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どろとてつ  作者: ニノフミ
第一話
1/224

【古流】




 その女は道着から防具まで死に装束のような白一色であった。

 来る者拒まずの剣友会であったが、その異様な光景に道場の男たちは息を呑んだ。




  ■■■




 春旗(ハルハタ)鉄華(テッカ)が初めて真剣、本物の刀に触れたのは彼女が小学五年生になったばかりの頃で、それは祖父が遺した形見の品の一つであった。


 祖父は生前、晩酌で酔うと稀に戦争体験談を始めることがあった。

 負傷した仲間を担ぎ、背中に銃弾を食らいながらも生還した話。

 マラリア蚊対策で慣れない煙草を吹かしていたら、持病の喘息が悪化して死にかけた話。

 市街地の側溝に入って大便をしていた時に敵の奇襲があり、糞まみれの側溝に伏せて生き延びた話。

 深刻な戦場の話も祖父の話術にかかれば奇想天外な冒険譚に早変わりし、それは幼い鉄華に沢山の教訓を与えつつも楽しませてくれた。

 祖父曰く、充分に歳を取るとどんな思い出もただ美しく、愛おしく思えるようになるらしい。


 だがある日、そんな昔話にも例外があった事を知ることになる。

 アルバムの整理をしていた母親が昔の写真を発見したことが発端だ。

 白黒の写真の中で若かりし頃の祖父は、抜き身の真剣を構えていた。

 場所は剣道場であろうか。

 母親が思い出したかのように口を開いた。


「お爺ちゃんは昔、剣術の道場を経営していたんだって。でもそのことをお爺ちゃんに聞いたらダメよ。なんか怒っちゃうから」


 誰にでも隠したい過去や秘密があることは子供心にも理解できていたが、それでも鉄華は昔話に出てこない祖父の過去に興味を持ってしまった。

 温和な祖父が怒る姿を見たくはない。しかし、そこ秘められた意味と教訓を知らずに納得することも出来ない。


 覚悟を決めた鉄華は、祖父が晩酌で酔う時を狙って問いかけてみた。

 祖父の剣術とはどんなものなのか?

 何故今は道場がないのか?

 

 返ってきた反応は予想外のものであった。

 祖父はただ静かに目を閉じて押し黙ってしまったのだ。

 そして、しばらくの沈黙の後「剣に纏わることで碌な思い出は無いんだよ」と呻くように呟いた。


 祖父にとっての剣術というものは、思い出すだけで息苦しくなるような、血の匂いが喉を駆け上がってくるような、ただひたすらに気分の悪いものでしかなく、特に若い頃の修行は戦争体験を上回る地獄だったらしい。

 苦労して開いた道場も、GHQによる武道武術の禁止令が施行されてすぐに畳むことになり、伝書も刀も取り上げられて借金だけが残ったと言う。


 好奇心旺盛な鉄華は続けて剣術を教えて欲しいと懇願したが、それは明確に拒否されてしまった。

 護身というには過剰な技術、平和で豊かな現代に必要なものではない、と怒気を含めて諭された。

 なので鉄華もそれ以降聞くことはなくなった。

 きっと気軽に聞いていいものではなく、そこに踏み込む覚悟も足りないのであろう。

 そう納得してしまったのである。




  ◆




 次の日、病院から帰ってきた祖父はいつものように晩酌を煽り、酔って興が乗ったのか倉庫の奥から三尺の長刀を持ってきて鉄華に見せてくれた。

 床下に隠してGHQの刀狩りを逃れた伝家の宝刀とのことであったが、それは黒い石目塗りの鞘に黒無地の鍔を持つ、宝刀と言うには地味で無骨な物であった。

 祖父は鉄華に「見ておけよ」と言い放つと、おもむろに庭の中央に歩み出て、歩を止める最後の踏み込みと同時にシュッと刃鳴りを響かせて抜刀する。

 夜も更け、月光を反射した白刃を静かに正眼に構えていくのを、鉄華は縁側から呆気に取られて見ていた。


挿絵(By みてみん)


 祖父が集中しているのが分かる。

 五感を研ぎ澄まし、何もない虚空を睨み付けていた。

 その剣尖が、間合いが、呼吸が、目付けが、足置きが実体の無い対戦相手を想定しての動きだと鉄華はすぐに気付く。

 極まった武術の(カタ)というものは、時として対手の動きすら予測させてしまうものではあるが、何の知識も技術も持たない鉄華はただ薄ぼんやりとした幻影を感じ取る以上のことはできなかった。

 

 祖父が動く。


 一度目は、半歩斜め前に出ながら刀を担ぎ、半円を描く軌道で反転して、斜めに斬り下ろした。

 二度目は、斬り下ろした刀が手の内で向きを変え、下段から後方に向けて斬り上げた。

 三度目は、斬り上げたままの体勢でまたもや後方に向き直りつつ真っ直ぐに斬り下ろした。


 絶え間ない運足で弾かれる玉砂利が波音を上げ、同時にたった三度、空を斬り裂く音が響いて演武は終了した。

 祖父は大きく息を吐きながら片膝を立てた蹲踞に入った後、右拳で柄の部分をトンッと叩いてから刀身を鞘に戻していく。 


 鉄華は斬撃を目で追うことすら出来ず、開始と終了以外のコマが抜け落ちたかのように、祖父が停止した瞬間から動きを予想するしかない。

 恐らくは三人の薄ぼんやりとした幻影(・・・・・・・・・・)がそれぞれ仕掛けていくのを、祖父が返し技で迎え撃ったように思えた。

 だが最後は「受ける」でも「躱す」でもなく、「ただ真っ直ぐに斬り下ろす」であり、それが返し技として機能しているのかすら分からない。

 それでも九十を超えた老体が、練り上げられた未知の剣技を内包していることは十分に感じ取ることができ、ある種の天啓として後々まで鉄華の価値観を大きく変えることになった。


 祖父の方は、十秒にも満たない型の演武で呼吸は乱れきっていて、肺の空気を全て吐き出すような深い呼吸を繰り返してようやく落ち着いた後、


「もう刀の時代は終わったんだよ」


 と呟きながら寂しく笑っていた。


 祖父は何らかの流派を叩き込まれ、それでようやく「多少使える」と名乗れる程度になったが、その技術は終ぞ実戦で使用されることはなかったと言う。

 銃器と物量が物を言う戦争において白兵戦の必要性は皆無であり、精々銃剣による突撃で威圧する程度の需要しかなかったらしい。

 多くの剣術が失伝した時代に心血を注いで剣技を磨いていた時期があったにも関わらず、流派や稽古の内容について一切語ろうとしなかった祖父は、この演武の夜から一ヶ月後、悪化した糖尿で脳梗塞を併発し生涯を閉じた。




   ■■■




 鉄華は中学生になると興味本位で剣道部に入った。

 お喋りだった祖父の心中深くに刺さった棘の正体と、幼い自分が欲した些細な疑問の答えが分かるような気がしたからだ。


 しかし、女子中学生の平均を超える百八十センチという長身に育っていた彼女は、特に苦労することなく強さの階段を登って行くことになる。

 同じ年の女子で鉄華の打ち込みや体当たりに耐えられる者はほぼいなく、それは全国レベルで探しても数える程しかいなかった。


 そして中学三年になった彼女は今、三連覇をかけて全国中学校剣道大会、女子個人決勝の場に立っていた。




   ◆




 トーナメントはテープで区切られた八つの試合場で同時進行されていたが、武道館を埋め尽くす観客は今、決勝の舞台である一つの試合場に注視している。

 鉄華の対手に立つのは、背中に白いたすきを付けた神奈川代表の冬川(フユカワ)亜麗(アレイ)である。


 鉄華は決勝まで五百グラム竹刀で勝ち抜いてきた。

 男子が持つにも重めの竹刀と鍛え上げられた体格から放つ斬撃は、さながら裁断機の如く防具下の肉を圧し切り、打たれた相手の戦意ごと削り取るような威力を持っている。

 しかし決勝に際しては、計量検査にギリギリ合格した軽い竹刀に持ち替えていた。

 スピードを活かした試合展開を得意とする選手の中でも、冬川は突出して速いことを知っていたからだ。


 剣道を取り扱う専門誌に載っていた冬川の経歴によると、小学生の時は常に全国一位の座に君臨し続けていたらしい。

 特に会話も交わしたことがない間柄だが、中学一年の時も二年の時も決勝の相手は冬川であった。

 心中穏やかではないだろう、と鉄華は思う。

 中学からなんとなく剣道を始めた図体がでかいだけの女に負け続けている。

 鉄華自身、体格差がもたらす強引な勝利がほとんどであるという自覚はあった。


 正面への礼の後、互いに礼を交わして試合場の中央へと足を踏み入れて行く。

 一歩、二歩、三歩と進み行き、抜刀して蹲踞。

 剣尖が交差した時、鉄華は冬川の視線を感じた。

 ずいぶん低い。

 中学の三年間でこれほどに身長差が出来てしまったことに、今更ながら気付く。

 面金の隙間から覗く冬川の目には、悔しさや嫉妬が隠っているように感じた。

 鉄華は一瞬目を閉じる。

 会場の声援やざわめきも、顧問の檄も全てを置き去りにして水滴を落としたように静謐が広がった。

 集中できている。油断もない。


「はじめぇい!!」


 始まるや否や、冬川が動く。

 下肢のバネを活かした面打ちだ。

 体躯で劣る冬川は、常より内側の間合いで張り付くことを選択した。

 だが、それは鉄華の予想通りの展開でもあった。


 充分に備えていた鉄華は、蹲踞から後方に飛ぶ様にして上体を起こし、冬川の放った面の切先を首の動きで躱しつつ引き打ちの小手を放った。

 冬川の伸びきった右小手が小気味良い音を弾く。


挿絵(By みてみん)


「小手ぇえ!」


 瞬時に審判の赤旗が上がった。


「小手あり!」


 冬川は打たれたままの体勢で数秒固まっていたが、やがて開始線まで戻って構え直す。

 青ざめていた。

 俊敏さでは冬川が優っていたはずであった。

 事実、彼女の得意とする面打ちは鉄華の予想を超えて速かったのだ。

 突くように伸ばした剣尖を手首のスナップで落とす「刺し面」という技である。

 それは鉄華のバックステップよりも速く届いたが、面金を横から打つ形になってしまい有効な打突と認められなかった。

 防具で守られているとはいえ過度な横面打ちはルール上有効ではなく、それに加えて開始直後の奇襲も卑怯と見られる傾向にあり心証が悪い。


「二本目! はじめぇい!」


 冷静になる時間を与えるつもりはなく、鉄華は間髪入れず小手面を打ちながら飛び込む。

 それを辛うじて防いだ冬川ではあったが、その後に待っていたのは飛び込みの勢いをそのまま乗せた体当たりである。

 竹刀を立てて両拳で正中線を殴るような体当たりは、ゴツッと鈍い音を立てて冬川の小柄な上体を大きく退け反らせる。

 体当たりを手元で受け流す動きは見えたが、三年分の体格差は彼女の対策の内に入っていなかったようだ。

 こうなってしまえばガラ空きの胴を打つことは余りに容易いことであった。


「胴あり!」


 審判の旗が上がると同時に、会場に歓声が上がる。

 相手の持ち味を封殺しての圧勝であった。




  ◆




 満場の拍手の中、試合後の礼を交わして自陣へと戻っていく鉄華の目には、よく見慣れた、うんざりする光景が映っていた。

 部活顧問の大きな拍手がひと際目立つ一方、それに合わせて拍手をしている剣道部の同級生たちの表情は暗く、心からの祝福とはいかないようだ。


 鉄華はいつも部活でそうしてきたように、最終的には冬川をただの腕力と体格差でねじ伏せてみせた。

 剣道部の面々も自身の記憶を反芻しているのであろうか、声も上げず目も合わさず無表情のまま拍手だけしていた。

 鉄華も部員たちに嫌われていることは知っていた。


 スポーツの場であっても、行き過ぎた実力差は暫し弱い者いじめの様相を呈する。

 剣の理合を置き去りにして、リーチと力に優れた方が無防備な相手を打楽器の様に叩くだけの行為に見えてしまう。

 それほどまでにフィジカルの差というものには努力で超えられない壁があるのだ。


 悔し涙を流す冬川を遠巻きに見ながら、(彼女はもう駄目だろうな)と鉄華は思う。

 高校以降の剣道はフィジカルのぶつけ合いがより明確になっていく。

 冬川の得意な刺し面は、一般的には中学生までの技術とされていて、速さはあるが威力が弱い刺し面で有効打を取ることは更に難しくなる。

 或いは高校剣道から解禁される突き技に応用できるかもしれないが、それだけに頼る剣道では話にならない。

 突きは狙う面積が狭く、隙も多くなる技だからだ。

 速さのみを武器とする彼女がこの先の剣道で生き残っていくのは難しい。


 だが、鉄華は「もし真剣の勝負だったなら」と想像を巡らせていた。

 先手の刺し面で横面を打たれ、こめかみから顔面を袈裟斬りにされた状態で小手を放てたであろうか?

 その致命傷で戦いを続行出来たであろうか?


 剣道では防具上の限定された箇所への打突のみを判定するにすぎない。

 白熱した試合では意図せず打突が防具外へ当たる場合もあるが、そういった現実的なダメージが考慮されることはないのだ。

 ルールに守られていなければ勝っていたのは冬川の方であり、中学生女子という枠組みでは最強の剣道家になっても、それは本当の意味での最強ではない。


 それでも鉄華は、真剣を目にしたあの日から期待せずにはいられなかった。

 力は要らない。

 扱う技術のみが生死を分ける。

 男女の身体差を埋めるものが武器術だと思っていた。


 祖父の境涯に追い付こうと三年かけて必死に鍛錬してきたはずだったのに、結局のところ、その先に続く剣道人生全てに落胆してしまった自分が残されただけであった。




  ■■■




「本当にそれでいいのか?」


 担任の藤本勉は鉄華に再度問いかけた。

 夕日が差し込む生徒指導室に剣呑な空気が流れる。

 幅の狭い会議テーブルの向かい側に座っている鉄華は、笑みを崩さないように努めながら担任の言葉を聞いていた。


「お前が強いのはお前自身の努力の結果だ。学校としても恩に着せるつもりはないよ。ただ、見切りをつけるのは早過ぎると思わないか?」


 自惚れるには早い、世の中もっと強い奴らがいる、と教師は畳み掛けるが鉄華の心には響かない。

 もはや完全に結論が出てしまっている問題であったが、教師陣の再三の呼び出しには飽き飽きしていた。

 鉄華はその度に角が立たないよう言語化する労力を強いられている。


「それでも構いません。もう決めたことですから」

「……親御さんは納得しているのか? この推薦を受ければ学費の免除だけでなく、競技に関連した費用も支給される。卒業後も警察の特練員や実業団への道があり、いずれは指導者としてやっていけるんだぞ」


 強豪校からのスポーツ推薦の話だ。受ければ剣道を続けざるを得ないし義務になる。

 それは耐えられない、と鉄華は思っていた。


「剣道はもう十分やりました。高校からは別の道を探すつもりです。親も納得しています」

「別の道ってのは何だ?」


 藤本はその選択が馬鹿げた事だと言いたげに、半笑いで問いかける。


「先生は剣道やったことありますか?」

「全く無いよ。武道といえば学生の頃の授業で柔道をやった程度かなぁ」

「そうですか。例えば先生が今私を殺そうと襲い掛かってきたら、私に為す術はありません。日本一と冠していますが私が居る位置はその程度です」

「……」

「この事実は高校剣道や社会人剣道で優勝したとしても付き纏うと思います。結局、女子の剣道なんてそんなものなんです」


 思いもよらない答えが返ってきたことに言葉を失った藤本は、暫く腕を組み、鉄華の意図を汲もうと試みていた。

 その様子を見ながら鉄華は言葉を間違えてしまったことに気付く。


「春旗……お前一体何を目指しているんだ?」

「いえいえ、違います。別に最強の格闘家になろうとかそういう話ではありません」

「……」

「裏ではゴリラだのハルクだの言われている私ですけどね、普通の女の子として生きていたいという思いはありますよ。それほどおかしなことですか?」


 鉄華は話が拗れないよう口端を無理に釣り上げて笑顔を作るが、心の中では矛盾が渦巻いていた。


 嘘を吐いている。

 それが何に対してなのか、直視したくない。


 鉄華は自分が恐ろしいと思えるようになっていた。

 もはや普通の形が通用しないほど歪みきった隙間が内側にあって、そこに入るピースを見つけてしまったら最後、どんな自分が完成するのか全く想像もつかない。

 そんな歪みと向き合うくらいなら、剣を捨て普通に生きていた方がマシに思える。

 スポーツ推薦を断って普通科女子校を選んだことに後悔はなかったが、得体の知れない後味の悪さが冷や汗となって脇腹を伝っていった。




  ■■■




 赤誠剣友会は社会人剣道家の集いである。

 警察官や自衛官といった職業剣道家、はたまたサラリーマンや公務員をしている傍らで剣道を続けている愛好家たちが集まるサークル活動のようなもので、週末になると市の武道館を貸し切って稽古に励んでいた。

 その活動内容は「来る者拒まず」の会則とともにネット上でも事前告知しているので、稀に県外や国外の強豪が飛び入り参加することもあり、剣道家にとってはこの上ない鍛錬の場であると会員たちは自負していた。


 鉄華は中学一年の時、全国大会で審判を務めた同郷の一ノ瀬宗助と知り合い、剣友会への勧誘を受けることになった。

 当時の鉄華は相手を吹き飛ばすだけの拙い剣道で全国を制したが、その危うさを懸念した一ノ瀬なりの気遣いである。

 剣友会の師範である一ノ瀬は県警の機動隊に所属し、四十歳で教士七段、更に世界大会では三位という実力者であった。

 文章化出来る分かりやすい強者。

 そんな一ノ瀬の勧誘は、愚直に剣力のみを求めていた鉄華の思想とも合致し、以降は剣友会の末席に名を連ねて社会人に混じっての稽古を三年の夏まで続けていたのだ。


 夏の全中大会から半年後、鉄華は狙っていた普通科女子校に無事合格していた。

 剣道の成績を活かした推薦枠ではあるが、学力も補習で充分に引き上げての文句なしの合格である。


 そんな新たな進路へ歩き出さんとする春の入り口に立った今、鉄華は半年ぶりに剣友会稽古に参加しようと武道館へと向かっている。


 ――迷いを振り切れない。


 剣道から離れる決心をしてからは受験勉強という名目で剣友会稽古への参加を自粛し、できればそのままフェードアウトする気でいたが、その半年間で知りたくもなかった自分の一面と向かい合ってしまった。


 鉄華はそれまで一部の人間から嫌われていることは知っていたが基本的には無関心という風体でやり過ごし、どの程度嫌われているのかを確認したことはなかった。

 スポーツ推薦を断ったことが湾曲して伝わって暴力事件を起こしたと噂されていることや、中学浪人しそうな学力の低さを笑われていることや、自分を抜きにして行われたという剣道部の送別会のことを聞くとはなしに立ち聞きしてしまうまでは、向けられた悪意の大きさに全く気付かないでいた。

 剣道を辞めて、趣味もなく、友達もいないという現実を直視させられた時、十五歳の少女の心は限界を迎えてしまい、溢れる涙を抑えることが出来なくなってしまった。


 もし相手を気遣って手を抜いた剣道をしていれば、或いは剣道をやってさえいなければ、もっと楽しい学校生活になっていたのかもしれない。

 それほどまでに剣道のみに集約してしまった三年間ですら捨て去ろうとしている自分はあまりにも空虚ではないだろうか?

 もしかしたらそれは「選択」したわけではなく「放棄」しただけではないだろうか?

 この先の人生、何も得られないまま空っぽの紙風船のようにふわふわと流されるままに生きていくようにさえ思えた。


 明確な区切りが欲しかった。


 今更剣道をしたところで確認できるものなど無いのかもしれない。

 失われた時間も友達も戻っては来ない。

 部活動よりも世話になってきた剣友会に、飽きたから辞めると報告するのは不義理かもしれない。

 落胆させてしまうかもしれないし、説得の末に失望されるかもしれない。

 それでも、自分は「選択」をしたのだと納得できる決別をしないと、前に進めないと思った。

 剣道で関わった全てに対するケジメを付けないといけない。


 ならば仕方ないと腹を括った鉄華は不安を振り切り、薄く積もった雪に新たな足跡を残しつつ歩を進めて行くのであった。




  ◆




「ん。知っていたよ。そんなに悩んでいるとは気付かなかったよ」


 息が詰まる思いで報告を遂げた鉄華に、師範の一ノ瀬はゆっくりと屈伸をしながらあっけらかんと応えてみせた。

 稽古の開始時間よりかなり早めに道場に着いたつもりであったが、剣友会の中でも意識の高い三名はその程度のフライングは当たり前といった具合に準備を終え、思い思いのストレッチをしながら久々に現れた鉄華の様子を窺っていた。


「剣道部顧問は体育の伏見先生だろ? 実はあいつ高校の後輩なんだよ。鉄華ちゃんの様子は逐一報告させてたのさ、はっはっはっ!」


 豪快な笑いが道場に響き渡ると、同じく早くから来ていた電気工事士の鉢須賀と、市役所職員の渡部も合わせて笑い出した。

 鉄華の進路は剣友会で周知の事実だったのだ。


「な、なんですかそれ…… 普通にストーカーじゃないですか……」


 鉄華は恥ずかしさで泣きたくなっていた。

 よくよく考えれば、一ノ瀬が県下の剣道家に顔が広いのは当たり前の事だった。


「いやぁ、ごめんごめん。何せ剣友会の紅一点である鉄華ちゃんの進路だからね。オッサン達の見えざる手でサポートできればなぁと思っていたんだけどな」


 バツが悪そうに頭を掻いていた一ノ瀬を余所に、少し離れて柔軟をしていた鉢須賀と渡部が会話に割って入ってくる。


「気にしなくていいよ鉄華ちゃん。人生色々だよ。おっさんたちはもう竹刀振るしか能がないからね。君は可能性の塊で羨ましい限りさ」

「そうそう。剣友会なんて義務も何も無いんだから。適当に続けても、辞めちゃっても誰も責めたりしないよ」


 事前に何もかも知っていて、鉄華の自責の念すらも予想していた面々はそれを慰める言葉も用意していた。

 職業剣道家に成れなかった大人の生き方、剣道との向き合い方というものはそれぞれにある。

 彼らも学生の頃は大会で名を残した名選手だが、様々な事情で職業剣道家の道は断念している。

 現実的に他業種で生計を成り立てながらも剣道を続けている人間の言葉は、鉄華の胸に深く染みこんだ。

 優しさで涙が溢れそうになった。

 三年間ここに居たことを再確認することで、前に進む勇気を貰った気がした。


「あー、まぁ、そういうことだ。鉄華ちゃんの気持ちは分かったよ。んで、今日はどうするんだい?」

「え?」


 一ノ瀬は隣で正座している鉄華の格好を顎で指しながらニヤリと口元を緩めてみせる。


「道着に着替えて防具まで持ってきたってのは、やる気ありと思っちゃうけど?」

「あ、はい。お願いします。元からそのつもりです」


 おそらくは今日が最後の剣道になる。

 春旗鉄華の剣道をここに置いていく。

 区切りを付けたいというエゴを押し付けるのは気が引けるが、鉄華は染み付いた習慣が体に火を付けるのを感じ取っていた。


「オーケー。じゃあ準備運動の後はひたすら地稽古でいこう」




    ◆




 朝の停滞した空気を震わせるように、打突の掛け声が道場に響き渡る。

 夜間に堆積した微量な塵が踏み込みの衝撃で宙に舞い上がり、窓から差し込む日差しの中でキラキラと輝く。

 この空間の空気は剣を握る者を中心に流動し、対流し、渦巻いていくのだ。

 三年間通い続けた道場だが、朝の稽古始めは鉄華の一番好きな光景であった。

 何かを新しく始める時はいつもこの光景が脳裏に浮かぶ。

 家よりも、学校よりも愛着がある大切な場所だった。


 ここに揃う面子にも親愛と尊敬を感じている。

 圧倒的な格上である彼らが本気で鉄華と戦うことはなかったが、それでも彼らとの手合わせは楽しいと思えた。

 毎回成長を確認でき、新たな反省点を明確に示してくれるからだ。

 そういう多大な経験値が鉄華を急速に強くしてきたのは言うまでもなく、趣味としての剣道、そういう道も悪くはないのかもしれないと思えた。




  ◆




「ブランクがあるとは思えないな。夏の大会から更に成長しているじゃないか。引き小手もあの決勝の時より速く鋭い」

「ありがとうございます」


 小一時間稽古を続けた後、鉄華と一ノ瀬は面を外して小休止して感想戦をしていたが、不意に話題に上がった夏の決勝戦の事を思い出して顔を曇らせている鉄華に一ノ瀬は気付いた。


「なにか悩みでもあるのかい?」

「あ、えっと……」


 胸中を見抜かれた鉄華は暫し逡巡し、その思いを初めて言葉にした。


「冬川さん、剣道続けますかね?」


 それは半年間、鉄華が思い悩んできた迷いの一つでもあった。

 顔見知り程度の他人事とは言え、最後の最後で引導を渡したのは恐らく自分だと思っているからだ。

 よりにもよって剣道を辞めてしまう自分がだ。


「どうだろうね。僕の意見は、君の考えとほぼ同じだろうな」

「体格差で勝てなくなって辞めますか?」

「ああ。彼女は闘争心を前面に押し出していく激しい選手だったからね。剣技以外の部分で折り合いを付けなければならないのは辛いだろうな」


 一ノ瀬にとっても、そうやって選手が引退していくのはよく見てきた光景であった。

 武道の世界は理合という建前で成り立っているが、試合という蓋を開ければフィジカルの差というごく当然の現実を突き付けられる。

 多くの格闘技に体重別階級があるように、それは竹刀を持つ剣道であっても避けては通れない要素であった。

 

「僕は剣で身を立ててきた人間だからね。君たちのように強さのみにこだわる時期も当然あったよ」


 一ノ瀬は自身の経験を辿り言葉を紡ぐ。


「でも限界はあった。世界一位の千葉さんがいて、世界二位のアルフォンソさんがいる。残念ながら彼らと僕とでは更に格が違うんだ。このまま負け続ける気はないけど、今のところ勝てるビジョンすら浮かばない」


 上には上が居て、上の者も永久に勝ち続けられる保証など無い。誰もが同じく悩み続ける。

 世界ランクの舞台に上がっても尚、悩まされ続ける剣士の独白でもあった。


「でもさ、こういう悩みって贅沢だと思わないかい? 殺し合いだったら死んで終わるけど、剣道にはちゃんとその後がある。だから、負けた後もずっと考えさせられるんだ。それが道ってことじゃないかな。……こういう精神論は嫌いかい?」

「……」


 鉄華は黙るしかなかった。

 想像はできないし、理解もできない。

 それでも何歩も先を行く人間の忠告や説教には必ず意味があるということ知っている。


「まぁ、いずれ分かるさ。僕もまだまだ未熟な指導者だからね。いつか君の悩みに答えられる言葉を探しておこうと思う」


 どんな相手の事でも真剣に考えてくれる一ノ瀬の気質に触れる度に、鉄華は自分の中の歪みが恥ずかしく思えるようになっていた。

 彼は指導者として未熟どころか成るべくして成った適材適所としか思えなく、なんて過分な師に巡り会えたのだろうと、鉄華は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。




 会話が途絶えた師弟は、ふと道場が静まり返っていることに気が付いた。

 あまりに奇妙な静寂であった。


 休憩と称し、攻守を変えながら掛かり稽古をしていた鉢須賀と渡部が手を止めて、道場の入り口を見ている。

 竹刀の軋む音さえ消え、俄に道場内の空気が変わったのを感じた。


 鉄華と一ノ瀬が振り返るとそこには、白道着に白い防具袋を下げた見慣れない女が立っていた。




  ◆




「どうも、初めまして。私も参加したいのですがよろしいでしょうか?」


 女は艶やかな黒髪を後ろで纏め、切り揃えた前髪から色白い肌とやや隈掛かった双眸を覗かせていた。

 声も若く凛としていて、鉄華と同じくらいの年齢だと道場の面々に予想させる。

 身長は百六十センチ台で、一見すると病人、もしくは日本人形のようにどこか怪しく儚げな雰囲気を纏っていた。


「もちろん歓迎するよ。赤誠剣友会は歴史が浅くてね。始まって以来、女性の参加は君で二人目だよ。ははは!」


 虚を突く登場ではあったが出入りの多い剣友会ではよくある光景でもあり、一ノ瀬は同好の士の参戦を快く歓迎した。

 女は鉄華を一瞥すると、また一ノ瀬に視線を戻す。


「そうですか。ついでに勝手なお願いですが、試合形式でお手合わせ願えませんか? 世界三位さん」


 道場の静けさが緊張により一層濃度を増した。

 女は一ノ瀬の実績を知っている。

 赤誠剣友会においては最強の剣道家であり、初見で直接指名することは道場破りに等しい無作法だ。


「は? ……はは、こんな若い子にいきなり指名されるなんて俺も捨てたもんじゃないな」


 一ノ瀬の気のない返事で緊張の糸が解けたように男性陣の笑いが起こった。

 彼らに悪意はなく、あくまで分析の結果だ。

 体格を見れば実力のおおよその上限というものは把握できる。

 一ノ瀬と比べるまでもなくその戦力差は歴然で、彼女の無謀な挑戦に笑いが抑えられなかったようだ。

 きっと体格差で当て負ける経験をしたことがなく、傲岸不遜に己の強さを信じている物知らずだと。


 女は何故笑われているのかも理解していない様子で「ダメでしょうか?」と真顔のまま首を傾げてみせる。

 その落ち着いた言動と仕草は、美貌も合わせてどこか愛嬌すら感じられた。


「ははは、オーケーオーケー、おじさんで良ければ立ち会わせてもらうよ。えーっと名前はなんて言うのかな?」


 女は周囲の笑い声など意に介さず、同意を得た満足感なのか、口の端を少し歪めながら名乗った。


小枩原(コマツバラ) 泥蓮(デイレン)と申します」

「変わった名前だね。僕は一ノ瀬宗助だ。お手柔らかに頼むよ、デイレンさん」


 道場にいる誰もが知らない名前であった。

 鉄華の知る限り、少なくとも中学剣道の場では聞いたことのない名前であり、一ノ瀬は地区予選レベルであろうと大会で上位に入る選手の名前は覚えるよう努めていたが、全く聞き覚えがない。

 泥蓮と名乗るその女は鉄華の隣に座ると防具袋を開け、手際よく手ぬぐいを頭に巻いて防具を付け始めた。

 取り出した防具は胴台の塗りに至るまで全てが白色で、まるで切腹する武士が着る死に装束のようだと鉄華は思った。


「では審判は我々が務めましょう」


 面白い事になると言わんがばかりの表情で鉢須賀と渡部が名乗り出る。

 恐らく勝負は一瞬で終わり、もしかしたら彼女は泣き出してしまうかもしれないと二人は考えているようだ。

 渡部に至っては、それを紳士的になだめるのは自分の役目だという下衆な思いも乗せた笑みが漏れていた。

 そんな渡部の様子を見ながら鉄華は心の尊敬する人物リストから一人除名することに決めた。


 鉄華は笑えなかった。

 大人と子供。男と女。

 その圧倒的な身体差は冬川亜麗との対決を思い出さずにはいられない。

 世界三位に挑むほどの過剰な自信が、どうやっても超えられない現実にぶつかる。

 一ノ瀬はそこに精神的な「道」があると言う。

 鉄華は競技自体を「勝敗無視で楽しむ」というのが答えだとは思っていない。

 楽しむというのは勝利や成長に付随するもので、それが無ければただの「諦め」だ。

 慰めや逃避のような言い訳ではなく、ましてやオカルトじみた虚言でもない、その上で現実的な勝敗を超える説得力がなければならないのだ。


 鉄華はいずれ訪れる限界を知り、早くに剣を捨てる選択をした。

 小枩原泥蓮という女も同じく、今日この場で区切りを付けることになるのだろう。

 その別離の苦しみを知る鉄華は、とても深く悲しい気持ちになってしまったのだ。




  ◆




 一礼をした後、試合場の中央で二人が蹲踞に入る。

 その時、女の握る竹刀が短いことに全員が気付いた。

 一ノ瀬の持つ竹刀と比べ十センチほど短く、恐らくはサブロクと呼ばれる小学生用の竹刀だ。

 佇まいこそ落ち着いているが、本当に子供なのかもしれないと誰もが思った。

 リーチで劣る相手が短い竹刀を持っている。

 勝ち目などあるわけがない。


「はじめぇいッ!」


 主審を務める鉢須賀の声が道場に響き渡る。


 一ノ瀬は自分が立ち上がった時、女が既に立ち上がり、一歩ほど間合いを詰めていることに気付いた。

 短い竹刀の分、間合いを詰めなければならないのは当然である。

 だが、そのあまりにも歪な構えに狼狽する。


 一見すると正眼、中段構えではあるが、足元は手とは逆の左足を前に出していた。

 サウスポーの人間が取る逆構えではない。

 前足は正面を、後ろ足は外側を向いた「ソ」の字の配置で、両足の(かかと)を地面につけた状態で立っている。


 一ノ瀬の知る限り、細部は違うが剣道にも「中段霞」という近い構えは存在する。

 太刀型七本のいずれにも含まれず、甲冑を付けて戦う介者剣術の終わりと共に消えた、知識としてのみ残る構えである。

 消えるということはある種の淘汰に過ぎず、現代剣道での実戦性の欠如を示していた。


 傍で見ていた鉄華は、変則的な構えと言うよりド素人だと思った。

 摺り足による運足が基本の剣道において、後ろ足の踵を地に付ける事はありえない。

 膝のバネが効かず、飛び込みやフットワークによる虚実の駆け引きで遅れを取るからだ。

 まともな指導者ならソの字足は厳しく矯正されるはずである。


 短い竹刀。変則構え。ベタ足ソの字足。

 一ノ瀬は侮辱されたような気分になったがすぐ思い直す。

 相手は女子供で恐らくは初心者だ。間違いや驕りを正してやるのも指導者の務めである。

 試合ではなく、指導をするように誘導してやろうと動いた。

 小手先の動きでスナップを効かせた剣尖が相手の竹刀を弾こうと奔る。


 しかし、その一撃は竹刀には当たらず空を切った。


 ――タイミングが合わなかった。

 女の竹刀は一ノ瀬の払いよりも先に下回りに動いていた。


 ならばもう一度と、一ノ瀬は女の竹刀を左から右へ薙ぐ。

 ――が、その薙ぎの一瞬前に力を乗せて抑え込まれてしまう。またもタイミングが合わなかった。


 ならば前進と一ノ瀬が動くと、ほぼ同時に斜め後ろに下がる女。


 ならばゆっくりと力を乗せて竹刀を押さえつけようと一ノ瀬。

 同じく力を乗せて相殺する女。


 ならば引き技だと一ノ瀬。

 竹刀を押さえつつ踏み込む女。


 ならば――、


 ――。


 深く交差した竹刀が時折ガチッガチッと音を立て続けている。

 試合開始から一分が経過していたが、両者共に激尺の間合いにありながらも、中段構えのまま竹刀をぶつけ合わせるだけであった。


 一ノ瀬は、全く打ち込めなかった。


 もはやタイミングの偶然ではない。

 打とうとするとその直前に相手の竹刀が蔦のように絡み付き、行動の「起こり」を崩されてしまう。

 無理矢理押さえ込もうと力を入れれば同じ力を乗せて相殺され、かと思えばスルリと逆位置に竹刀を回り込ませてまた仕切り直す。

 体で押せば横に躱し、引けば斜め前に踏み込む。

 まるで合気道の様に相手の竹刀に纏わり付き、崩し、巧妙に軸を取って剣勢を殺し続けていた。

 打突とは呼べない無様な突進で殴り付けるように体当たりをすれば崩せるのかもしれないが、剣に生きてきたプライドが、相手が女子供であるという倫理的ブレーキが、一ノ瀬にその選択をさせなかった。


「ほぅ、こりゃ珍しいな。続飯付(そくいづけ)かよ」


 不意に真横から声が聞こえた鉄華は背筋を伸ばして首を振った。

 いつの間にか道場に着いていた、範士八段の平上藤士郎が隣であぐらをかいている。

 御歳八二歳にして赤誠剣友会の最高師範でもある老獪は、女の剣技を見て即座にその術理を解していた。


「ソクイヅケってなんですか?」


 何が起こっているのか分からない鉄華は範士に質問を投げかけるが、平上は白いあご髭を撫でながらニヤつくだけであった。

 知っていても語らず、語っても解せず。

 範士との会話は暫し謎掛けのような一方通行になることを知っていた鉄華も、さすがにむっとしてしまった。

 こんな老人ではあるが一ノ瀬と同じレベルの強さを維持し続けている。

 いつか平上は老いによる身体の衰えを戦闘経験の差で補っていると語っていた。

 相手の手の内を見切ることに長けていれば、その対策行動だけでそれなりに立ち回れるらしい。

 そんな達人の眼を持ってしても珍しい技が今、鉄華の眼前で展開されている。


 一方の一ノ瀬は、今だに埒が明かない。

 女は隙を見せる瞬間を気長に待っているようで、竹刀のかち合わせに付き合うほど状況が悪くなっていくのを感じていた。

 前に出ようとするタイミングに合わせて水平に突きを出すよう、更に高度に対応してきている。

 突き技のように前に出るわけでもなく、ただ構えたまま竹刀の芯を通して胴を押し返すだけだが、もはや前進すらままならない。


 一ノ瀬の中で焦れる気持ちが強くなりつつあった。

 手加減をするつもりであったが、逆に遊ばれているようにすら感じている。

 腕相撲の勝負のはずが突如指相撲になっていて抑え込まれているような感覚。

 指導している後輩たちの見ている前での侮辱。

 尊敬する範士の前での侮辱。

 日本を代表する剣道家であることのプライド。

 それらが混ざり合い思考が歪む。

 視界が歪む。

 恥ずかしさがこみ上げる。


 ついにムキになって相手の竹刀を腕力で大きく払いのけてしまった一ノ瀬は、即座に自分の間違いに気付くことになった。


 払いのけた竹刀は何も無い中空を泳ぎ、右小手が急に破裂したような音を上げる。

 その後、一瞬遅れてやってきた痛みで、振り払った勢いのまま竹刀を手放してしまったのだ。


 投げ出された竹刀の跳ねる音が道場内に寂しく響き渡る。


 それは審判の二人が反射的に旗を上げてしまう程の、強烈な出小手であった。

 女は声も上げず、残心もなく、世界三位の男から一本を取ってみせた。

 



  ◆




 審判の鉢須賀が場外に飛んだ竹刀を拾い上げて呆然と立ち尽くす一ノ瀬に渡した時、女は既に開始線に戻ってまた歪な中段に構えていた。

 二本目の開始を待っている。


 一ノ瀬は悪夢でも見ているような気分であった。

 鉄華も審判の二人も同じ悪夢を見ている。

 対照的に範士の平上がただ一人、髭を撫でながらニヤニヤと笑っていた。


 一ノ瀬は分析する。

 己の間違いと、女の見た目からくる侮りを修正し、剣道の常識を外れた理合の存在を認める。

 泥蓮と名乗る女を最初は道場破りのようだと内心笑っていたが、紛うことなく道場破りに来ている。

 初見殺しのブラフを散りばめて襲ってきているのは明らかであった。


 まず打ち込みの重さが異常だ。

 竹刀のかち合わせでも全くと言っていいほど軸が振れない。

 サブロク竹刀だが重さは恐らく一般男子のそれよりも更に倍程重い特注品だろう。

 しかし真剣に匹敵する重さの竹刀は男でも簡単に扱える代物ではない。

 想像を絶するほど鍛え込まれている。

 短い竹刀も、か弱い見た目も完全にブラフであった。


 使う構えや技も、一見歪だが理に適っている。

 ソの字足、または撞木足(しゅもくあし)と呼ばれる足置きはフットワークを犠牲にするが、その分足腰に力が入り全方向への進退が自在になる。

 右手左足前の構えは手の内が懐深くに入って剣尖まで力が通る。

 それらを利用して相手の刀に張り付く妙技は、どこかの流派の演武で見た「続飯付」と呼ばれるものだろう。

 つまり古流だ。


 目の前にいるのは、古流剣術使いの女であった。


 警察官とはいえ、剣道特練員は訓練の過程でいくらかの古流を学ぶ事がある。

 それでも結局のところ、警察武道の古流修得は座学に近い。

 剣道の大会で結果を残すことこそが特練員を続けるために重要な評価点であるからだ。 

 ここに来て古流を軽視していた自分に気付き、後悔と反省の念を胸中に抱いた。


 それでも覚悟してしまえばどうということはない、と一ノ瀬は己を鼓舞する。

 これまでも我流めいた古流を引っさげて勝負を挑んでくる者は幾らかいたが、そのいずれも剣道で撃退している。

 それらと変わらない。

 しかもフィジカルの差は依然として有効だ。

 いくら鍛えているとはいえ、リーチと身長の差は用意に覆るものではない。


「二本目、はじめッ!」


 剣道にも左足前の構えはあると言わんがばかりに、一ノ瀬は身長差を活かした上段に構える。

 距離を取ることで張り付く剣技を拒否し、リーチのある最速、最高威力の打ち込みで勝負を決める選択をした。

 油断という心理ブレーキは取り払われ、世界ランカーの剣気を持ってして大きく猿叫を上げた。


 上段に構えるのを見た女は即座に距離を取り、両手を顎の前辺りまで上げてから左右の握りを入れ替えて、竹刀を顔のすぐ左側で垂直に立てて相対する。

 一ノ瀬はその構えを「立て八相」の変形だと認識した。

 鉄華の目に映るそれは、もはやには子供のチャンバラごっごの世界かと思わせる程の奇怪な構えであった。

 それでも、泥蓮と名乗る女の強さはもはや疑いようがなく、鉄華はこれまで培った剣道観が土足で踏み荒らされていく思いさえした。


 審判の鉢須賀と渡部は視線を合わせて互いに小さく頷く。

 剣道のルールからすれば、先程の小手は一本にはならない。

 本来は十分な気合、剣技、体捌きが一致して初めて有効打になるべきで、女は無作法に剣技を振るっただけであったからだ。

 女が圧倒的な弱者だと思い込んでいたが故に、甘めの判定をしてしまった。

 試合を申し込んでおいて、流儀を無視した決着を勝手に決めようとするのは認められるべきではなく、次に同じ打ち込みをした時は有効を取らないという確認の相槌であった。


 一ノ瀬は相手の構えが上段に対する防御的なものであると判断し、後の先を警戒する。

 上段から放たれる片手面打ちに出小手を狙うことはできない。

 後方に飛びながらの引き技にはリーチ差で勝てる。

 面を竹刀で受けるのであれば応じ技を打つよりも先に体当たりを捻じ込める。

 面に合わせて伏せて突進する抜き胴は、その兆しさえ捉えることが出来れば面打ちの振り下ろしからシームレスに防御に移行できる。

 その後はやはり体当たりで崩す。


 女が取るであろう行動選択肢の全てにおいて優位を感じ取っていた。


 数秒の静寂を破り、一ノ瀬が先に動く。

 広めに取った間合いを一瞬で飛び、己の剣の意地を乗せた片手面打ちが奔る。


 対して、女は一ノ瀬の面打ちに合わせて腰を捻りつつ左肩から袈裟に振り下ろす。

 体躯からは想像もできない速さが空を切る。


 先に届いたのは、リーチ差を活かした一ノ瀬の剣であった。


「面あり!」


 両審判は旗を上げながら嘆息する。

 妙な技を使う女だが一ノ瀬が本気を出せば何の問題もない、と剣友会の威信を保てた思いで安堵していた。

 上段に対しては剣尖を上げた中段と突き技で対抗するのが常であるが、古流に固執するあまり剣道の定石を学んでいないのであろうと分析する。


 しかし、またもや竹刀が落ちる音がバシンッと道場に響き渡り、皆の思考を掻き消した。


 今度も一ノ瀬は竹刀を手放してしまっていたのだ。

 それどころか開始線に戻れないまま身を屈め、「ぐぅっ」と声を押し殺して左小手を押さえている。

 道着の袖と小手の間に一筋、赤い線が走っていた。

 血だ。

 流血している。


 その様子を見た範士の平上は即座に立ち上がり叫んだ。


「よし、勝負は終いだ! おい、鉢! ハサミ取ってこい! 小手裏を切って外してやれ!」


 範士の大声に一瞬怯んだ鉢須賀は「え、は、はい」と間の抜けた返事をして救急箱に駆け寄った。

 そしてガチャガチャと救急箱の中身をかき回してハサミを見つけると、転びそうな覚束ない走り方で身を屈める一ノ瀬に駆け寄っていく。


 その場から動けずにいた鉄華は、その騒動の最中に納刀し試合場から出ていく女の姿を捉えていた。

 一本取って一本取り返された引き分けの状態なのに、まるで勝敗は決したと言わんがばかりの身の引きようであった。


 鉢須賀が小手裏の紐を一本ずつ丁寧に切っていき、やがて露わになった一ノ瀬の左手は、薬指と小指が第二関節の辺りで大きく腫れ上がっていて一部裂けた皮膚から夥しく出血していた。


「なんだ、大したことはねえな。ボールペンでも当て木にして布巻いとけ。わた坊はタクシー呼んでこい」


 渡部は携帯電話を取りに行こうと小走りに更衣室へ向かっていった。

 平上は技を検分するかのように、目を見開いて傷口を観察し続けている。

 遠巻きに眺める鉄華の目にも、骨折しているのは明らかであった。


 女の左袈裟斬りは、飛んでくる片手面の竹刀を握る指を狙って放たれていたようだ。

 狙ってやったのであればルール上は反則である。

 しかし、それはもはや出小手と言うレベルではなく神技とも言える精妙さであった。


 鉄華が隣に座した女に向き直ると、既に面を外していた。

 その顔貌は歓喜も罪悪感もなく冷静なままで、もう一ノ瀬に対しての興味すら無いように呆けて見えた。

 そして防具の結びを緩めたかと思うとワンピースを脱ぐかの如くするりと胴と垂れを外して、鮮やかな程一瞬で防具袋に収めていく。

 まるで世界の全ての出来事に関心がないといった女の様子を眺めていた鉄華は、ふと我に返り気付いた。


 ――こいつ、逃げるつもりだ。


 そんな身勝手は許されない。

 これはもう傷害案件だ。

 鉄華は義憤を感じ、逃走を阻止しようと片膝を浮かせた――その瞬間、女と視線が交差した。


「あ……」


 深淵の双眸が向けられる。

 その圧力に、鉄華は口から出かかった言葉を堰き止められた。

 ほんの二、三秒ほどの睨み合いの後、ふいに女は視線を下げる。

 つられて鉄華も視線を下げると、女の足元にある竹刀袋が目に入った。

 大きめに作られた黒革の竹刀袋の蓋は、鉄華に見えるようにわざと開かれている。

 その中には先程使っていた竹刀の白い柄頭とは別にもう一本見えていた。

 金属質の柄頭から紺色の柄巻が伸びている。

 真剣だ。

 女は日本刀を持ち込んでいる。


 鉄華は緊張で心臓を掴まれたような錯覚すら覚えた。


 女は剣友会稽古の始まる前に現れ、その閑散とした時間帯でも一ノ瀬がいることを知った上で現れている。

 当然、稽古の音を耳にし、鉢須賀や渡部が早くにいることも知っていたはずだ。

 それでも乗り込んできたのは、敵地の只中で袋叩きにされる可能性を分かっていても尚、勝つ自信があるからだ。

 女の放つ殺気が充分な覚悟の上にあるものだとようやく気付かされた。

 動けば本当に殺されるかもしれない。

 鉄華は膝が浮いたまま立ち上がることも座り直すこともできず、縫い付けられたように動けなくなってしまった。


 狼狽える鉄華をよそに、女は防具袋の口をしっかり結び、竹刀も竹刀袋に収めて身支度を済ませた後、音もなく立ち上がる。

 そして手当される一ノ瀬の方を向いてゆっくりと一礼した。


「ありがとうございました」


 そう一方的に言い放ち、防具袋を担いで道場から出ていこうとする後ろ姿を、平上が呼び止めた。


「ちょっと待てや、小娘」


 平上は怒るでも非難するでもなく、むしろ楽しげに口元を緩めてすらいる。

 女の方はもはや現れた時のような愛想など欠片もなく、ただ背を向けたまま立ち止まり、肩越しから鋭い視線だけを飛ばす。

 油断も隙もなく、背から斬りかかられても対応できると言っているようにも思わせた。


「構えは合気剣術、粘りは念流、打ち込みはタイ捨か新陰か。おめぇさん一体どこの流派なんだい? その若さで我流ってことはねぇだろ」


 女は隈掛かった目で平上をつま先から頭頂までじっくり観察した後、興味なさそうに振り返るとそのまま道場を後にして去って行った。

 

「けっ、無視かよ。とんでもねえ奴が現れたもんだな、おい。今は何時代なんだよ? かかっ、かっかっかっ」


 平上は喫煙で痰の絡んだ乾いた笑い声をしばらく続けた後、誤嚥で咽たのか咳込んでしまった。

 一ノ瀬は痛みと屈辱に顔を強張らせたまま俯いていた。

 鉢須賀は不慣れな応急処置に駆られ、渡部は呂律が回らない様子で病院と電話のやり取りを続けていた。

 鉄華は今しがた眼前で展開された異様な番狂わせに言葉を失い、中腰のまま固まっていた。


 去っていく女を引き止める者はいなかった。




  ◆




「わた坊、てめえは一ノ瀬の付き添いだバカヤロー。女のケツばっか見てねぇで、市民様から巻き上げた税金分奉仕しろや」


 範士も元は公務員でしょう? と言いたげに渡部が溜息をつきながら一ノ瀬の付き添いでタクシーに乗り込み、近場の病院へと向かっていった。


 一ノ瀬は結局あれから俯いたまま一言も発しておらず、その心中を察してか、誰も声をかけることはできなかった。

 剣道において左手の薬指小指は握りの核となる指だ。

 彼の復帰は長引くように思えた。


「日が悪かったなぁ鉄華ちゃん。胸糞悪いもん見ちまったかい?」


 静けさを取り戻した道場で手の震えを押さえている鉄華を見た平上は、子供を宥める様に話しかけてきた。

 鉄華自身、流血する程の怪我を見た経験は何度かあるが、強さを知り尊敬もしている恩師が敗れたことには堪えるものが少なからずあった。

 だがそれは、胸中に渦巻く感情からすれば些細な事である。


「範士、あの女は、あの技は何だったんですか?」


 鉄華の問いに平上は眉をひそめる。

 直接答えを教えてしまうことへの抵抗なのか、正道ではない剣技への嫌悪なのか、鉄華は知る由もない。

 

「まぁ古流の技だろうな。戦後まもなくはよくいたものさ。ああいうハメ手で剣道を玩具にする手合はな」


 範士は古流だと言った。

 先程見たのは、まだ刀が使われていた時代、武士がいた時代の技だ。


「現代ではほとんど失伝してるが、剣道でも有用な技はまだいくらかあるのだろうよ」


 平上の言葉を耳にした鉢須賀は床を掃除しながら抗議した。


「お言葉ですがね範士、あんなものは剣道ではないですよ。規格外の竹刀を持ち込み、正道ではない逆構え、ルールを無視した打ち込み、気剣体の一致もない。一体誰に習ったんだ全く……」


 語気を荒げ憤慨する鉢須賀の声は、もはや鉄華の心には響かなかった。


「恐ろしいほどに強かったです。あんな強さがあるのなら私は……」


 心中が漏れ出るように呟いてしまうが、その先は言えなかった。

 師である一ノ瀬を敗った剣技を褒めることは剣友会そのものへの侮辱になりかねない。

 鉄華の様子に違和感を覚えた平上は、深く溜息をつき、何か言おうとした鉢須賀の代わりに口を開く。


「鉄華ちゃんや。今日日、刀を持ち歩く侍なんておりゃしないだろ? 命懸けの勝負なら不意打ちやハメ手は常だが、そんな馬鹿げた日常はもうこの日本には無いんだよ。同じルールでぶつかり合うことで心気を練る、それが現代の剣道さね」


 それは違う、と鉄華は心中で否定してしまう。

 命を懸けるかどうかは覚悟の差だ。竹刀か刀かの差ではない。

 あの女の剣道は紛うことなく命を懸けていたし、命を懸ける覚悟には必ず勝敗が付き纏う。

 それは決して馬鹿げたことでも笑い飛ばすようなことでもない。


 平上は鉄華の心の葛藤まで見通したかのようにニヤリと笑ってみせる。


「剣道だって捨てたもんじゃねえぞ。ガタイのぶつけ合いだなんて思っている内はまだまだ青いってことよ。かっかっかっ」


 道場に響く平上の乾いた笑いに混じって、更衣室の喧騒が聞こえてきた。

 時計は午前十時近くになり、徐々に集まり始めた剣友会の面々が今朝の事件を知る頃合いだろう。


「ふぅむ、少々面倒事になりそうだな」


 平上は鉢須賀に目配せし、その指示を察した鉢須賀は静かに頷いた。


「一ノ瀬はあれで人望だけは一人前だからよ。現役の警官に無作法で怪我させて逃げたとあっては、独自に捜査が始まるかもしれねえ。そんなことしたら益々立ち直れなくなるだろうによ。まぁおいらが何とか抑えるけどな」


 剣友会員の殆どは警察関係者であり、一ノ瀬が搬送された病院から情報が流れる可能性がある。

 一ノ瀬自身が偽って語ることも考えにくいので、一連の出来事を隠し通すには限度があった。

 それなりに目立つ出で立ちだったので逃げた女を目撃している者もいるだろう。


「とりあえず鉄華ちゃんはもう帰りな。せっかく高校受かったんだろ? 面倒は避けとけや」


 鉢須賀もその意見に同意し「そうした方がいい」と諭してくるので、鉄華は稽古を切り上げて帰るしかなくなってしまった。




  ■■■




 帰りの道すがら、武道館へ向かうスポーツ少年団の子供達とすれ違った鉄華は、その様子を暫く立ち止まって眺めてから改めて帰路に就いた。

 皆、楽しそうに笑っていた。

 正午に向けて中天に差し掛かった太陽が、雪解けの水を蒸発させながらゆらゆらと遠景を歪めていた。


 古流剣術。


 鉄華はその言葉を反芻し噛み締めた。

 今よりも平和でない時代、刀が身近であった時代の技術が亡霊のように蘇り、現代の技術を踏み荒らしていった。

 ひたすらに情報を秘することで不意打ちに近い状況を作り出したあの女の倫理観は、剣技の優劣とは別次元の問題だと糾弾されるものなのかもしれない。

 それでも、鉄華の見解は違う。

 先程の勝負は、圧倒的に身体性能で劣る者が練り上げた技で勝敗を覆したのだ。

 決して生易しい道ではない。

 一般的な努力というものを遥かに超える朝鍛夕練の日常を積み重ねた結果であろう。

 道場にいた人間、恐らく範士でさえも勝てるか怪しい程の剣境に立っているあの女は、紛うことなき武器術の本質を体現しているように思えた。


 温故知新、古い知識がそのまま現代の知識を圧倒する世界がある。

 無知ゆえに見落としていただけで、既に祖父があの夜の庭で提示してくれていたのだ。


 鉄華は答えを得たように思えたが、――それでも、と一寸考えを巡らせ躊躇する。

 今になってそれを直視することは途轍もない不義理になると分かっていたからだ。

 知ってしまった以上、恐らくはどんな形であろうと剣を持てば必ず向き合うことになる。

 あの女の血の滲む様な努力に思いを馳せた時、それが人生の全てになることの業というものを感じずにはいられない。

 やはり剣を捨て、人並みの人生を探すべきなんだろうと改めて自身に言い聞かせるしかなかった。


 しかし、必要なピースを揃えて完成してしまった何か(・・)は鉄華の意識深くに根を張って成長し、じっと開花の瞬間を待ち続けているのであった。




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[一言] 初めまして。猫二朗と申します。 たまたまランキングを見ていたら貴方様の作品である『どろとてつ』が目に入り、僕の作品と厳密には違えど剣道、剣術に関する小説であるというあらすじを読んで興味を持ち…
2020/07/12 00:23 退会済み
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