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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十六話
117/224

【闇路】⑥

   ◆




 事実として、一ノ瀬は左肩を負傷している。

 これが道場での稽古、スポーツとしての試合であるなら痛みで肩が上がらないだろう。

 しかし、今向けられているのは抜き身の真剣。大会用に刃先を丸めた槍ではなく、刺突が死に繋がる尖鋭である。

 実戦の刺突は防刃服で防ぎ切ることは出来ない。

 ただの枷にしかならないとばかりに両者互いに防刃服を着けず生身で戦いに挑んでいたが、それは真に一撃で勝敗が決する事を意味する。


 死に直面する時、人の体は制約を無視して動く。

 一ノ瀬は普段と変わらない気力を宿らせ、北辰一刀流【星眼の構え】の剣尖を上下させていた。


 泥蓮の中段も大会の時と同じく、柔らかに先端を揺らして相手の打突を待ち構えていた。

 一叢流槍術、【迎枝(ムカエ)】。

 弾き、払い、打ち落とし、巻き落とし、どんな牽制があろうと中段構えを維持できるならば、向かい来る者は全て自らの踏み込みで刺突される。

 距離の有利を活かし、中段構えのまま間合いを詰めるだけで勝利を手にする槍の基本にして極地の術理。

 一ノ瀬の技の粘りは前試合で測り終わっており、一刀流の【切落し】でも弾き落とすことができなかった時点で、『芯を取る』ということに関して大きな力量差が存在するのは明らかであった。

 続飯付は柔剛で刀身を押さえる技術であり、決まった動きを辿る単一の型ではない。

 思い付き程度の攻略法では打開出来ないことを両者共に認識していた。


 にじり寄るように間合いを詰める泥蓮。

 迫る穂先を避けるように後退を繰り返す一ノ瀬。

 両者共に打って出る気配はなく膠着状態にも見える対峙だが、心理的な優劣が生まれ始めている。

 埒の明かない劣勢に窮したのか、一ノ瀬は口元を緩め声を上げた。


「恐ろしいな君は。古流を学べば追いつけると思っていたが、古流を知った今の方がより恐ろしく感じられるよ」

「半年かそこらで追いつかれてたまるか。一人で現れた愚かさを呪え」


 鉄華が手負いの一ノ瀬に全てを託すわけがない、というのが泥蓮の見解である。

 一ノ瀬を通して警察を動かして欲しいという要請だったのだろう。

 再戦に固執した余り、単身で駆け付けた愚かさを嗤っていた。


 しかし泥蓮の心中を察した一ノ瀬は「そうじゃない」と静かに諭す。


「君らは公安が動いていると思っているようだが実は少し違うんだ。日本にも躊躇なく引き金を引く組織があることを知っておいた方がいい」

「……背後に何があるか知らんが、とりあえずこの瞬間は槍で押し通ることにするよ」


 特別高等班は手段を選ばず成果を得る為に編成された組織である。

 邪魔なら排除し、漁夫の利があるなら犯罪でも放置する。

 正義感で泥蓮の決闘を穏便に止めてやる理由など彼らには存在しない。

 一人で来たのは鉄華の想いを汲んだ上での判断であることを、一ノ瀬は言外に強調していた。


「君はそうやって古武術のみに縋って生きようとするから周りが見えなくなるんだ」

「おいおい、昼間まで女子高生殺す気満々だった奴が説教始めるのか? 負けて悔しいのは分かるが哲学で自慰すんのは見えない所でやってくれ」

「はは、君に負けて悔しいという点は否定しないけどね。それでも気付いたんだよ。君も僕も暴力が全ての世界で孤独に生きているわけじゃない」


 泥蓮が煽り返そうと口を開きかけた瞬間、一ノ瀬はタイミングを図っていたかのように大きく後退して上段に構えた。


「だから止めるよ。他でもない鉄華ちゃんのためにね」


 突き技が主軸の素槍の前で剣尖を上げて構えることは容易ではない。

 本来一ノ瀬が得意とする剣道の片手面では続飯付に勝てないことも明白である。

 後の先で刀身をぶつけ合わせて折り敷く一刀流の【切落し】を知るからこそ出来る覚悟である。

 『一刀』とは切落しのことであり、多彩な組太刀も多角的な切落しを如何に決めるかに集約され、その理論は高上極意と呼ばれる奥義にも適用される。

 泥蓮は一ノ瀬の大上段を見た瞬間に、切落しで相手の剣を折り敷いてから突きや小手を狙う【金翅鳥王(こんじちょうおう)剣】だと読んだ。

 懲りずにもう一度粘り勝負する為に上段からの撃力を使う気だろう、と。


 一ノ瀬の拙い工夫を嘲笑うかのように、泥蓮は中段構えを維持したままジリジリと前進し続けることを選択する。

 試合の時のように数突きの牽制は使わない。

 先に攻める必要がないからだ。

 充分な広さの競技場とは違い、背後に何があるかも分からない暗闇の廊下である。

 後退を続ける一ノ瀬はいつか必ず背後を確認するか、何かにぶつかって居着くことになる。その瞬間を待つだけでいい。

 真剣勝負である以上、どんな意図を持っていようが付き合ってやる義理は微塵もない。


 静謐の暗闇に二つの熱が揺らめく。

 天井のどこかから空調の風が流れ込んだ時、息継ぎのような浅い吸気が通路に響いた。

 続いて運足で揺れる袴の衣擦れ音。

 先に仕掛けたのは一ノ瀬であった。


 焦れて先の先を狙う、それは泥蓮が備えていた予想の中で最も下策である。

 如何に撃力が強くても、使う技が分かっているならば先に応じ技を仕込んでおくことができる。

 相手が想像する打突の衝突点より前で刀身を摺り合わせ、衝撃を吸収しながら威力を削ぐ。

 柔らかに、強かに、包み込むように槍の穂先を操作して上段からの切落しを受け止めると同時に、月光を反射する先端は一ノ瀬の喉元を向いていた。


 ――人生初の殺人。


 泥蓮に躊躇は無い。

 死は弱者に訪れるただの結果だ。

 刃の下に飛び出して死中に活を求めるという古流の覚悟は、策を全て使い果たした後、最後の最後にする選択肢である。

 劣勢を感じながら踏み込むくらいなら、まずは逃げて体勢を立て直し、投擲できる物を探しながら有利な状況を作るべきだったのだ。

 蛮勇は兵法に非ず。

 泥蓮は何の感情も乗らない穂先を無慈悲に突き出した。


 だからこそその(・・)瞬間に泥蓮が取った動きは、直感を超えた反射と言う他なかった。


 剣尖迫る一ノ瀬の喉元が更に踏み込んで来るように見えた時、気付けば泥蓮は柄の握りを緩め、後退の運足で石突近くの後柄まで移動している。

 低い確率ではあったが予想の範囲内にあった小さな懸念が身体を動かしていた。


 構えは北辰一刀流、打突は小野派一刀流。

 どちらも剣道に近い体系なので一ノ瀬なら地続きで習得できるのかもしれない。

 しかし大会では単に『一刀流』と名乗っている。

 この一刀流とやらが派閥を超えたものだとすれば、確実に警戒しなければならない技がある。


 正面に居たはずの一ノ瀬が、泥蓮の視界の右隅を掠めた。

 膝抜きの運足に加え、闇中の黒装束である。

 錯覚とも言える速度で転身した一ノ瀬は、止められた切落しの先端を残しつつ、泥蓮の真横から脇腹を狙って腰溜めの突きを放っていた。


 それはかつて、激化する戊辰戦争の渦中にあった会津藩で、幾度も失伝の危機に晒されながらも口伝のみで受け継がれていた奥義。

 溝口派一刀流、【左右転化出身太刀】。

 仕太刀が技を返すという一般的な剣術型に於いて、先に動いた打太刀が勝つ特殊な技。

 柳生新陰流の九箇に近い術理が一刀流の歴史にも存在する。


 泥蓮は槍を引き戻しながら、迫り来る突きの横から柄を当てて軌道を逸して対応する。

 防戦に追い込まれたが、今だ展開は想定内。

 石突を一ノ瀬の前足に落とし、そのまま股下に滑り込ませて棒術へと移行し始めた――瞬間、泥蓮は左頬が爆ぜたように思えた。


 突如襲い来た衝撃で小さな体躯が宙を舞う。

 泥蓮は身を捻って着地に備える最中、眼下の一ノ瀬が袈裟斬りを放とうと構えているのを見た。

 知識にある技だが一刀流の技ではない。

 されど一ノ瀬の経歴を鑑みれば、予め警戒しなければならない技である。


 一ノ瀬は突いていたはずの木刀を引き戻し、代わりに前に突き出した肘で体当たりを捩じ込んでいた。

 左右転化出身太刀を囮に居着かせ、本命で狙うは浅山一伝流の【阿吽(あうん)】。

 それは警視流の技であった。




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