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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十五話
110/224

【紅涙】⑦

   ◆




 左足前の半身。

 握っていた扇子は既に投げ捨てられており、前方に差し出す左手は緩く開かれ、顎に付ける右拳は固く結ばれている。

 その構えは単に【中段】と呼ばれるものであった。


 本来、対剣術を旨とする一叢流柔術は腕を上げて構えることはない。

 無構え、自然体が技の起点であり、間合いを測る手段は多くの場合運足に頼ることになる。

 それでも中段が必要になる状況が二つある。


 一つは相手も素手の場合。

 現代格闘技のように手数を重視する打撃が相手の場合、腕による防御で頭部へのダメージを軽減しなければならないからだ。


 もう一つは、片腕を捨てる覚悟をしなければならない場合である。

 前方に広げた手を囮として斬らせながら間合いを詰める、決死の構えである。


 しかし、こと小枩原不玉の中段にはもう一つの意味合いがある。

 差し出している左手が義手である点。

 それは真剣を防ぎ得る強度を持ち、小型の盾として機能する。

 不玉は義手の有利は極力封印して戦うつもりでいたが、命を賭して立ち上がる男に確実な防具の必要性を感じていた。


 安納が死に繋がるダメージを受けながらも立ち上がったのは勝算があるからだ。

 事実、真っ先に腰の鞘を捨てている。

 納刀からの居合、鞘そのものを武器とする技、仕込みの小柄を使う裏技など有用な点も多い鞘の保持ではあるが、柔術の見地で言えばテコを内包した弱点でもある。

 二刀構えも最初より腰が低く、両足はより流儀に近い大げさなまでの『ソの字』の撞木足になっている。

 全ては柔術を警戒してのことだ。

 痛みを相殺するメンタルで冷静な手順を踏んでいることが分かる。


 二刀と素手。

 対極にある二人は互いに息つく暇も与えず、円を描いて静かに間合いの半径を縮めていく。

 先に動いたのは不玉であった。


 安納は徐々に呼吸を回復させていたが、一方で与えたダメージは内臓に届いているはずであり、脳内物質で誤魔化して戦うには限度がある。

 しかし不玉は敢えて『待つ』という選択肢を副次的な目標に据えて攻めることにした。

 消極的な戦いに対して主催者がどう判定を下すかは分からないからだ。

 篠咲と敵対する相手を排除する理由になりかねず、能登原ならグレーを黒に変えることもできる。


 後ろ足を蹴っての飛び出しから、膝抜きで体勢を落とす二段構えの【勁草】。

 安納が横の運足の最中、片足を上げたタイミングを狙っての突進。

 義手は頭上に据え、不測の剣戟に備えている。

 難なく二刀の下に潜り込んだ不玉は、踏み込んだ足で強く地を叩く。

 そのまま突進の勢いを乗せた肘の打撃【華窮】を再び鳩尾に叩き込む――はずだった。


 更に体勢を落とした不玉は、足元の違和感に気付く。


 踏み込んだ右足が浮いている。

 大外刈りの要領で外側から巻き込まれた安納の右足が大きく後ろに持ち上がり、膝裏を使って不玉の足首を挟み取っていた。


 それは馬庭念流でも、二天一流でもない、フィリピンの武術エスクリマの動きである。




   ◆




 安納は記憶を辿っていた。

 かつて打ち倒してきた異国の武術は自身の血肉となっている。

 その中には日本の古武術には少ない、無手でも帯刀でも共通して扱える接近戦の術理がある。


 防御として掲げている義手を右脇で挟み取りつつ、相手の後頭部に回した左手の柄部を横から喉元に差し込む。

 後頭部から顎を押さえて引き抜く動作はナイフファイトが主軸であるシラットの動きだ。

 視界の下方から小枩原の右肘が迫っていたが、身体を密着させて胴体で起こりを押さえる。


 ――読み勝った。


 安納は小枩原の攻め手を完全に潰していた。

 足元、両手を封殺し、相手の防御の下から頭部だけを引き抜いている。

 密着しながら踏み込んだ右足を使い、更に深い大外刈で小枩原の左足も払って投げ落とす。

 右手の柄頭を相手の胸間に差し、着地の衝撃で胸骨を挟み潰す。

 全ては一瞬。

 完璧なタイミングで実行された一連の投げ技。


 胸骨を破砕する柄頭が地面の黒土を抉った瞬間、脳裏に描く約束された未来の映像が砕け散った。

 地に伏したはずの小枩原は、安納の背中に回っている。


 ――何だ? 何が起こった!?


 安納は脳より先に手足が感じていたことを追認していく。

 『脱力』。

 完全に固定していたかに思えた女の上体は脱力で重みを分散させていた。

 例えるならば、水の入った風船を掴むが如く。

 固体が液体に変わって手足の隙間から零れ落ちる感覚。

 投げ落としているつもりであったが、そのあまりに急激な体重移動で実際には引き込まれている(・・・・・・・・)ことに気付けなかった。

 掴まれているのは腰帯と後ろ襟。

 その技を知っている安納の背に悪寒が走る。


 講道館柔道に於いて【肩車】と称される技。

 相手の腹を肩で担いで落とす技の源流は、背中合わせに担いだ相手を頭から落とす古流の技である。


 天神真楊流に於いては【後山影(ウシロヤマカゲ)】。

 一叢流に於いては【落実(ラクジツ)】。


 両手の刀を放して頭部の防御に移るよりも、首の上下で衝撃を散らすよりも速く、天から降り落ちてきた衝撃が視界を白色に灯す。

 安納は悔しさを感じる間もなく、無残に地に伏し意識を喪失した。




   ■■■




「恥じることはありません。貴方はご立派ですよ。ここまで耐えるなんて私は予想もしていませんでしたから」


 廃墟のカビた空気は熱を帯びた血の匂いで生臭く塗り替えられている。

 床に滴る赤い河の上流ですすり泣く能登原は両足の指と右手の親指を失っていた。


「……早く……っ、早く解放しなさいよ!」

「今アクセスコードを由々桐さんに送信しました。本物であることが確認でき次第貴方は自由です」


 ――殺す。どこに逃げても必ず見つけ出して同じ目に合わせてやる。


 能登原は唇を噛み締めて耐えている。

 痛みではなく、心を埋め尽くす殺意が口から零れないように。

 痛みを耐えることは苦ではないが、思い出深い親指を切り落とされたのは耐えられなかった。

 熱湯消毒しただけのニッパーの鈍い刃は切断とは程遠い切り口を残しており、それは現代医療を以てしても接合不可能な永遠の喪失を意味する。

 何があっても許せない。

 今大会の裏で進行しているであろう全て思惑を無視してでも百瀬夏子を殺すことが最優先される。

 割符を得た後、用済みとばかりに命を奪いに来るかもしれないが、もしも本当に約束を守って生かして解放した時は全財産全生命を消費してでも報復する。

 割符などもうどうでもいい。

 百瀬を殺せる可能性が一%でも上がる選択なら何でもする、と淀む思考を巡らせていた。


 やがて携帯の着信音が響き、暫く画面を眺めていた百瀬は頬を緩めた後、SIMカードを抜き取って携帯と一緒に空の一斗缶に放り投げる。

 その上から液体を垂らして、ポケットから取り出したマッチ箱をカラカラと振ってみせた。


「確認しました。約束通り貴方を解放しますよ。おめでとうございます」


 百瀬は中指と親指で取り出したマッチを優雅な所作で擦って一斗缶に投げ入れる。

 立ち上る炎が室内に新たな光源として揺らめき、老女の顔に横向きの影を落とした。

 

「……なら、さっさと解いてくれないかしら」


 能登原は未だ駆け引きの中にいる。

 由々桐にはプロとしての矜持を感じられるが、百瀬のことは何も知らない。

 顔色一つ変えず拷問を実行するイカレたテロリストが約束を守るか守らないかは博打でしかなかった。


 百瀬は懐から取り出した折りたたみナイフをゆっくり広げながら「解放しますが……」と口を開いて一呼吸置いた。

 否定的な前置きに、能登原は緊張が走り抜けていくのを背筋で感じている。


「まず、換気しましょう。これでは二人共死んでしまいます」


 その言葉で能登原も一斗缶から立ち上る黒煙に気付く。

 百瀬は室内を埋め尽くす煙を掻き分けて進み、締め切っていた倉庫の扉を解錠して大きく開け放った。

 扉から黒煙が流れ出し、入れ替わるように冷たく新鮮な空気が入ってくる。


 ――何時間、経ったのだろうか。


 少し冷静になった能登原は改めて時間を測りだした。

 拷問の時間は体感で一時間程度だが、極度の緊張で時間が引き伸ばされることもある。

 篠咲と奏井の対戦がまだ終わっていない場合、最後の割符は宙に浮いたままだ。

 そうであれば百瀬が大人しく解放するとは思えない。


 ――まだだ。もう少し時間を稼がないと。


 急場で思考を回転させ続けている能登原は、――音を聞いた。

 空気が抜けるような甲高い音と同時に何かが破裂する音。

 それが連続して三回。


 飛び散った液体が能登原の足元に粘度の高い音を立ててへばり付いた。

 吹き込む風が新しい血の匂いを連れてくる。

 扉の前に立っていた百瀬の身体が、糸の切れた操り人形のように膝から力が抜けて崩れ落ちるのが見えた。

 頭部から噴出する血液がゆっくりと水溜りを作っていく。


 死んでいた。


 続いてコツコツと歩み寄る足音。

 近づいて来ている。

 何が起きているのか把握できず唾を飲む能登原の眼前に、ほどなく一人の黒い影が現れた。

 手にはハンドガン。

 影は文字通り黒ずくめの装備を着込み、シルエットからボディーアーマーや関節部のガードを付けていることが分かる。

 理解が追いついた能登原は喜びで息を荒げた。


 特殊部隊。

 公安だ。

 体内に仕掛けたGPSで足跡を辿って駆け付けたのだ。


 黒ずくめは周囲を見渡しながら声を上げた。


「あー、こいつが百瀬夏子で、あんたが能登原さんってことでいいのかな?」

「……そ、そうよ。貴方は公安かしら?」

「ん~。まぁそういうことになるのかな」

「はぁ? どうでもいいから、早く私を解放しなさい」


 気の抜けた返事に苛ついた能登原は語気を荒げて命令するが、黒ずくめは動かない。

 今だ部屋の状況を確認することに注力していた。


「……おい、おいテメエ! さっさと縄解けっつってんだよ!」

「ん? なんで?」


 能登原は苛立ちが頂点に達していたが、黒ずくめの返答に言葉を失う。

 助ける気がない以前に、公安であろう男は一人だった。

 周囲に仲間は誰もいない。


「なーんで俺が、クソ悪党のアンタを解放しなきゃならんのよ? パンツ丸出しでちょっと何言ってるか分かんないっす」


 単独で潜入してきた男は、床に転がる百瀬の手からナイフを拾い上げて、グローブに擦り付けるように切れ味を確認していた。


「……あ、貴方、何者よ?」

「俺? 聞いて笑うなよ?」


 能登原に向き直った男は、ゴーグルの奥の燃える瞳を歪めて言葉を紡ぐ。

 そこには明確な殺意があった。


「俺は正義の味方だ。でだ、能登原さんにはねぇ、聞きたいことが山程あるんだよ。もうちょっとお付き合い願いますかね?」




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