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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十四話
101/224

【生存】⑥

   ◆



 袈裟斬りは当たり前のように、隻眼で見えない右眼側を狙って放たれる。

 左腰からの抜刀ならば更に死角は増えるので、犀川のみならずフェアプレーとは縁遠いこの場で狙わない理由がない。


 対する由々桐は強く短い呼気と共に鯉口を切っていた。

 抜き放たれた刀身はまず犀川の袈裟斬りを防ぐべく、左下からの斬り上げで相対する。


 互いの刀身が重なり合う寸前、犀川は牙を剥いて笑った。

 居合の弱み。片手操作の瞬間。

 後の先でも間に合うという居合の速度は充分な剣境を示しているが、それでも粘りを込めて両手で圧し斬れば終わりである。


 ――どこの誰とも分からない相手と出会って即殺す、それも悪くない。


 八雲會の特別闘技者戦は、戦う前に相手の情報を交換し合うことで攻防の密度を上げる。

 撃剣大会も流派が明らかな以上、調べようと思えばある程度相手の情報を得ることは出来る。

 しかし犀川は日馬琉一にしか興味がなく、他の相手を調べるという面倒を敢えて放棄していた。

 だが、それがハンデではなく、まさかのプラス方向に働こうとは予想もしていない。

 行きずりの相手だからこそ押し付けられる身勝手な欲望。

 よく知らない相手のよく知らない人生を踏み躙る背徳感。

 犀川にとって自分だけが最高に気持ち良くなる自慰行為と、相手の人権を無視した強姦は等価である。

 思えば遥か昔に通り過ぎた八雲會の下位トーナメントはそうであった。

 忘れかけていた快楽が、新しく開発した性感帯のように脳を刺激していく。 


 ――まず首を折り、倒しながら膝で睾丸を圧し潰し、前腕で喉を挟み潰す。面を剥ぎ取り柄頭で顔面を挽き肉にして、最後にじっくりと強姦した相手の顔を焼き付けてもらってから左眼を潰す。


 後に待つ愉悦の時間。

 始まりの初手。

 粘りを込めた対居合術の袈裟斬りは、由々桐が抜き放った刀身の上を斜めに滑り落ちて地に付いていた。


「は?」


 意図に反した結果に声が漏れる。

 居合を潰すはずの剣戟は強かに受け流されていたのだ。

 犀川は沸騰する怒りが足先から立ち上り脳を支配する直前、相手の術理を理解し終えていた。


 居合を抜き放つ前に、袈裟斬りを受け止める角度に鞘を捻ってから鯉口を切っている。それが速度の正体。

 抜き放った後は片手保持ではなく、即座に左手で柄部と右前腕を一緒に掴んで固定している。それが粘り勝ちの正体。

 かつての幕末、自顕流の太刀をも防ぎ得た立身流の【向】。

 犀川がその技名を知る由はないが、死角から斬り込んで居合に粘りで対抗するまでが相手の思惑の中であったことを悟っていた。


 瞬時に血液が煮えたぎる。

 心動が破裂するほどに脈打ち、血管を削る勢いで血を流す。

 焼き付く血流は筋繊維を隅々まで熱し、犀川の肉体は一瞬でウォームアップ後のパフォーマンスを引き出していた。


 由々桐の【向】は既に反撃の正面打ちに移行していたが、犀川の変化を感じ取った瞬間、即座に運足を止めて間合いを離すことを選択した。

 その目と鼻の先を逸したはずの犀川の剣尖が通り抜けていく。

 一度地を舐めた剣が向きを変え、土を巻き上げながら逆袈裟を辿って振り上げられたのだ。


「野村ァ! テメーよくも俺のオナニーを邪魔しやがったな!」


 犀川は激情に身を委ね、吠え猛る獣へと変貌を遂げていた。




   ◆




 由々桐の背に冷や汗が伝う。

 なんとか躱すことが出来たが、犀川の性能を見誤っていたことに認識の修正時間を要した。


 巌流の【燕返し】に代表される『戻る』太刀筋。

 天然理心流に於いては【龍尾剣】と呼ばれる技。

 共通するのは一撃目を『虚』として二撃目を『実』とする点である。


 犀川は居合を圧し折る渾身の『実』で剣尖が地に埋まる程の居着きを見せた直後、最速で二撃目を引き戻している。

 もはや人間技ではない。

 袈裟斬りを振り抜いた瞬間に何らかの方法で筋力を底上げしたとしか考えらず、或いは今見せている激情が筋温度を上昇させてピークパワーを引き上げたのだろうか。

 そこまで行くと武を超えた領域、異能の(わざ)である。


 猛り狂う犀川に対し、今度は由々桐が笑う。

 奇しくも異能対決となった舞台に、運命の皮肉を感じざるを得ない。


 右足元から立ち上る剣戟、死角の起こりを感じ取ることが出来たのは、由々桐が視力を失って手に入れた能力に他ならない。

 いち早く危険を察知しなければならない日常の中で、取り囲む群衆から自分に向かう危険だけを取捨選択する選択的注意。

 その先にある『選択的聴取』。

 暫しカクテルパーティー効果とも呼ばれる音の分解と選別を任意に行うことで、脳内映像に直結する情報を得ることができる。


 選択的聴力が強者にも充分通用することを確認した由々桐は次の段階に進む。

 手元は中段、左手左足前の逆構え。

 だが顔はやや右を向いて、正中線上に左眼を乗せている。

 人間の眼球は横方向に120度程の視野角を持つが、ピントの合わない目の端の像も含めれば180度近い情報を得ている。

 単眼でも体軸の中心に目を置くスタンスに慣れていれば両眼並に前面をカバーすることは容易い。

 問題は距離感である。


 中段で構える由々桐に対して、犀川は刀を右腰に引いた脇構え。

 今度は由々桐の左眼の外側に回り込む運足で、水平に通り向ける横薙ぎを放つ。

 右を向いて体の中心に左眼を添えることは出来ても、その分だけ左を向く首の運動は制限されてしまう。

 激情の発露を見せている犀川だが、死角を狙うという兵法は振れていない。


 横薙ぎで刀の競り合いに持ち込む技は天然理心流の【山陰剣】を思わせるが、由々桐の脳内で構築される映像は違う結論を出していた。

 犀川の踏み込みは深く、剣の攻防から柔術に移行する意図が見え隠れしている。

 天然理心流では柄や鞘を絡める関節技のみならず、拳による打撃も躊躇無く使われる。


 ――付き合う義理はない。


 由々桐は余裕を持って後退していた。


 犀川の身長は191センチ、リーチはやや短い184センチ。

 刀剣を保持した腕の射程は148センチ。

 踏み込み距離98センチ。

 つまり2メートル46センチの間合いが犀川の最大射程であり、その外に立てば刀剣を投げつけでもしない限り届くことはない。


 由々桐の聴力は音の強弱で対象の縮尺を具体的な数字で想起できるという、視覚に代わる新たな五感へと進化している。

 超音波振動を利用する生物のエコーロケーションにも似た距離感覚。

 それは左眼の視覚情報と融合して確固たる相対距離を算出していた。


 躱され通り過ぎた犀川の一閃はまたも強引に引き戻され復路を辿るが、由々桐は既に一歩退いた圏外にいる。

 中段構えに牽制の巻き落としを仕掛けると拒否するように引き戻され、捨て身の突き技で飛び込んでも剣尖は拳一つ分届かない。


 四撃を空振った後、犀川はようやく気付いた。

 相対する由々桐の身体がフットワークで上下していることに。


 『見切り』。

 技術というものは限定状況の対処法に過ぎなく、実戦というものは例外の方が多い。

 だから躱す。

 防御ではなく、見切りで躱し、読み合いすら拒否する。

 彼我の得物と腕の長さ、間合いを正確に把握し、リズムのあるフットワークで相手の呼吸の拍子を乱しながら、ほんの少し踏み込まなければ届かない距離を維持し続ける。


 剣術というよりも、ボクシングの、それもアウトボクサーの理論である。


 距離の掌握がラッキーパンチという『偶然』すら排除する。

 喧嘩慣れした者は喧騒の気運を察知すると、まずは相手の攻撃がギリギリ届かない位置で『待ち』に入るものだ。


 ルールの少ない箱庭で幾度となく殺人を繰り返した男。

 街中の実戦で勝利への確率論を構築した隻眼の男。

 試合の主導権は大方の予想に反して、未だ由々桐の手の内にあった。




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