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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十四話
100/224

【生存】⑤

   ■■■




 16℃の気温の中、下着姿の少女はソファで毛布に包まって奥歯をガチガチと震わせている。

 極寒の空調の中で二時間近く過ごした少女は、やがて寒さに耐えかねて口を開いた。


「……お兄ちゃん、いくら何でも寒すぎじゃない? 風邪引いちゃうよ」


 少女の膝枕で寝息を立てている全裸の男、犀川秀極は、懐炉のように発熱し鳥肌一つ立てていない。

 それどころか額や脇が微かに汗ばんでいる。

 おおよそ学と呼べる程の知識を持たない少女は、本能的に理解していた。

 異常なカロリー消費はそのまま出力に直結する。

 ここにいるのは大型肉食獣と何ら変わらない捕食者だと。 

 身体の震えは寒さによるものだけではない。


 それでもある種の安心感を覚えている。

 男にとって自分は庇護されるべき存在なのだと分かっているが故に、無遠慮に肩を揺らして深睡眠から犀川の意識を引き上げた。


「……ん、……あぁ小春(ウララ)か。何時間経った?」

「二時間だよ。私、寒くて死んじゃいそうなんだけど」

「死んじゃう? ははは、大丈夫だよ」


 寝ぼけ眼を擦りながら犀川は妹に向けて笑いかけた。


「心配しなくとも義父さんはもう殺したから。小春は俺が守るよ」

「……」


 少女は絶句する。

 緊張を悟られないよう顔の笑みは崩していないが、更に深まる寒気に背筋が凍る思いだった。


「母さんも馬鹿だね。良い大学出てるのが自慢らしいけど男を見る目が無さ過ぎなんだよ」

「え、ええ」

「だからさ、二度と結婚出来ないように左手を切り落としてあげたんだ。ね? もう大丈夫だろ? 家族三人、幸せに暮らしていこう」


 犀川の笑みは慈愛に満ちていた。

 少女は何人もの男に抱かれてきた経験から、犀川の言葉に偽りがないことを理解できてしまう。


 膝上の狂気。

 少女は恐怖で涙を流し始めていた。


「……どうした? まだ、小春を虐める奴がいるのか? 言ってご覧? すぐにこの世から居なくなるよ」

「違う、違うんです」


 少女は嗚咽で続く言葉を出せない。

 信じられないほどの高額を提示され、喜んで引き受けた妹役(・・)の仕事。

 それが死臭漂う狂気をあやすという命懸けの報酬だと気付いて、全身が痙攣するように拒絶反応を起こしている。


「……ごめ、……んなさい。私は……もう無理です……ううっ」


 精一杯絞り出された掠れる声に、犀川は怪訝な顔を浮かべた。

 やがてゆっくりと身を起こし、すすり泣く少女の頭に優しく手を乗せる。


 そして、髪の毛を掴んで垂直に持ち上げた。


「ひぃ! 痛いっ! だ、誰かぁ!!」


 足も付かない高さにまで持ち上げられた少女は溺れるように藻掻くが、しっかりと固定された犀川の腕は揺るがない。

 失禁で濡れる足先で何度蹴り上げても巌のような腹筋に跳ね返されるだけである。


「お前、誰だ? 小春をどこにやった?」

「さっきから何言ってんのよ! お金なんて要らないからもう帰してよ!」


 最愛の妹を奪われた怒りを発露する瞬間、室内の騒ぎに気付いた黒服がハンドガンを構えて入室してくる。

 銃口を向けられてようやく我に返った犀川は、手元で暴れる少女を解放した。

 

「何よこいつっ! 頭イカレてるじゃない!」


 少女は脱ぎ捨てた服を拾い集め、黒服に悪態をつきながら飛び出すように退出していく。

 黒服の男は想定内の事態だと言わんばかりの態度で少女を無視し、銃口を向けたまま犀川に告げた。


「犀川様、そろそろ試合の時間です」


 犀川の扱いを熟知している黒服は教訓を思い出している。

 手順を誤ってはいけない。

 覚醒しているのか、未だ夢の中か、確認せず銃口を下ろせば死に繋がる。


「なぁ、小春は今どこにいるんだ?」


 案の定、曖昧な視線を泳がせている犀川に、黒服はこれまで幾度となく口にして来た決まり文句を言い放つ。


「妹様は十年前に亡くなられています」

「……あぁ、そうだ。そうだった」


 犀川は自分に言い聞かせるように納得し、静かに涙を流している。

 試合前のコンディションとしては最悪だが、一応は狂気を収めることが出来た黒服はハンドガンを懐中へと収めた。


 死の芸術家を自称する狂人だが、心底には血を分けた妹の死を悲しむ良心が残されている。

 犀川秀極の過去には、殺人者になるしかない環境の起源を垣間見ることが出来た。


 それでも黒服は同情しない。

 犀川が異常な執着心を見せる最愛の妹、小春。

 彼女を殺したのもまた犀川本人であることを知っているからだ。

 狂人の思考に理路整然とした筋道など無い。


 どこまで行っても【八雲會】の道具でしか無い哀れな人形。

 己が身を焼き尽くす蛮行も、天上の人々にとっては小さな線香花火に等しい。

 火玉を地に落とす瞬間まで道化として愉しませなければならない。


 ただ少しの期待が黒服の胸中にある。

 手綱を振り解き、自分の意志で犀川が行動し始めた時、どこまで八雲會の意図を超えられるのか。

 向ける刃が安全圏でグラスを傾ける奴らに届き得るのか。

 小さな復讐を乗せた悪戯心。

 それをすんでのところで抑えている黒服の男、三矢谷栄治は、今大会中ずっと機会を伺い続けているのであった。




   ■■■




 観客は知らない。

 入場してくる男たちの背景を。

 立身流、野村源造。

 天然理心流、犀川秀極。

 表舞台の隅にすら名前が挙がらない両者。

 殆どの観客は、ただ愚直に流派の稽古のみを続けてきたステレオタイプな古武術家としか思っていない。

 普通に生きている人間が知り得るはずがない裏稼業。

 両者ともに偽名であり、その実態を知っているのは能登原と篠咲だけであった。


 しかし大会の裏で行われている賭博のオッズは、犀川の勝利に大きく傾いている。

 一方が隻眼であることが大きく起因しているのは言うまでもない。

 特に野村を名乗る由々桐群造は、資金力のある八雲會の会員でも足跡を洗うことは不可能である。

 全く背景が洗えないことを疑わしくは思えど、脛に傷持つ人材など八雲會では珍しいことでもなく、実績のある殺人者と比べれば結果は火を見るよりも明らかである。

 始まる前から犀川の勝利は疑いようもない気運の中にあった。


 そんな消化試合という視線を向けられる由々桐は、これまでの試合とは違う気の抜けた声援に小さく笑い、納刀したまま試合場へと踏み入った。

 刀の鍔に人差し指を掛けて抜刀に備えている。

 立身流の術理は二つの居合に集約されていると言ってもいい。


 【(むこう)】と【(まるい)】。


 どちらも一挙動で防御と攻撃を両立させるという返し技としての居合術である。


 視線の向こう側では既に抜刀を終えた犀川が切っ先を横に寝かせた天然理心流の中段【平晴眼】で構えて駆け出していた。

 居合を選んだ相手の愚を嗤うように破顔して迫り来る。


 天然理心流は気組の太刀である。

 打突に打突を重ねて粘り勝つ捨て身の流儀は、居合に対して相性が良い。

 居合術には必ず片手操作の瞬間があり、両手で保持する刀勢を殺し切ることは不可能であるからだ。

 犀川は相手が居合術であることを悟る否や、考え直す時間を与えないよう全力の突進を開始していた。


 ――当然ながら、由々桐も理解している。

 付け焼き刃ではなく、実戦の中で幾度となく試してきた術理。

 居合の得手不得手、刀剣の扱いに長けた相手の考え、全ては経験として身体に刻まれている。


 犀川の剣尖が跳ね上がり、居合ごと叩き潰す気組を乗せた袈裟斬りへと移行する中、由々桐は静かに刀の鯉口を持ち上げて下腹部で固定していた。




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[一言] 犀川の過去について詳しく知りたい……
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