【怨嗟】②
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――夢を見る。
夢の中で覚醒した鉄華は、ああこれは夢なんだと気付く。
地区予選を間近に控えた剣道部は皆気合十分で稽古に励んでいた。
中学時代の記憶だ。
顧問の掛け声に合わせて地稽古と休憩のローテーションを繰り返す。
誰もが怠けることはなく、それでいてお互いを励まし合うことで意思を統一していた。
鉄華はその中に居ない。
体育館の端にただの傍観者として佇み、テレビの映像のように手の届かない光景を延々と見せつけられる。
家に帰ると祖父が居て、父が居て、母が居た。
夕食が終わると父が祖父の晩酌に付き合い、他愛のない昔話に花を咲かせている。
台所で食器を洗っている母も聞くとはなしに耳を傾け、時折沸き起こる笑い声に合わせて微笑んでいた。
鉄華は傍観者としてそれを見ていた。
見ていた。
見ていた。
見続けていた。
鉄華が居ないその世界では、誰もが幸せそうに生きていた。
誰かを犠牲にして救われた世界の後日談。エピローグの先の世界。
その小さな世界の幸せを願って自らを犠牲にした少女は、消えるでもなく、死ぬでもなく、自分の存在しない幸せな世界をただ見せつけられるのだ。
やがて目の前の景色は涙で滲み、混ざり合って、闇の中へ溶けていった。
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次の日もやはり雨が続いていた。
日増しに雨脚は強くなる一方で、氾濫した川が低地の集落を押し流すニュース映像がお茶の間を賑わしていた。
見栄えを気にする女子たちの間でも長靴を使用する者が増え、跳ねる泥が丈の短いスカートの裾まで届いている姿さえ見受けられる。
放課後になると体育館を溢れた運動部が渡り廊下を占拠し、規律よく掛け声を上げながらストレッチをしていた。
窓から見える校庭は、一面に水が溜まっていて小さな湖の様相を呈している。それはウユニ塩湖のような鏡面世界ではなく、荒れ狂う底なし沼のように全ての屋外部を拒絶していた。これでは悪天候強者との定評があるソフトボール部でもお手上げであろう。
鉄華はそれらの様子を横目で見ながら文化部の幸せを噛み締めていた。
雨になるとはしゃぐ無邪気な子供時代は遠に過ぎ去り、今では煩わしさの方が圧倒的に勝る。
怠惰側にある優越感のなんと甘美なことか。
汗を流す運動部の横を通り抜けるだけのことが、途轍もない背徳行為のようにも思えた。
心なしか軽くなった足取りで文化部棟へ向かっていた鉄華であったが、窓から見える校舎の裏庭に見覚えのある人影が立っていることに気付く。
藍色のレインコートから覗く横顔は木南一巴のものであった。
彼女はスコップを片手に花壇の前で立ち尽くし、肩を震わせて泣いているように見えた。
そのただ事ではない様子に驚いて、暫く歩を止めて呆然と眺めていたが、やがて一巴の方が視線に気付いて手を振りながら近づいてきた。
とりあえず事情を聞こうと思い、鉄華は窓を開けて「どうしたんですか?」と話しかけてみた。
「いやあ、恥ずかしいところ見られちゃったっすね。土砂降りの所為で折角植えたキョウチクトウの芽が流されちゃって、柄にもなく涙出ちゃったんすよ」
はははと笑う一巴の目は、涙で赤く充血していた。
「一巴先輩、園芸好きだったんですか?」
「もちろんすよ。今回育てていたのは優秀な毒物で……」
「あ、はい。さっさと埋めといてくださいね」
ピシャリと窓を閉じた鉄華は、何も見なかったし何も聞かなかったと記憶を上書きしてから部室へ向かった。
◆
「あら、春旗さん。まだいたの?」
コーヒーに角砂糖を放り込んでいた顧問の富士子は、部室に入ってきた鉄華を見るや否や少し驚いて不思議そうな顔をした。
「最上さんが血相を変えてあなたを探し回っていたわよ。なーんかいつもよりヤバそうな感じするから今日は帰っちゃってもいいよ。先生公認ということでさ」
富士子はシッシッと手で追い出す仕草をすることで、面倒事に巻き込まれたくないという言外の意思を表明していた。
例の兵糧丸対決の結果に関係なく、歌月は往生際悪く鉄華の勧誘を続けている。
「口約束を信じるなんてお可愛らしい。わたくしのルールを決められるのはわたくしだけですわ。おーほっほっほ!」と高らかに宣言する歌月の横で、一巴の瞳からハイライトが消えていたのを鉄華は思い出した。それと毒草を育てていたことがリンクしてしまい何か一波乱起こる前触れを感じてしまう。
「……わかりました。そういうことなら帰ります」
朝から何もかもが噛み合わないように思えて気が滅入る鉄華であった。
夢で見た世界のように自分の居場所が失われていくような感覚があるのは、この頃体を動かしていないからだと分析していた。
頭ばかり使う日々が続くと些細な事でも思い詰めてしまう傾向にある。それが日常の所作に現れて周囲にも避けられてしまうというループに入るのだ。
雨で躊躇していたが、久方ぶりにランニングしてみるのも悪くないと思った。
「ちなみに、古武術部って夏休みは何かするんですか?」
部室のドアを出たところで、昨日のファミレスを思い出した鉄華は振り向きながら質問した。
「いんや。デレ子ちゃんも特に何も予定していないと思うけど? あ、部室使いたい時は職員室で鍵借りれば大丈夫よ」
煎餅を噛み砕きながら富士子は答えた。
鉄華は並べたパイプ椅子の上で寝ている泥蓮を一瞥した後、「そうですか」と呟いて改めて帰宅の途に着いた。
静寂を取り戻した部室の中で富士子は無意識に嘆息した。
スマートフォンでパズルゲームをしながらも頭の中では別のことを考えている。
教師歴十五年になるアラフォーの富士子は、自身の経験を持ってしても鉄華の行動を理解できないでいた。
最初はサブカル好きを拗らせた変わった娘としか思っていなかったが、ここ三ヶ月間真面目に座学を続ける鉄華を見続けて評価は変わっていた。
剣道から古流剣術というのは地続きのように思えて実際は違う。
現代でその道筋を辿る人間は限られているのだ。
諦めた人間ではなく、納得できなかった人間が通る道であり、そこには普通ではない歪みがあることを知っていた。
しかし富士子は鉄華を咎める資格も義理も熱意も自分には無いと自覚している。
何かのきっかけで踏み越えてしまうくらいなら、文化部の怠惰な日常に埋没させてしまうのは正解だったのかもしれないと思っていた。
「あ~疲れたっす。植えた苗全部流されてましたよ。また一からやり直しっす」
鉄華と入れ替わるように前髪を濡らした一巴が入ってきた。
「あれ、フジコちゃん? 鉄華ちゃんはどうしたんすか?」
「帰したよ。うちの部員に手を出すとは、そろそろあのパツキンお嬢シメてもいいかもね」
「おー、刃女の剣鬼再来っすか? 新聞部にネタ売ってきますよ」
「やだもう、竹刀なんてもう十年くらい握ってないわよ。冗談よ、冗談」
八重洲川富士子も学生時代は腕に覚えのあった剣道家の一人であり、新任時代には剣道部の鬼顧問として名が通っていた。
だが、とあるきっかけで剣の道を捨てている。
その原因が失恋であることは、教員や生徒の誰一人として知る由もない。
「ん、んー…おぉイッパ、なんか甘いものとお茶頼むよ」
会話の声で目を覚ました泥蓮が、眠い目を擦りながら一巴に命令を下した。
「寝起きでいきなりおやつとか、どんな胃袋してんすか……」
「寝てるんじゃなくて瞑想だよ瞑想。ナメック星に向かうクリリンと悟飯もイメトレやってただろ」
「まだ寝ぼけてんすか」
貶しながらも一巴はヤカンに火をかけてお茶の準備を始める。
ちょうどその時、部室の扉が開かれて歌月が入ってきた。
「はぁ、疲れましたわ。あ、わたくしにもお茶を一つお願いできるかしら?」
富士子の隣に座ってもてなしを要求する来客を、古武術部の面々が殺気を込めて睨みつける。
「あらあら、嫌だわ。こんなに沢山の非難の目を向けられる謂れはありませんことよ。ご心配なさらずとも鉄華さんへの用事は今しがた終わりましたから」
音も無く立ち上がった富士子は扉に近づいてガチャリと施錠した。
その音で異変に気付いた歌月は振り向いた、――が判断を誤っていた。
立ち上がろうと腰を浮かし始めた頃には、背後から伸びてきたダクトテープが歌月の胴回りを既に三周していた。
予想の甘さを悔いて向き直る歌月であったがそこには誰も居なく、足元で動く一巴に気付いたのは両足首をパイプ椅子に固定された後であった。
その間、三秒である。
「なっ! ちょっと!」
必死の抵抗でガタガタと揺れるパイプ椅子の背もたれを一巴と富士子が優しく押さえつける。
歌月はいつの間にか正面に立っている泥蓮に気付くと、小さく悲鳴を上げて青ざめた。
安全ピンの針をライターで炙っている。
「跡を見るたびに思い出してもらわないとな。どこがいい? やっぱ眉間に『肉』が定番か?」
「まままま待ちなさいデレ子! 違いますのよ! 今回は勧誘とは別ですから!」
「はぁ? どう違うんだよ?」
赤く光る針の先端を歌月の眼前で揺らして尋問は続いた。
「鉄華さんの中学時代のご友人が剣道部に訪ねてこられたので探していただけです!」
「友人だって? あいつにか?」
泥蓮は予想外の答えに首を傾げ、ライターの火を止めてしまう。
「残念ながらご友人の方はもう帰ってしまわれましたが、託されたお手紙はさっき鉄華さんにお渡しすることができましたわ」
「ふーん、殊勝じゃないか。お前が他人の為にパシリやる人間だとは思わなかったな」
「ふふん、その認識は何も間違ってなくてよ? 今回の件もある意味、勧誘にも繋がるからこそですわ」
「やっぱ勧誘じゃねえか。そこに直れよ。健康を気遣って『魚』にしといてやる」
「な、誘導尋問ですわ! や、やめなさい! ノーカン、ノーカンですわよ!」
渾身の力で抵抗する歌月は、急に支えを離した一巴の所為でバランスを崩して椅子ごと床に倒れた。
床で藻掻く歌月を尻目に一巴は顎に手を置いて思索する。
「ん~? 鉄華ちゃんの経歴はなんとなく知ってるっすけど、剣道関連の友人なんているんすかねえ?」
「あいつは前線に置くタンク役としては優秀だからな。スネ夫みたいな取り巻きくらいいるんじゃねの?」
もはや歌月に興味が無くなった古武術部の面々は彼女を放置して元の席に戻っていた。
歌月は屈辱に次ぐ屈辱で涙目になっていた。
「モゲ姉、その話ちょっと詳しく聞かせて欲しいっす」