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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十五話
109/224

【紅涙】⑥

   ■■■




 敬意はない。

 試合ではない死闘の時は必ず相手を悪人だと思うようにしている。

 全力で叩き潰しても何ら良心の傷まない最低のゴミクズ。

 やりすぎて生涯残る傷を付けることになってもその分世界が平和に近づく一殺他生。

 そう思わないと後で無駄な後悔をすることになる。

 負けた言い訳を必死に探す論客と化した武術家ほど哀れな者はない。


 試合場に踏み入った安納林在は腰の鞘から二刀を引き抜いて構えた。

 長さは共に一尺四寸。

 打刀と脇差の中間、約五〇センチの長脇差は己が扱う術理の最適解である。

 僅かに外に開いた両腕を垂直に持ち上げ、切っ先を相手に向けて構える二天一流の中段。

 二刀の剣尖の間に対戦相手の女が映る。


 ――どうしたものか。


 安納は形而上の意識で自身の心境の変化を感じ取り、予選で小枩原に負けた貫心流の永野の居着きを理解していた。


 花がある。

 能の理論書『風姿花伝』でいうところの『花』。

 予選とは違い今回は面防具を付けているが、女の歩みは見飽きない術理に支えられている。

 上体は脱力にあるが正中線は振れない。

 丹田と膝頭は高さを変えることなく進み、足は地を掴むようでいて前後左右自在に備えている。

 武器術の大会に無手の柔術で挑むのは名を売るためのパフォーマンスではなく、負けた時の言い訳でもなく、鍛錬を重ね勝算を持っているからだ。

 愚直に古流を体現し、頑なに流儀を通す在り方に敬意を感じずにはいられない。


 それでも安納は揺るがない。

 相手の力量を把握し認めるに足るならばそこに男女差など存在しない。

 恨みも悪意も殺意も無いが問題なく全力をぶつけられる。

 いつものように構えで距離と起こりを測りながら、呼吸を刻み始めた。


 武器術、古武術の理論は大半が『後の先』である。

 どんな流派の型でもその多くは打太刀が先に仕掛け、仕太刀が躱し、或いは逸して技を返す。

 仕掛けるということは必ず起こりがあり、居着きがある。

 そこを狙う後の先の有利は全流派共通で普遍の強みになるのだ。


 対して柔術、無手格闘技は『先の先』の世界である。

 先に仕掛けて相手を操作しながら戦いの流れを作る。

 一撃で致命傷とはならない素手の打撃はコンビネーションが主体であり、合気のように受けて返す技に固執すれば主導権を失う。


 故に、安納は待っていた。

 小枩原不玉が膝抜きの浮身で攻撃に転ずる瞬間を。

 一歩、二歩。

 詰まる間合いを測り、呼吸を刻み、瞬きすらせず時間を圧縮していく。

 アールシェの言う直滑降の瞬間を見落としたら先を取られてしまう。

 これはそういう戦いだ。



 安納が間違いに気付いたのは、歩みを止めない小枩原が二刀の間に入ってきた後だった。



 もはや密着と言っていい距離。

 しかし互いに触れず、仕掛ける気配もない。


 【続飯付】の発動は相手の身体か獲物に『触れる』ことが必定である。

 触れることで相手の心理的、生理的な反応を読み取り、同調し、呼応して動きを逸らす、という段階を踏む。

 身体反射のレベルで行える後の先も万能の武器には成り得ない。


 当然といえば当然の流れ。

 安納は予選試合のみならず書籍でも戦いの足跡を記して、術理を開示している。

 対策を講じるならば続飯付への警戒は避けては通れない。

 前試合では素顔を晒していたが、今試合で面防具を付けているのは粘りで競り合う攻防を予想した上での行動とも言える。

 問題はこの先だ。


 五〇センチ程度の近接距離で歩みを止めた小枩原は、俄に頬を緩め、力みもなくゆっくりと左手の義手を持ち上げ始めた。

 手の内には木製の扇子が握られている。

 義手の動力そのものを武器とする機械の力での握り潰しはルール上禁止されているが、物を掴むことに関して不自由は無いのだろう。

 

 安納の目の前で突如、花が咲いた。


 視界を遮るように広がる花の絵は広げられた扇子。

 安納は余りにも分かりやすい仕掛けの合図に笑みが漏れる。

 近接距離ならば、柔術の間合いならば、剣技である続飯付が実行できないと思われているのなら心外だ。

 安納の続飯付は四肢のみならず、身体の各部位が独立して動く応じ技の極地である。

 打撃にも掴みにも対応するための二刀術である。

 視界を塞がれても相手が触れた瞬間身体は最適解で動く。

 無刀取を狙い柄部に触れたのなら即座に手放してもう片方で袈裟を下ろす。

 打撃ならば身の捻りで威力を殺しつつ両手で防御不可能な縦横の斬撃。

 投げで掴みに来るならば腕を払いながらもう片手で斬れる。

 視界の外で充分に振りかぶって【当破】を狙うかもしれないが、あれは体軸を垂直に捉えなければ押し込むことができない打撃であり、一度術理を見せてしまった以上問題なく対応できる。


 ――来ない。


 小枩原からは攻撃に転じるために動く気配が感じられない。

 身体のどこにも触れるものがない。


 にも拘らず、身体を押すように左に向ける力が働いている。

 その謎の力の正体は、左腰に差した鞘であった。

 小枩原は無刀取でも打撃でも投げでもなく、鞘を掴んで引き抜きながらテコで外側に押しているだけであった。


 安納の脳裏には腰帯に差した鞘を起点にする関節技、天神真楊流柔術の【鐺返(コジリガエシ)】が想起される。

 鞘を腰から抜き放つ為に身を捻り、相手よりも速く斬撃を振り下ろそうとする――瞬間、安納は宙に浮いていた。


 足絡みではなく、大腿部を下から持ち上げる膝。

 それは本来金的を狙う打撃であったが、側面へ向いていたことが功を奏し、安納は意図せず急所攻撃を避けていた。

 意図せず(・・・・)

 安納は自分で操作できない攻防の存在に緊張し、急激に発汗していた。


 躱した金的が膝裏を刈り取る投げ技へと移行している。

 小枩原にとってはどちらでもいいのだ。

 垂直に持ち上げる投げは受け身が取り難い。

 中空の安納は首に掛かる力を感じ取り、頭から落とされるのを避けるために身を丸めて衝撃を散らす受け身に備えた。


 その最中に、もう一点。

 鳩尾に掛かる力を感じ取った時には全てが遅かった。


 背中にぶつかる地面の衝撃。

 同時に鳩尾を押し潰す肘の打撃。


 血液の匂いが喉を駆け上がって鼻孔をくすぐり、ほんの少し遅れてやってきた吐血が面防具の内側に広がる。

 危機を感じた脳は痛覚の信号を遮断しようとするが、それすら追い付かない全てを塗り潰していく痛み。


「――档葉(アテハ)


 混沌蠢く思考の中に、女の声が響いた。

 追撃はない。

 女はその一撃が必倒のものだという自信があるのだろう。

 事実、安納は激しい痛みと嘔吐感の中、起き上がることも出来ない。

 内臓に深刻なダメージが出ている。

 脳が身体操作する処理能力を失う程の電気信号。

 身体を動かしているのは血液の誤嚥で蒸せる反射だけである。


 ――なんてざまだ。


 相手の動きを封殺する術理を携えて挑み、全ての意図を封殺されて地に伏す。

 無様な事この上ない。

 師を超え、武者修行と称して世界を駆け巡り、自分だけの技を手に入れ、親友をも打り倒して立った舞台。

 一撃も入れられず、呼吸すら出来ずに地面で藻掻くライバルをアールシェはどう思っているのだろうか。

 今も師、安納海星はどこかで見ているのだろうか。未熟な息子を嘲笑っているのだろうか。


 小枩原不玉は立ち上がって間合いを離し、タオルの投入か審判の判定を待っている。


 安納林在は燃え上がる怒りに支配されていた。

 誰かに向けられるわけもない憤怒を自分の中に閉じ込め、身を焦がす熱を循環させていく。


 ――そうだ、もっと怒れ。世界を見たくらいで強くなったと勘違いしているうぬぼれ屋が。


 痛みはもう無い。

 身体も動く。

 鳩尾へ落とされた肘は無意識に横隔膜の上下で受け止めて幾らか勢いを殺せていた。

 胸骨の剣状突起は折れたかも知れないが、四肢は折れていないし、どこも斬られていない。

 まだ戦える。

 戦えるのならば、勝利を確信して追撃を止めた小枩原を後悔させなければならない。


 地に伏していた安納は僅かな時間で痛みを抑えるメンタルを構築し、本人が思う以上に軽やかな動きを引き出して立ち上がった。

 血で汚れた面防具を外し、腰の鞘を投げ捨てて戦う意志を見せる敵を、目を細めて静かに眺めていた小枩原不玉は小首を傾げて声を上げる。


「お主、死ぬぞ?」


 脅しではない。

 身体の内部に残るダメージは今すぐ治療を必要としている。

 安納と小枩原の間に命を懸ける程の因縁はない。

 生き残ることを優先して、この勝負の反省を後の人生に活かすことだって出来る。


 安納は口を開きかけて何度か咳込み、口鼻から血糊を垂らしてようやく声を振り絞った。


「逃げるなよ。今からお前に追いついてやる」


 ――後の人生? そんなものを待って勝ち逃げされるのはもう沢山だ。


 再び二刀中段で構えた安納の視界の先で、女は呆れたように嘆息し、今大会で初めて構えて敵と対峙した。




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