【闇路】③
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師曰く、『風水の音をきく』ということ。
宮本武蔵は五輪書に於いて眼で見ること『見』、心で察知することを『観』とした。
観見二つの目付けを若き奏井が理解した時、もはや老齢の師は『あれ』『これ』を指示をする必要性すらなくなっていた。
老眼鏡が必要になった時、煙草を吸いたくなった時、盆栽の剪定時、食事、風呂、着替え、就寝前の瞑想、起床後の稽古。
全ての行動を起こす前には、既に奏井が必要なものを揃えて準備を終えている。
食事の好き嫌い、気分による衣服の選択すら先回りされて整えられた時、その察知能力は奏井の剣にも適応される術理と成っていた。
打つ前の気運、剣の軌道、構えと左右の得手不得手、技の癖、全ての機微を繊細な観察力で看破する『水月』の境地。
長い修業の果て、ようやく意を解した奏井に師は告げる。
「風も水も何かにぶつかって初めて音を発するが、それ自体は音を持たず自由に漂う。お前もそうなら風水の如く柔剛ある立ち振舞いが出来ようぞ」
身体は常に懸かる気運を宿らせながら、心根は音を発する瞬間を待つ。
備え、観察、想像を極限に磨き上げた時、未来視に近い洞察と風水の如く無形の対応力を宿すことが出来る最後の教えを以て、奏井は免許皆伝を得た。
それは永遠に続く武の道の入り口でもあった。
奏井は篠咲の突きが迫る最中、風の音をきいていた。
篠咲の構えと運足は古流に対応しているが、防ぐ時、打って出る時は右側が前に出やすい。
長い剣道経験が癖になっている。
柄を握る右手も固く閉じられていて竹刀操作の感覚が色濃い。
真剣の扱いは小指薬指中指を閉じ、残りは『龍の口を開く』ように開放しなければ柔を欠く。
突き技も刀身を横に寝かすことなく、中段構えを真っ直ぐ伸ばすだけの愚直な竹刀競技である。
立会の中で蓄積する情報が奏井の身体を動かしていく。
左に弾かれた剣尖を右に戻し顔の前で横一文字に掲げた。
笛を吹くかのように刀身を寝かせる構え、【執笛勢】。
全ての攻め手に対して洗練された応じ技が存在する柳生新陰流だが、この構えから放たれる技を篠咲は知る由もない。
目録を得ただけの篠咲静斎では辿り着けなかった奥義の太刀がある。
奏井の取った行動は、執笛勢の構えからただ前進し両手を前に突き出す、それだけであった。
それだけの動きであるにも拘らず、篠咲の突きは奏井の頭部を逸れ、紙一重で面防具を掠めて外れる。
未知の構えから未知の打突、巧みに心理を操作された果てに迷いで引き出してしまった防御行動が突き技を鈍らせていた。
対する奏井の刀身は横一文字に突き技の上を滑り込み、篠咲の上腕を掠めて喉元に到達している。
柔らかに当たった腕が剛く固定されて、踵で身体を支える運足が篠咲の突進を堰き止める壁を形成する。
突きを放ったはずの篠咲は喉元を押さえられ、勢いを付けた下半身だけが先行して宙に舞っていた。
奥之太刀【添截乱截】。
本来は上腕を斬る技であるが防刃服を考慮してより殺傷力のある術理を選択している。
だが奏井は手応えを感じる前からこの技で篠咲が倒れるとは考えていない。
投げ技のように働かせた奥之太刀を喰らいながらも、篠咲は浮かされる最後の一歩を強力に踏み込み、自分から跳躍して後方宙返りすることで投げ倒されることを回避している。
地に倒してからの下段突きにはまともな返し技が存在せず、本大会でも何度か決定打となっている。篠咲といえど為す術はない。
飛ぶか伏せるか。
それは両者にとって単純な二択であったが、先に答えを得ていたのは奏井の方である。
踵で支える運足を利用してその場で旋回、遠心力を乗せた先端をバックブローの要領で後方へと奔らせながら、奏井は篠咲の運否天賦を試す。
身動きの自由が効かないという点では地上よりも空中にいる方がより状況が悪い。
篠咲に出来る選択は宙返りしながら刀を立てて防御することのみで、守る箇所も選ばなくてはならない。
奏井は防御しなかった部位を全力で斬る覚悟を決めていた。
足を守るなら頭を。頭を守るなら足を。地に着いてからの追い打ちも躊躇うつもりはない。
決着の一撃を受けて死に至るかどうかは篠咲の運次第である。
「足掻いてみせろ!」
猛る。
一度は救うと決めていた同情するべき敵だが、余裕を見せられる戦力差ではない。
手加減なしの全力を振るう剣戟の合間、最後の良心が口から零れて敵を試していた。
空を切る風鳴りよりも先に首を回して篠咲を捉えた奏井は――見た。
本来後方宙返りでこちらを向いているはずの女は、上下逆さの背を向けて宙空にいた。
防御などしていない。
後方宙返りだと思っていた跳躍は、踏み込みの時点で横軸の回転を加えていたのだ。
振り返りながら剣を奔らせた奏井と同じように、空中で身を捻りながら剣尖を繰り出す篠咲は笑みを浮かべている。
奏井は自身が振り返る勢いで篠咲の刀身を迎え入れ、左横面が爆ぜたように思えた。
ポリカーボネートで守られた前面部とは違い、防塵繊維で覆われているだけの横面が圧し切られるように変形する。
鼓膜が破れる音、側頭骨が砕ける音、中耳内を支える三つの微小骨が軋む音。
或いは、鼓膜が破れた時点で音ではなく振動を感じていただけなのかもしれない。
意識は鮮明に在る。
だからこそ奏井は急に回転する視界に戸惑う。
互いの位置的に足払いで転ばされるわけなど無いのに、頭部が吸い込まれるように地へと向かっていた。
平衡感覚が消失していることに気付いた時、地に伏した奏井は喉に埋まる篠咲の刀を見ていた。
――静斎め。とんでもねえ化物拵えやがって。
声にならない思いが血の泡となって口から溢れる。
未来予知に等しい攻防の先回り。
奏井が人生を懸けて追い求めた水月の境地は、若干二十一歳の小娘の手中に完全なものとして存在していた。
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「あちゃー、奏井さんやられちゃいましたね。……デレ姉はアレどうするんすか? ほぼ無傷のまま勝ち上がってますよ?」
モニターを見ていた木南一巴が忌憚のない意見を述べた。
その態度を見た泥蓮は茶菓子を貪りながら眉をひそめた。
「なんだ? 今更私が心配かぁ? 一人だけ懐温めた余裕見せてんのかぁ?」
泥蓮が指摘するのは能登原から奪った金の行方である。
最終的に計画に関わる三つの陣営で分配しているが、泥蓮自身は受け取りを拒否していた。
「お、お金は要らないってデレ姉言ってたじゃないっすかぁ……」
「おいおい、汚い金掴んだら貧者にバラ撒くのが義賊ギルドの掟だろ? お前みたいなガチ盗賊がいるから世界から争いは無くならないんだ」
「私挟むことでマネロンする気だったんすか……警察に捕まったら首謀者だとゲロりますよ」
「そこは少年法を盾に頑張れよ。大好きなカロリーメイト差し入れするからさ」
「今眼の前にいる悪党に義賊の血が騒ぐっすね」
瞳に暗い影を落とし始めた一巴を無視して、泥蓮はソファに寝転がって股を掻いて欠伸をしていた。
「まぁ、奏井が勝とうが負けようが計画は変わらないよ。金の亡者どもは巨悪を潰す大義名分掲げて義憤に燃えているがいいさ」
「どの口で言ってんすか……」
勝とうが負けようが、という点では泥蓮と篠咲の対決も変わらない一巴である。
充分な報酬を得た今、契約を果たさずに逃げるのも最悪の状況を考えるならばプランの一つであった。
「能登原はどうなったんだ?」
「洗濯カートに入れて恨みのある方々に引き渡しましたよ。能登原もこっちを皆殺しにする寸前だったので正当防衛ってことで」
「おー怖。忍者マジヤバいー」
由々桐の相棒である百瀬は中国に潜伏していた時、能登原に仲間を何人か殺されている。
百瀬自身もテロリストとして多数の命を奪った人間の一人であり、殺し合いの螺旋から抜け出ず留まった者同士の決着は血を流さずには終われないだろう。
能登原への同情心は裏の事情を知れば知るほどに薄れていく。
一巴としては、彼女が今頃どこかで埋められているとしても思うことなど何もなかった。
「篠咲との手引きは由々桐って人がやります。試合に出てた眼帯のオッサンです」
「信用できるのか?」
「できませんね。篠咲の排除という利害が一致しているだけっす」
「充分だよ」
最後の確認を終えた泥蓮は、仰向けの顔の上にアイマスク代わりのタオルを乗せた。
二試合を終えて無傷という点では泥蓮も同じである。
一巴は計画の流れの中で、泥蓮と篠咲の戦いが見られないことを少し悔やんだ。
「では手筈通り、今夜、戦う場を整えます。今はゆっくり仮眠でも取っててください」