雲と星
いま、どうしていますか?
僕は、雲に話しかける。
朱里の連絡先を探そうと思えば、そう難しくなく分かると思う。
実家の場所だって知っている。
でも、僕にはその理由が見つからない。
いま、どうしていますか?
私は星に話かける。
貴之が遠くの街に住んでいることは、知っています。
私は、この街が好きな訳じゃないけど、ここから離れられずにい
ます。
何度も、貴之に会いに行こうと思いました。
でも、貴之が私との思い出は忘れているのを知るのが怖くて行けません。
【プラネタリューム】
大学院まで進んだ僕は、結局宇宙に関係する仕事には就けなかった。僅かな望みをつなぐように入った光学系の会社でも、僕は宇宙とは程遠い情報システムの仕事をしている。
入社したすぐの頃は、辞めることばかり考えていた。ジャクサや国立天文台のパンフレットはいつも机の上に置いてあった。
海までは車で三十分もかからない職場は、僕と朱里が育った町からは四時間以上離れている。
中学を卒業してから、僕はどんどん朱里の住んでいる町から遠いところに来てしまった。
「よく来てますね」
県立天文台のベンチで雲の流れるのを見ていると、プラネタリュームの説明員の男性が声をかけてくれた。
「そうです、つい休みの日にやることがないと来てしまうんです」
大学院を卒業してから恋人はいなかった。
恋をする理由が見つけられなかった気がする。だから、就職してからの五年間、僕はよくここに来てプラネタリュームの椅子に座っていた。
「星が好きなんですか?」
缶コーヒ-を飲みながら僕の横に座り、僕と同じ雲を眺めた。
「どうなんでしょう。好きなんですかね」
いつもなら「暇なもので」と答えて作り笑いをしたと思う。僕は五年間で作り笑いが上手になった。
草間という名札をつけた説明員に面倒な回答をしたのは、前からその人の説明が好きだったからだと思う。
はっきりした声で、子供にも興味をひくように抑揚をつける話し方は、とても上手だと思う。
「僕はあまり好きじゃなんです。がっかりしましたか」
僕よりも年上と思われる草間さんは、短い髪をかきながら相変わらず雲を見ていた。
「仕事ですからね」
なぜ、草間さんがそんな話をするのか理解できないまま、僕は自分のことと照らし合わせて、そう答えた。
「ええ、でも仕事は好きですよ。プラネタリュームに来てくれた人が、僕の話を聞いて楽しんでくれるのは、とても満足感があります。
僕は、教師になりたかったんです。でも、半年で高校教師を辞めました。それから、人と会うのが怖くて、プラネタリュームに逃げ込んだんです。あの空間は真っ暗で人の顔なんて見えないですからね。
余計なお世話だと分かってるんですけど、あなたの顔が、あの時の私に見えるんです。
まったく余計なお世話ですよね」
草加さんは、それだけを言うと申し訳なさそうに僕にお辞儀をしてまた、天文台に戻ろうとした。
「草加さんは幸せですか」
そう質問した。
「幸せですよ。いつも笑っていますから。彼女が,そうしろって言うんです。昨日幸せじゃなくても、明日幸せか分からなくても、笑っているときは幸せなんだ。そんなことを言うんです」
振り返った草間さんは、ぎこちないけど笑っていた。
「そうですか」
他にもいろんなことを聞きたくなった。
こんな風に誰かに話を聞きたいと思ったのはいついらいだろう。
沙世とはよく話をしたと思う。でも、それとは違う。
朱里とは・・・もう忘れてしまった。
僕は小さなことでも忘れないと思っていた朱里との思い出を少しずつ気がつかない間に忘れている。
「来月は大規模な流星群が現れますよ。新月で観測には適していますから、ぜひ来てください」
そう言って手を上げる草間さんの手の平の痣は水の王冠の形をしていた。
【ガラスの王冠】
就職をして七年が過ぎた私は、サブリーダーとなって長期予報を担当していた。
長期の予報は農作物の相場に大きく影響する。
地球の小さな営みさえ、お金に変わってしまうのだと知った。
「迷惑かけるね」
デスクの前で気象庁の発表をチェックしていると、リーダーの川原さんが、チョコレートを持ってきてくれた。
私より十年先輩の川原さんは、女性で初めて管理職になった人だ。
「誰がやったの?誰がちぇっくしたの」
ヒステリックに責任の所在を問い詰める川原さんを私は苦手だった。チームの全員がピリピリしていて、その空気に触れると指先が痺れるような感覚になった。
何度か、山科さんに異動の相談をしたが、「もう少し我慢して」と優しく慰めてはくれたが、特に上席に掛け合ってくれている訳ではなかった。
その川原さんが胃潰瘍で入院することになった。
「引継ぎもあるから、今晩時間とれる」
川原さんは、野菜料理で評判の店に誘ってくれた。
二人きりで食事をするのは気が重かったが、断る理由が見つからず、「よろしくお願いします」と返事をした。
最近、女子の間では行ってみたいと評判のカジュアルレストランは、平日の夜にも関わらずテーブルは満席だった。仕方なく、カウンター座ると、川原さんはスティック野菜とノンアルコールワインを注文し、私はビールとベーコンサラダを頼んだ。
「ごめんね、遂に胃を壊しちゃった」
入院が決まってからの川原さんは、気弱になったようで、よく「ごめんね」と言う。
「頑張ってましたからね」
私はちょっと意地悪な気持ちになっていた。
私はどんどん意地悪な女になっている。図書館で貴之と笑っていた頃は、誰かの病気を「ざまあみろ」なんて思わなかった。
どんなに私と貴之のことを冷やかす人がいても憎らしいなんて感じなかった。ただ、貴之を悪く言う人には「それは誤解だよ」って教えたかった。
少しずつ、少しずつ私は意地悪になって、今は目の前にいる病人に同情することすら出来なくなっている。
「君は意地っ張りだね」そう言ったのは山科さんだった。
意地なんてはったことはないと思っていた。
こんな私を、貴之はどう思うだろう。
「あっ」
私は川原さんのスマホについているチャームに目を奪われた。
ガラスがキラキラと不規則に光を反射する水の王冠。
「これ?へんな形でしょう。前に付き合っていた彼の贈物。ヨーロッパに出張に行った時に買った安物のお土産よ。
割れちゃえばいいのに。って思って、ここにつけてるのに失くしもしないの」
「水の王冠って言うんですよ、その形。大粒の雨が地面に落ちると、そういう形になるんです」
私はまだ覚えていた。貴之が私に教えてくれたこと。
大好きだったシャンプーの匂いも思い出せないのに、その言葉だけはきっと死ぬまで忘れない。
「へー、なんか面白い形だから買っただけらしいけど、そんな名前を付けられると、よけに捨てづらくなるわね」
川原さんは珍しく自分のプライベートな話を始めた。ご両親のことも、兄弟何人いるかも知らない川原さんは、昔の彼のことを、ゆっくりと話始めた。
「私にも恋人がいたのよ。毎日が彼のことでいっぱいだった。
十五歳年上の彼は、大学の講師をしていて、私は彼の生徒ね。
卒業してすぐに、彼は私に告白したんだから『きっと僕がいままで結婚しなかったのは、君を待っていたから』恥ずかしいでしょう」
川原さんは、自分のセリフに顔を赤くした。
「でも、地方の大学に教授の口が見つかったら『君には僕は似合わない。君を幸せにするには歳をとりすぎた』だって。
そんなこと言うなら、【運命】なんて軽々しく口にしないで欲しいわよね。むしろ、『君みたいな我儘な女とはやっていけない』ぐらいいいなさいよ。って感じ」
「運命って信じますか?」
私は少女のようなことを聞いてみた。
「どうだろう?今は信じてるかな。
彼と別れて、仕事に打ち込んだ。いつか彼がびっくりするほど出世してやるって思ってた。
でも、病気になって思ったのは、私は出世した私を彼に見せたかったんじゃなくて、病気になった私を心配して欲しかったのかな。ってね」
川原さんの表情は、なぜかほっとしたように見えた。
「ねえ、このチャームいらない」
川原さんは、水の王冠を爪で弾くと、今までに見たこともないような優しい笑顔でノンアルコールワインに口をつけた。
「いりません、失恋の思い出なら私も持ってますから」
そう言いながら、右腕を指で弾いた。