赤い傘
大学四年の夏は入道雲が多く発生し、僕が住む海辺の町に豪雨をもたらし水の王冠を見せてくれた。
でも、水が王冠を作ることを沙世には教えなかった。
【沙世の片想い】
高校二年の夏に貴之先輩に告白したのは、本当に自分でもびっくりした。
私が受験をするとき、貴之先輩は面接の案内係だった。
緊張で膝が震えている私に、貴之先輩は、
「大丈夫、雨の心配はないよ」と言った。
緊張でパニックな状態なのに変なことを言われ、私は大混乱で空など見える訳がない天井を見上げてしまった。
「折り畳み傘は預かってあげるよ」
そう、私は何故か折り畳み傘を握りしめていたのだ。自分では気がつかないほど私は緊張していた。
「すいません」
私は赤い折り畳み傘を貴之先輩に渡すと、深々とお辞儀をして、貴之先輩のベルトに頭をぶつけた。
「大丈夫、きっと上手くいくよ。もう一度、リボンを結び直せば完璧だ」
貴之先輩に言われた通り、ゆっくりと制服のリボンを結び直したら、少し気持ちが落ち着いた。
それ以来、私は貴之先輩ばかり見ていた。
部活に入っていない貴之先輩と一緒に帰りたくて、中学までやっていたソフトボール部にも入らず、放課後は貴之先輩を探す毎日を半年間も続けた。
校門から駅までの十分間、そして反対のホームから見つめる二分間、これが私と貴之先輩の時間だった。
貴之先輩の背中を見ながら、何度も「好きです」と心の中で叫び、その想いがテレパシーとなって届くことを願った。
ホームの反対から見つめる時は、感づかれないようにスマホ越しに見ることにしていた。
(どうか、貴之先輩が私の想いに気がつきますように)スマホ越しに念を送っていた。
私の念が叶ったのは高校1年の夏休みだった。
同級生とプールに行く約束をしていた私は、学校のある駅で待ち合わせをしていた。
すると、そこに貴之先輩が来てくれた。もちろん、私と待ち合わせをするためじゃない。
「あっ」
突然のことで私は思わず大きな声を出してしまった。
「今更だけど、入学おめでとう」
貴之先輩は私のことを覚えていてくれた。
「あの日は帰りに雨が降ったね」
「はい、私いつも折り畳み傘を持ってるんです」
そういって、水着の入ったリュックからあの時と同じ赤い折り畳み傘を出して見せた。
「準備がいいんだね。でも、正解かもしれないよ。もうすぐ雨が降りそうだ」
貴之先輩は困ったように近寄ってくる黒い雲を見上げた。
「良かったら使って下さい」
押し付けるように折り畳み傘を渡すと、待ち合わせも忘れて逃げるように来た電車に飛び乗った。
友達には電車の中から隣の駅で待っていることをメールで伝えた。
結局雨でプールにはいかず、隣駅のハンバーガーショップで、友達に貴之先輩の話を三時間して帰った。
赤い傘なんて恥ずかしくなかったかな。あの傘は小さいから雨に濡れなかったかな。
持手の所が汗で汚くなっていたらどうしよう。
私は友達と別れた後も、ずっと貴之先輩のことを考えていた。
翌日、先輩は校門の所でスマホを見ながら私を待っていてくれた。
新学期が始まると、先輩はスマホを見ながら私を待っていてくれた。
「夏休み中に返そうと思ったが、連絡先も分らなかったから。長い間ごめんね。困らなかった」
貴之先輩は申し訳なさそうに、傘と一緒にハンカチをくれた。
「大丈夫です」
私は嬉しくて走り出したい気持ちを、抑えるのに必死だった。
本当は折り畳み傘がなくてとても心細かった。何度も買おうと思ったが、買ってしまったら、先輩との細い縁が切れてしまいそうで買えなかった。
赤い折り畳み傘は、私にとってどんなお守りよりご利益があるラッキーアイテムなのだ。
その日から駅までの十分間、私は先輩の横を歩くことができるようになった。
友達には「大丈夫だよ」と何度も告白することを勧められたが、私には無理だと思っていた。
貴之先輩は優しいし、私の話を笑って聞いてくれる。だけど、何も話してはくれなかった。
どこに住んでいるのか、帰ったら何をするのか。
私は何も教えて貰えなかった。
先輩の住む街は、由香里から教えてもらった。そして、学校の帰りに予備校に通っていることも、梓から教えてもらった。
仲間内では私が貴之先輩を好きなのは有名になっていた。一度だった、そんな相談をしたことはないのに。
「だいたい沙世はネガティブなんだよ」
ハンバーガーショップのポテトを食べながら、何故か私は友達から責められる。
「そうそう、いつも傘は持ち歩くし、タオルやティシュなんていくつ鞄に入れてるのよ」
「ノートも予備を持ってるでしょう」
「毎日のように一緒に帰ってるんだから、先輩だって沙世に気があるに決まってるじゃん。先輩も酷いよね」
必ずその話になる。
貴之先輩は私の気持ちを知りながら、私から告白させようとしているのだと由香里も梓も先輩を詰るのだが、私は違うのを知っている。
貴之先輩はただ優しくて、同じ時間に帰る私を無視出来ないだけ。
そして、先輩は私と反対の電車に乗ると、すぐに誰かにメールをしているのを知っている。
そして、貴之先輩が中学の時に朱里さんという彼女がいたことも私は知っていた。
先輩ばかりを見つめていると、知りたくないことも分かってしまう。
先輩と話せなかった頃より、たった十分でも話せるようになり、廊下ですれ違うと挨拶を出来るようになってからの方が想っているのが辛かった。
何も知らなかった頃は、ただ、先輩とデートする夢を見てニヤけていれば良かったのに、貴之先輩のことを知れば知るほど、私とは結ばれないと思うようになって切なかった。
【沙世の告白】
二年生の夏に私は先輩と同じ予備校で夏期講習を受けた。友達は違う予備校に行こうと熱心に誘ってくれたが、私は頑なに断った。
「私たちの実力じゃ、あの予備校は無駄だって、絶対ついていけないよ」
由香里の言うことはもっともだと思う。
「でも、親があそこにしろって煩いから」
嘘だった。親も由香里と同じ予備校を勧めていたのだが、私は必死になって頼み込んだ。
「これから、すごく勉強するから」
夏休みの予定表まで作って親を説得した。
「夏期講習に来たんだね」
傘をさして歩く私の後ろから、ふいに貴之先輩の声が聞こえた。
「その傘は吉野だと思ったよ」
振り返ると、先輩は傘をささずに走り去った。
貴之先輩は傘を持たない人だった。天気のことを気にするくせに、折り畳み傘を持たない人だ。
三年生で特進クラスの先輩と二年で一般クラスの私では、もちろん同じ教室で講義を受けることはない。
でも、夏休みに同じ建物の中にいられるだけで幸せだった。
帰りは雨が強くなっていた。私はわざとモタモタと傘の準備をして貴之先輩が来るのを待った。
「けっこう降って来たね。少し待ってから帰るよ」
予想していなかった言葉に私は固まってしまった。
「あの、傘貸します」
完全に変なことを言った自覚はなかった。
「二本あるの?」
「いえ、私は大丈夫です」
「じゃあ、駅まで入れてもらえる?」
こうして私は、先輩と相合傘で歩くという幸運に恵まれた。それは、とても怪しい策略だったと思う。
「俺が持つよ」
先輩が傘を取ろうとして私の手に触れたとき、わたしはうっかり
「先輩が好きです。泣きそうなぐらい好きです」
と本当に泣きながら言っていた。
「ありがとう」
貴之先輩は私の顔をまっすぐ見て、そう言ってくれた。
その日の夜は、自分のしたことに後悔をして泣いた。一晩中、今日のことは無かったことになるように祈った。
貴之先輩が、全部忘れていることを願って泣いた。
翌日からの先輩は変わらなかった。予備校では私に缶ジュースをご馳走してくれて、昼休みには勉強も教えてくれた。
そんな優しさに甘えて、私は予備校の自習室までついて行った。
先輩が過去問を解いている横顔をチラチラと見ながら、心臓の音が机に伝わりそうになるのを、必死で机を抑えて食い止めた。
これを付き合っていると言うのだろうか。
彼と彼女の関係と言って問題はないのだろうか。
私の悩みはどんどん増えた。
でも、その質問を最後まで貴之先輩にすることは出来なかった。そして、秋には先輩と同じクラスの女子と先輩は一緒に帰るようになった。
その後ろ姿を見たくなくて、私は下校時間を遅くした。
でも、図書館からどうしても二人の姿を探して涙が出るのを誤魔化すことが出来なかった。
だから、卒業式は欠席した。