【闇路】②
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試合場にはどこか懐かしい血と汗の匂いが漂っていた。
日本で、海外で、路上で、森で、地下闘技場で、いつも傍にいた匂い。
武器を用いた勝負、その八試合目ともなるとこれまでの闘技者の足跡が否応なしに見える。
充分な安全策を取っているとはいえ、多くの血が流れている。
誰か一人くらいは死んだかも知れない。
観客の叫び声が圧となって場内を吹き抜ける渦中で、奏井は前方の女を睨む。
篠咲鍵理。
愛嬌のある笑みを乗せて対峙する彼女は、わざわざ大金を注ぎ込んでこの舞台を整えたのだ。
奏井は約束がある以上どんな形でも戦いに応じるつもりでいたが、篠咲が何の意図で衆人環視の環境を選んだのか分からずにいた。
試合場に立った後も改めて少し考えたが、奏井は短く息を吐いて結論を出すのを諦めた。
答えが出ない問答は居着きになる。
ルールの存在が負けた時の保険になるのかもしれないし、ただの名誉欲かもしれないし、別の割符を持った者の要望だったのかもしれない。
今ではどうでもいいことだ。
奏井は静かに愛刀『籠釣瓶』の鯉口を切り、眼前に立てた鏡面を辿って大会ルールで削られた先端を確認する。
惜しくはない。
この刀の最後がこの場であるならばそれでいい。存分に剣技を振るう事で供養する。
今生の別れとばかりに刀身を眺めた後、先端をゆっくりと下ろして芯を通した。
剣尖は相手の喉へ、手元は正中線から左寄り、刀身で右小手を隠す柳生新陰流【青岸の構え】。
奏井が構えるのと同時に篠咲も抜刀していた。
薩摩拵の柄を顔の右側に持ち上げ、示現流の蜻蛉で構える。
動きに迷いがない。
彼女なりにこの日この瞬間の対策を練り上げているのだろうと予測した。
在りし日の静斎曰く、玄韜流は進化する武術とのことだが、根底に示現流の流れがある事が分かる。
剣道の千葉を倒したのも示現流の技だ。
静斎は武者修行の過程で多くの武術を学び、柳生新陰流をも取り込んでいるはずだが、取捨選択の果てに他流の構えを取られることが奏井にはどこか挑発に思えた。
彼我の距離は三メートル。
互いに構えたまま動かない。
宙に舞う埃すら捉える極限の集中力で、互いが互いの起こりを待って息を潜める。
篠咲の蜻蛉の構え、示現流は最速の先の先【雲耀】を至上とする攻めの剣術である。
しかし彼女から動く気配は見られない。
その警戒心から、奏井は篠咲が柳生新陰流をある程度識っていることを悟った。
後の先を狙うことが多い古流剣術の中でも、柳生新陰流は特に待ちの剣術である。
あらゆる相手の技を看過し、時に相手に従い、時に虚を突く力技にて一撃の元に屠るのが基本だ。
故にその術理を知る者ほど先に動こうとしないのはよくある状況だった。
初手に特化させすぎた薬丸自顕流とは違い、示現流は多くの状況を想定した太刀型も内包している。
或いは蜻蛉から放つ応じ技が玄韜流にはあるのかもしれない。
焦れて動き出す瞬間を狙う二人は互いに動けないでいたが、その対峙は拮抗していなかった。
篠咲は柳生新陰流を識っているが故に動けず、奏井は玄韜流を知らないが故に動けない。
奏井に向けられる篠咲の視線が実情を雄弁に語る。
既知と未知。
一撃で勝敗が決する武器術に於いてこの差は大きい、と。
挑戦しておいて相手の打突を待つという挑発に奏井の頬が緩んだ。
「嫌味な女になりやがって。いいぜ、少しチャンバラやってみるか?」
言うが否や、奏井は間合いを詰めて右袈裟斬りを放った。
青岸から小さく持ち上がる剣尖が蜻蛉構えの左腕を狙って振り下ろされる。
示現流の蜻蛉は『左肱切断』という左肘の固定により最速の剣技を実現するが、同時に動かない左腕が死角を作る。
先に左腕を打たれる、もしくは左手を離しての片手打ちになれば、最速の斬撃といえど防刃服に威力を殺された小手先の技と化してしまう。
だが左腕を狙う奏井の袈裟斬りは空を切り、振り切った肩を晒して居着くことになった。
この時、篠咲は更に大きく腕を上方へ伸ばし、示現流の蜻蛉よりも更に高い八相構えへと移行している。
薬丸自顕流の蜻蛉とは違い、腰を深く落としていない。
奏井は見開いた目で篠咲の動きを捉える。
それは既知の構えであった。
【霞太刀の構え】。
霞太刀の構えで袈裟斬りを躱す抜き技、それは柳生新陰流に於いて【燕飛の太刀】と呼ばれる連続技の一技法である。
示現の蜻蛉を誘いとする、超派の選択肢を持つからこその抜き技。
篠咲は燕飛の太刀【浦波】を辿り、膝を畳みながら折り敷く雲耀の袈裟斬りを返す。
しかし攻防はまだ奏井の意図の内にある。
柳生新陰流が先に攻める時、それは初手を誘いとする後の先に他ならない。
袈裟斬りを振り切って肩を晒しているのは居着きではなく、その体勢を誘いとしている技である。
九箇の太刀【逆風】。
【九箇】と呼ばれる九本の太刀技は、新陰流流祖である上泉伊勢守信綱が念流、神道流、陰流の技を学んで纏めた攻めの技法である。
振り切った刀は脇構えの位置で一旦固定され、篠咲の袈裟斬りの拳を狙って切り上げられた。
第五試合、犀川秀極が見せた力技の斬り返しとは違い、巧みに術られた戻る太刀。
更に、新陰流に於いて横位置からの斬り上げは【一刀両段】の術理も内包している。
尾張柳生の一刀両段は面打ちの【合撃打ち】、江戸柳生の同じ技は横から放つ斬り上げ、と異なる技術体系を抱えているが、基本の理念は変わらない。
『打突の芯を取って粘り勝つ』。
踵を起点にして爪先を浮かせるという剣道とは異なる運足を使い、足腰の力で押し込む術理が根底にある。
雲耀と一刀両段。
ほぼ同じタイミングで開始した応じ技は、衝突の瞬間、刀身が弾け、飛び散る火花が互いの顔を照らした。
合わさる双刃はどちらも譲らず留まり、押し合う鍔迫り合いへと移行する。
「はは! 何だそりゃ!?」
奏井が吼える。
背骨を歪めるほどに伸し掛かる圧力は女人の膂力ではない。
老いたとはいえ鍔迫り合いで押されると思っていなかった奏井は、即座に力比べを放棄して柄から離した左手を刀の峰に添えた。
峰押さえで刀を受けつつ、右肩右足を引いて身体ごと旋回して剣尖を相手へ突きつける、九箇の太刀【捷径】。
しかし向ける剣尖の先に篠咲はいない。
奏井の旋回に合わせて同じく左側に回り込んでいる。
――もはや疑いようもない。
篠咲は柳生新陰流の【三学円】【九箇】【燕飛】合わせて二十の太刀型を把握している。
把握するだけでなく身体に染み付くほどに対応する動きをシミュレートしている。
――静斎のクソ野郎が。
他流を取り込み、対応策を用意する。彼はそのためだけに門弟として名を連ねて柳生新陰流を学んでいた明確な敵だ。
過去には御留流として門外不出だった術理も、現代では容易に触れることが出来る。
静斎の言う玄韜流の進化とは、時代の流れで扱われ方や倫理が変わる過去の叡智を盗みだすことだろう。
彼が集めた情報は余すことなく娘へと伝えられている。
奏井は対応策の更に対応策を構築する僅かな時間を必要とし、迫り合いの離れ際、剣道で使う引き技を小手へと放った――が、その刀身は右方へと弾かれてしまう。
またも既視感のある技。
中段構えのまま小手をスナップの横打ちで弾き落とし、そのまま前進して突きを狙う篠咲の動きに、奏井は若き日の自分を重ねていた。
九箇の太刀【和卜】。
鏡写しの剣士の技は、今の自分が失ってしまった往年の鋭さが乗っている。
――なんと若く、傲慢な……。
突きの先端が迫る長く短い時間の中で、奏井は己の未熟を戒めた。
そして新たな決意を脳内に巡らせた。
――救うのはやめだ。まずは、斃す。
武芸者として海外を巡っていた時代の感覚が、古びた脳のどこかから引き出された。
眼前の女を強者として認め、湧き上がる破壊衝動を血流に乗せて巡らせる。
技術を盗んだ泥棒の流派とその末裔。
上澄みを掬って思い上がる彼らに、深層の汚泥を啜らせてやる。
柳生新陰流の底の深さを後世に残る教訓として刻んでやろう。
奏井は研ぎ澄まされていく凶暴性に身を委ね、漂う良心の最後の一欠片で篠咲鍵理の人生を憐れむ。
その顔は無意識に嗤っていた。




