見せない――つもりでいた。

 泥蓮が手放した槍を取りに行くか、逃走して別の得物を探すかを予測した上での残心であった。


 しかし泥蓮は今、一ノ瀬の手首を押さえる程の近距離にいる。


 一ノ瀬の予想には抜け落ちている点があった。

 小枩原泥蓮も小枩原不玉と同じレベルで柔術を使える可能性である。

 遠距離戦と近距離戦、その両方を主軸とする流派。

 大会では偶々槍術側で出場しただけであり、柔術を使えないというわけではない。

 しかし、大人の男と少女というフィジカルの対比で素手の攻防を軽視しすぎていた。


 着地と同時に発動した泥蓮の地を這う前進は、不玉が見せた運足と遜色ない速度で間合いを詰め、一ノ瀬の技の継ぎ目に割って入っている。


 もはや息がかかる距離。

 刀が殺傷能力を失い、柔術が術理を発する圏内。

 泥蓮の手がスライドして後柄を掴む小指に触れた瞬間、一ノ瀬は斬り上げを諦めて左手を引き抜いていた。

 指取りが奪刀術の基本であることを知っている。

 防具着用の剣道では起こりえない攻防に対応できている実感を確かめながら、木刀に残る右手を強固に結び、立てた後柄をバックハンドで泥蓮の喉に向かって振り上げた。


 その次の瞬間、一ノ瀬は目の前で羽根が広がったように見えた。


 鳥類の飛翔のように、暗闇に純白の羽が舞う。

 飛び散る羽根が右眼の眼球を掠め、上瞼を切り裂いて通り抜けていく。

 眼球の圧迫で光の像が映る左眼がその技を捉えていた。

 羽根の正体は泥蓮の五指。

 柄を押さえに行ったはずの手が軌道を変え、顔を狙うスナップで振り払われていた。


 一叢流柔術、【荊棘(ケイキョク)】。


 一ノ瀬がすんでのところで失明を免れたのは、泥蓮相手に安全な競技の世界で二度敗北したことが教訓になっていたからだ。

 ただの少女と思い込んで意気揚々と近距離戦を受けていれば眼球を抉られていただろう。

 ほぼ無意識に頭部を引いて躱しながら、空いた左手で小柄な体躯を突き飛ばして間合いを広げることを選択していたことが功を奏する。


 一ノ瀬がたたらを踏んで後退し再度木刀を構えた頃には、泥蓮も床に落ちた槍を掴んでまた中段で構えていた。


 闇の回廊に静謐が戻った。

 必殺の間合いを抜け出して吸う息は、酸素を身体の隅々に補給させようと深く重く刻まれる。


 攻防の仕切り直しではあるが、最初と同じ対峙ではない。

 一ノ瀬の右眼は瞼から流れる血で曇り、暗所での視界の半分がより濃い闇で覆われている。

 泥蓮のダメージは顔に受けた肘鉄のみであり、威力もバックステップで緩和されている。


「なんだ。試合の時より元気いいじゃないか」


 瞬時の決着を想像していた泥蓮は、思いの外動けている一ノ瀬に対して迷惑そうに呟いた。

 濃度を増していく殺意を正面から受け止める一ノ瀬は、吹き出ては蒸発する汗で寒気を感じていた。

 本気で殺すつもりの相手に、あくまで思い留まらせる意志の打突で立ち向かうのは分が悪い。


 ――まだ足りない。強固な精神を波立たせる一滴が欲しい。


 一ノ瀬は再び口を開く。


「鉄華ちゃんは君に恩があると言っていた」

「あ?」

「真面目で優しい子だ。君はそれが分からないほど愚かではないだろ」


 今し方の攻防を越えて今だ甘さを捨て切れない一ノ瀬に気付いた泥蓮は、眉間を皺寄せて腹立たしく声を上げた。


「あいつは親しいと思っている誰かに嫌われないかを必死に気にしてるだけの小心者だよ」

「君に無いものだと素直に認めるべきだね。誰かを無責任に心配をすることはあっても、具体的に行動出来る人間なんてそういない」

「こんな夜中にストーキングするお前も同類ってか。揃ってお節介の権化だな」

「はは、僕は模倣さ。彼女の誠意は人に愛される資格がある。君も分かっているはずだ」

「……」


 一ノ瀬は泥蓮が篠咲と戦おうとする理由を知らないし、想像で推し量ることも出来ない。

 もはや十八歳の少女が普通の生き方で到達できる剣境ではないからだ。


 それでも彼女がこれまでの人生で得た武術以外のもの全てが無駄ではないと信じている。

 手を伸ばせば掴める幸せだってあるはずだろう。


「よりによって愛ときたか。……参ったな。そろそろ本格的にキモくなってきたぞ」

「そうやって目を伏せるのはやめた方がいい。いくら強くても中身が子供のままでは篠咲鍵理には届かないよ」


 泥蓮の見開かれた双眸に一ノ瀬は確信する。

 踏んではいけないワードが篠咲関連なのだろうと。


「黙れ」


 体外に噴出する怒気が重力を歪めるようにすら思わせる。

 説得は無理だが、怒りで居着かせる打開策が見えた一ノ瀬は、改めて演技がましく口端を歪めた。


「もしかして、本気で勝てると思っていたのかい? これでも多少見る目はあってね。君と篠咲の間に大きな隔たりがあるのは確固たる事実だ」


 言葉を言い切る前に泥蓮が動く。

 一ノ瀬目線で点にしか見えない槍の先端が風切り音を上げる。


 ――届く。


 彼我の距離は四メートル程空いているが、泥蓮ならば柄の握りや運足で充分届く範囲であることは予想の内にある。

 一ノ瀬は音を頼りに距離を測っていた。

 観客もいない静かな廊下だからこそ出来る最後の選択。

 一ノ瀬は余裕を持って左斜め前に踏み込んで穂先を躱した。

 大きく開いた身体の後方に寝かせた木刀を隠す構え。小野派一刀流、【隠剣(おんけん)】。

 槍を引き戻して棒術に移るのであれば横薙ぎの切落し、引くのであれば更に踏み込んで問答無用の体当たり。

 怒りのままに放つ初手を見切られた泥蓮には後がない。


 そう思い込んでいた一ノ瀬は、顔の右側面に槍の刀身が埋まるまで気付かなかった。


 突いていたはずの槍が横から薙ぐように振られるという矛盾。

 それが、突き出した槍の柄を横から蹴り飛ばして実現した軌道変化だと気付いた時には、穂先が耳たぶの半ばまで切り裂いて側頭部に掠っていた。


 ――死。


 無情なまでに冷たい白刃が擦り抜けるように頬を割いていく。

 あまりにも抵抗なく切り裂かれる肉に、そのまま骨も通り抜けるのではないかという恐怖が一ノ瀬の脳内を巡る。

 視線の先で、泥蓮の手元が前進する一ノ瀬よりも速く引き戻されているのが見えた。

 日本刀の切断と同じく、引くことで刃筋を通す術を知っている。

 競技の場では使うことのない殺人技術と覚悟。


 一ノ瀬は、数秒先の死を意識して全身が粟立つのを感じながらも、更に前に踏み込んでいた。


 他の選択肢が浮かばなかったわけではない。

 横に転がることも、床を蹴って踏み止まることも、木刀を手放して槍を顔から弾くことも間に合ったかもしれない。

 一ノ瀬は死中に於いて背中を押す強い力を感じていた。


『人も空、我も空、打つ手も打つ太刀も空』


 かつての禅僧が説いた剣の道、一ノ瀬はその言葉に納得していなかった。

 侍は僧とは違い、人を斬る。正も邪もなく遮二無二に生き残ろうとする。

 かと思えば誰ぞのために命を賭け、時には自分の腹をも斬る。

 それは己を捨て、刃に従っているからだ。

 刃は仁であり臣である。

 鞘走る瞬間、刃に心が乗っていなければただの殺戮機械でしかない。


「おおおおぉぉぉ!」


 打突に声が乗る。

 技だけでは不充分、体だけでも不充分。

 刃に心を乗せる術を剣道家一ノ瀬宗助は知っている。

 自分ではない誰かのために振るう剣ならば、死中に踏み込む事ができる。


 一ノ瀬は裂かれた頬を斬り進んでいく槍の刀身を、奥歯を噛み締めて受け止めていた。




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