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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十六話
112/224

【闇路】①




「おい小僧。あれ持ってこい」


 老齢の男が言った。

 縁側で禿げ上がった頭を掻いて床に敷いた新聞を眺めつつ、眼前に立つ若者、奏井至方に指示を飛ばしている。

 先日、二十歳にして流派の目録位に到達した奏井は、師の紹介で訪れた山小屋の庭先で途方に暮れていた。

 便宜上この老人を師の更に上に位置する者だと思うことにしているが、初対面からまだ五分も経っていない。


「あれとは何ですか?」

「あれはあれだよ。早くしろ」

「……」


 釈然としない。

 そもそも急にあれ(・・)と言われても分かるわけがない。


「おい、いつまで突っ立ってるんだ? やる気ないならさっさとケツ捲って去ねや。俺が小学校の先生に見えるか?」


 徐々に荒くなる老人の語気に少し腹を立てた奏井は、そさくさと靴を脱ぎ、無遠慮に屋内へと踏み入った。

 乱雑な室内から老人の求める物を推測し、ちゃぶ台の上にあった喫煙道具を手に取るとまた縁側に戻って老人の前に置く。

 すると老人は奏井を一瞥して喫煙道具を庭に投げ捨てた。


「これじゃねえよ間抜け。あれだっつってんだろ」


 ついには怒号を上げ始めた老人に対して、奏井は息を潜め闘争の準備を開始していた。

 何が悲しくて頭のおかしい癇癪持ちの命令を順守しなければならないのか。

 あれだのこれだの指示代名詞から求めるものを把握するなど、もはや長年連れ添った夫婦間の意思疎通である。

 不明瞭な命令で難癖を付けて喧嘩を吹っかける気ならば、それは奏井の望むところであった。


 だが、老人から動く気配はない。

 相も変わらず新聞に目を走らせるばかりで、隙を付いて飛び出す気配すらない。

 焦れた奏井は老人から視線を切らないまま、後ろ手でちゃぶ台から適当に掴んだものを放り投げた。


「お、そうだ。これだよ、これ。オメエ眼鏡一つ取るのにどんだけ時間掛けてんだ」


 偶々掴んで放り投げた物、それは老眼鏡である。

 老人は眼鏡を掛けると指に唾を付けて新聞のページを捲り、先程とは距離を離して記事を読んでいた。

 注意深く観察していれば目が悪い老人の訴えが分かったかも知れない。

 しかしそんな介護じみた気遣いを学びに来たわけではないのだ。


 縁側で向かい合うだけの静かな時間に耐えられなくなった奏井は、かれこれ二十分近く新聞を読み耽る老人に質問を投げかけた。


「……あの、俺は師匠に言われてここに来たのですが」

「それはもう聞いたよ」

「俺は何をすればいいのですか?」


 奏井は免許皆伝を目指すべく奥義とされる口伝の術理を欲している。

 師の提案はこの傲岸不遜な老人と会うことであったが、もし彼が答えを持たず、ただ意味有りげに忍耐力を試しているだけなら相手にする時間すら惜しい。


「暇なのか? じゃあ、買い置きのあれとあれを切らしてるからダッシュで買ってこい。ついでに好物のあれも頼むわ」


 核心を突いたつもりの質問はまた要領を得ない命令で返される。

 それでようやく奏井は悟った。


 ――どこにでもこの手の奴はいる。


 化けの皮を剥がされないよう聖域を作り、態度から風貌まで全てを演出して悦に入る偽物だ。

 尊敬できる師の上にこんなどうしようもない弱者がいるのを奏井は許せなかった。


「調子に乗るなよジジイ。アンタが極伝の技を修めているとしても、その皺枯(しゃが)れた身体で俺をどうこうできると思わないことだな」


 もう取り繕う必要はない。

 謙虚さを捨て、挑発で以てして老人の退路を塞ぐことにした。


「あぁん? なーに跳ね返ってんだ小僧。無理強いじゃねえぜ? 不服なら失せろって一回言っただろ」

「おっ死ぬ前にさっさと教えるもん教えろって言ってんだよ。まぁあればの話だがな。目録位に負けるのが怖いなら素直に命乞いしてみろよ」

「くはっ、はっは、じゃあなんだ? 俺は道場でやるみてえに技の講釈垂れりゃあいいのか? それでオメエは完璧に理解すんのか? そりゃ便利だな、ええ? おい」

「そうだよ。師匠の紹介だから我慢しているだけだといい加減分かれよ」


 奏井は立ち上がって老人を見下す。

 彼我の強さなど測るまでもなく、圧倒的な身体差が技で覆ることなど無い。

 強さは年功序列ではない。


 老人には戦うという選択肢など端から存在せず、煽りと怒りで自尊心を保ちつつ戦闘を回避しようとするだろう。

 次に強がりを吐いたら、それが老人の最後だ。


 ――兵法家として言い訳できないほどの傷を刻み付ける。


 或いはこの偽物の排除こそが師の下した指令なのかも知れない。

 奏井は少しずつ膝を抜いて備えていた。


「よぅし、ならそうしてやる。庭出て構えろや。真剣でもいいぞ」


 吐かれる言葉に虚を突かれた。


 ――戦うのか?


 奏井の思いとは裏腹に、老人は逃げない。

 その僅かな居着きの瞬間に老人は立ち上がり、居間の隅に転がる木刀を拾い上げて再度促す。


「早く出ろ。何やらしても愚図かオメエは」


 ――上等だ。


 奏井も覚悟を決めて手荷物から木刀を取り出した。

 意図した流れではないが、実戦形式で学べるのなら最良の結果だ。

 強さはともかく老人が流派の高弟であるのは間違いなく、やけくそになって術理を開示してくれるのであればこれ程手っ取り早いことはない。

 古武術にありがちな修得段階の長さに閉口していた奏井だが、戦いに持ち込めば存分に秘奥の技を観ることが出来る。

 こうやって挑発してみるのも悪くはないと思えた。


 梅雨入り前の湿気た空の庭先、同門同流派の老人と若人が蟇肌(ひきはだ)竹刀ではなく木刀を構えて対峙する。

 右八相で構える奏井に対し、老人は剣尖を下げた【無形の位】。


「今から技の解説しながらボコるが、それで理解できなかったらパシリ行ってこいよ。あれとあれと好物のあれだぜ」

「は、やってみろジジイ」


 皆伝へと至る過程、口伝で修める秘太刀の修行は、偏屈な老人との死闘より始まった。




   ■■■




 時は流れ、六十歳を迎えた奏井は撃剣大会の控え室で夢と現の狭間にいた。

 皺枯れた手の内で木片を遊ばせながら、断片的な過去の記憶を繋ぎ合わせている。

 未熟で傲慢だった若造も今や挑戦される側。

 あの日の対岸に立つ奏井は自分の役割を理解していた。


 達観した大人がどんな手痛い教訓を残そうとも、教訓を集めて哲学という学問にして広めようとも、若さを止めるには不十分である。

 若さとは体験至上主義であり、世界の中心に自分がいるということだ。

 多くの哲学者と同じく血を流し後悔し何かを失った後、ようやく外の世界に気付く。

 人の一生は後悔の足跡によって形成されていく。


 一方で古い知人、一時は門弟として籍を置いていた先達である篠咲静斎は、生涯大人になる機会を得られなかった哀れな夢想家である。

 士族階級と剣力による治国平天下などというものが本気で存在すると信じていた。

 開拓時代の伝統で『銃を持つ自由』を保持するアメリカのように、『帯刀する自由』によって個人間の闘争に拮抗状態を作ろうとしていた。

 静斎は時代を逆行するパラダイムシフトを起こす目的で『公共の敵』を欲し、それが左翼活動に繋がる。

 人々の危機感を喚起する敵を産み出すため左翼活動家として闘争を影から支えて続けたが、最終的に待っていたのは失敗だけであった。

 彼ら(・・)は敵には成れたが世の中を変えることは出来なかったのだ。

 夢は儚く散り、理想の残滓が幾らか世界に火を点けたが変革の時は終ぞ訪れなかった。


 それでも静斎は失敗を認めなかった。

 思えばあの闘争の終わり、公安当局に逮捕された時に静斎は壊れたのかも知れない。

 老い先短い人生を悟っても尚、過去の失敗と思想の敗北を直視せず、死んだ後も夢を追えるよう娘を生き写しの自分として鍛え上げることに固執した。

 その犠牲になった悲劇の娘、鍵理は今、父の残した最後の試練に挑もうとしている。


 奏井は思う。

 娘だけでも救わなければならない。

 奏井が思想的に相容れない静斎から割符を預かることにしたのは、娘が父亡き後も哀れな傀儡として人生を踏み外し続けている可能性を考慮してのことだ。

 その時が来るならば、あの日庭先で対峙した師のように立ち塞がってやらねばならない。

 失敗の先にも人生はあり、世には多くの価値観が混在していることを気付かせてやらねばならない。

 何時だって何度だってやり直すことは出来るのだから。


 撃剣大会に際し突如現れた過去の亡霊、奏井至方。

 往年と同じく道場破りのようにして現役の門弟を打ち倒し、超派の代表を勝ち取った老人。

 その姿に誰もがかつての伝説を思い出すが、奏井は敢えて豪語する。

 今が最盛期である、と。


 しかしながら、相手が篠咲鍵理ならば一筋縄ではいかないだろう。

 予選試合のみで強さの底は測れず、さりとて滲み出る才気は往年の静斎をも凌駕している。

 倒すのではなく、殺すのでもなく、救う。

 奏井は過去の自分が今の自分に課した役割を全うするため、おそらく今生最後の剣技を振るうべく身体の全細胞に火を入れて舞台へと向かった。




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