歪なチョコレート
彼女を待ちながら生徒会新聞を書く。そんな放課後。
普段ならば、こんなものはさっさとでっち上げて、彼女になんとか追いすがるための勉強をするところなんだけど……。
「はあぁー……」
「賢二、気持ちは分かるけどうるさい」
「なんだよ浩紀、お前に俺の気持ちが分かるだろうか、いや分かるまい」
「よくわかったな。正直、『ザマァー!』と思ってるよ」
「だろ? 嫉妬するくらい俺の彼女はかわいいもんな」
「いきなり惚気んな!」
同じ生徒会役員の浩紀とくだらない会話を続ける。
こいつは書記で、俺はなんと副会長。
自分でも、俺なんかが副会長とは力不足だと思う。けれど、それでもなんとかやっていける理由は、まあ、恋の力は偉大だということだ。
「そもそもあの悪魔の報告はお前がもたらしたんだからな、浩紀」
そうなのだ。俺が生きる屍と化したのは(直接的には)こいつのせいなのだ。なのだなのだ。
「俺を偵察に送り込んだのはお前だろが! 全く、つき合ってんだから自分で聞けっつう話だよ」
「それができたら苦労しねえよ……」
「もう一回言ってやろうか? 『明日が何の日か、ですか? 明日は二月十四日? ですよね? ……《214》という数字は、一見綺麗な数字ですが、素因数分解すると、《2》と《107》にしかならないのは不思議ですよね』――だってよー!!」
「裏声キモイ」
あと全然似てない。
「いやはや、やっぱり会長は変わってるねー。キスもまだなんだろー?」
「否定はしないけどさ……」
しぶしぶ口に出すとカカカと笑いやがった。
「ま、いづれにせよ今年はバレンタインが土曜日でよかったよな」
「……そうだな」
例年なら生徒会で、勉学に関係のないチョコの持ち込みは取り締まるところだ。面倒なことをしないで済むのは助かるのだが……。
――生徒会新聞の作成に集中することにする。黙々と作業を始めた俺のことを見て浩紀の奴は何を思ったか、
「大丈夫だって、賢二。お前も変わってるから、つり合いはとれてる」
なんて言う。
……変人具合でつり合いがとれてても駄目なんだよ。
◆
――才色兼備で文武両道。
彼女を簡潔に言い表そうと試みるならば、この言葉で足りるだろうか。
先ほど浩紀と別れ、校門のところで彼女を待っている。
しばらくすると「賢二くーん!」と呼びかける声が聞こえた。
自然と顔がにやけるのを必死で抑える。
駆けてくる彼女のダークブラウンの髪が、夕日を浴びて輝いている。僅かに赤く染まる頬と荒い息が、急いで来てくれたことを示していて、嬉しくなった。
「ごめんね、賢二君。待った?」
「いや、全然待ってないよ。今来たところ」
「よかった。体育館の鍵返したりしてたら遅くなっちゃって」
「そっか、お疲れ様」
彼女の名は伊東楓。この中学校の生徒会長でバドミントン部の部長、成績も学年一位で模試の成績も県内で一桁の順位を叩きだす。
――正直、俺なんかが釣り合う相手じゃない。
「どうかした?」
「え、どうもしないよ?」
「そう? じゃあ帰ろっか?」
二人で手を繋いで歩きだすと、どこか手に違和感を感じた。彼女の手を見てみると、指に絆創膏が巻いてある。
「指、大丈夫?」
「あ、ううん。なんでもないの大丈夫」
「あ、そうなんだ」
それきり会話が途切れ、沈黙が訪れた。
普段は会話が切れても一緒に居るだけでだけで幸せで、沈黙も気にならないのだけど、今日は、明日のバレンタインのことを意識してしまい、どこか気まずい。
なぜだか、彼女の手も少し強張っているように感じる。
「い、痛いの痛いの、飛んで行けー……」
「え? 何か言った?」
思い切って、呟いたけれど聞こえなかった様子。
「痛いの痛いの飛んで行けー!!」
「へ? ――プフッ」
一瞬、きょとんと目を丸くした後、肩を震わせる彼女。
「アハハ。ありがと。でも、ちょっと手を強く握りすぎかなー」
緊張していて気がつかなかったが、手にかなり力が入っていた。
「あっ。ご、ごめん!」
「いいよ。なんか嬉しい痛さだから」
彼女がこちら見る時は、俺よりも身長が頭一つ分低いので、必然的に上目遣いになる。――何が言いたいかと言うと、俺の彼女はかわい過ぎた。
自然と俺たちの足は、楓の家の方へ向かう。俺にとっては多少の遠回りになるが、少しでも長く同じ時間を過ごしたいと思うのは当然のことだろう。
その間、なんでもない雑談を楽しむ。途中で、日曜の模試の話になった。
「楓は土曜日はヴァイオリンのお稽古だろ? 模試の前日に凄いな」
「でも、いい気分転換になるから。それに、そんなに遅くまではしてないし」
「それでも凄いって」
楓は他にも書道教室に通っていたりするのに。それに俺なんか、塾に行ってなんとか付け焼刃の学力を得ようともがいている。
「そうだ。もう志望校とか決めた?」と楓。
「うーん。全く考えてないと言ったら嘘になるけど……」
高校受験まであと一年。少しは考えていないと駄目だろう。
「賢二君は、剣華乃高校志望?」
「いや……」
彼女の言う剣華乃高校は、県内で最も歴史と実績のある県下一の進学校だ。俺の兄貴もそこに通っていた。
「え? 違うの? ……もしかして、開難高校、とか……?」
「え――いや違う違う!! そんな凄いところには行かないし、行けないよ」
開難高校とは、隣の県にある全国でも指折りの私立の進学校。
俺は開難なんて志望校として意識したこともない。そんなん志望校ならぬ死亡校だ。
……けれどここでこの名前を出した彼女は、少なからず意識しているということだろう。
「楓は開難志望?」
「いや、志望校ってわけじゃないんだけど……先生とかが、受けてみたら、どうだ、って」
確かに俺が教師でもそう言うだろうな。
「でも、私は、賢二君と同じ高校がいいなー、なんて思ったり、して」
そう言って、彼女は俯き、小石をコロコロと蹴って転がし始める。同じ高校に行きたいと言ってくれたことは、凄く嬉しい。けれど、
「無理に俺に合わせる必要なんかないよ。楓は楓の行きたい場所に行くべきだ。それに……俺も、先生と同じで、楓は開難を目指すべきだと思う」
必要以上に冷たい言い方になってしまった。けれど、これは俺の本心だ。
「……そう、かな?」
「そうだよ。楓は俺みたいな凡人とは違うんだから」
「……なにそれ」
再び訪れた沈黙。先ほどの沈黙は、天使が通ったとでも言えたかもしれないが、今回はもっとどうしようもない空白だった。
小石を転がす音も聞こえなくなっていた。
お互い黙ったままで、楓の家までたどり着いた。
気まずくて「じゃ」と短く告げて帰ろうとするが、「待って……!」と呼び止められた。
「何?」
「え、えと……明日って、何の日だと思う?」
ああ、俺が浩紀にそのことを訪ねさせたせいで、明日が何の日か気になってしまったのか。
「……《214》って、一見綺麗だけど、素因数分解しても《2》と《107》にしかならないのは意外だよね」
「え――? ア、アハハ。わ、私も同じこと考えてたの。アハハ……。私たちってやっぱり似てるのかもしれないね。ハハ……」
よかった、笑ってくれた。正直、浩紀に教えられたときはショックだったけど、転んでもただじゃ起きないのだ、俺は。
「じゃあね」
「え……うん。バイバイ、賢二君……」
◆
思うところがあって兄貴の部屋の扉をノックする。
大学生の兄貴は、今は春休み中で、バイトやサークルのない日は一日中家でごろごろしている。今日は家に居るはずだった。
「ん? 賢二か?」
「兄貴、ちょっと話があるんだけど」
「勝手に入れ。……メンドクセー」
おい、メンドクセーって聞こえたぞ今。とはいえ、勝手に入れと言われたので入る。
兄貴はベットに転がりながら漫画を読んでいた。
「話って何だ?」
ページをめくる手を止めずに言う。
兄貴は回りくどい話は好まないし、単刀直入に言おう。
「兄貴はさ、開難高校を目指してたら入れた?」
「は? 開難? そんなの無理に決まってんだろ」
ケタケタと笑う兄。まだ漫画を読んでいるため、俺の話を笑っているのか、漫画で笑っているのかはわからないが。
ともかく、俺より出来のいい兄貴で無理なんだから、俺は言わずもがなだな。
「ありがと、それだけだから」
もう用はないし、漫画を読む邪魔だろうし退散することにする。
「何? お前、開難目指すの?」
呼び止められた。別に無視してもよかったけど、意外なことに兄貴は漫画を読むのを止め、体を起してこちらに向き直り、「お前そんなに頭よかったっけ」と笑っていた。
「そんなわけないだろ」
「ふーん。ま、とりあえず、お前は俺みたいになるなよ」
小指で耳をほじりながら、そんなことを言い出した。
「俺には、お前が開難目指そうが知ったこっちゃねえけど、背伸びした高校目指すなら、覚悟だけはしておけよ? 剣華乃高校の落ちこぼれからのアドバイスだ」
「覚悟ってなにさ。落ちこぼれになる覚悟?」
鼻で笑ってやったが、兄貴はにやつきを崩さない。
「ちゃんと地に足をつけなきゃいけないってことだ。なまじ名門校行っちまうと、落ちこぼれてさえ、自分を過信しがちになる。で、夢ばっか見てると、俺みたいに浪人した挙句、たいしたことない私大に行くことになるぞ?」
何が「たいしたことない私大」だ。それでも名の通った大学に通ってるくせに。まあ、裏を返せば、兄貴ほどの大学に通っていてもぬぐえないくらいの劣等感を、高校で抱いたということなんのだろうけど。
「お前も中学じゃ成績がいいんだろうけど、所詮は市立の小せえ中学だ。時々でる本物の天才以外は、学年一位を取ろうが、生徒会長やってようがたいしたもんじゃないんだよ」
兄貴は目を閉じ、自虐的な笑みを浮かべた。……こういう時の兄貴は好きじゃない。
「ところで、お前が開難高校とか言い出したのは、伊東さんのためか?」
「……どうせ釣り合ってないとか思っているんでしょ?」
そんなこと、他ならぬ俺自身が思っているんだから、放っておいてほしい。
しかし兄貴は目を細めてこちらを見据え、「否定しないんだな」と呟く。
「――だからさ、俺は別に開難高校どころか剣華乃高校だって目指してないから。もっとランク下げて身の丈にあったところに行くつもりだから」
「伊東さんと離れ離れになったとしてもか?」
「あいつは俺なんか釣り合う相手じゃないんだから仕方ないだろ」
「……ふーん。あっそ」
再び漫画を読み始める兄貴。あっそ、ってなんだよ。あっそ、て。
◆
明くるバレンタイン当日。俺は、悶々としながらも模試の勉強をしていた。
さすがに数学などの思考系の問題はやる気になれず、社会の暗記物や、英文の音読をしている。
ピピピと五十分でセットしたキッチンタイマーが鳴る。休憩の時間だ。
机に突っ伏しながら「彼女がいるのに、チョコ貰えないのはショックだなー」なんて独り言がもれてしまう。
時計を見ると、ちょうど十二時を回ったところだった。
腹減ったな。昼飯をどうしようか。
父親は出張、母親はパートで、土曜日にも関わらず家には俺と兄貴しかいない。
兄貴は今日も特に予定はないらしく、部屋でまだ寝ていた。兄貴だって彼女ぐらいいるんだから、デートでも行きゃあいいのに。
ピーポン、とチャイムが鳴った。俺のささくれた心を反映してか、チャイムの音がやたと軽薄に聞こえる。
面倒だな、とぼやきつつ、どこかで期待をしてしまう。楓が、チョコを渡しに来てくれたのではないかと。
何故か抜き足差し足忍び足で、ドアホンのモニターを覗きこみに行く。
そこに居たのは、噂をすればなんとやら、兄貴の彼女だった。
「あのヤロウ、何を呑気に昼まで爆睡を決め込んでんだ」
デートか何かの約束じゃないのか? 無視したいところだが……そうもいかないだろう。
『こんにちはー。安藤千佳子です』
はい、と答えた途端、モニター越しでも元気が伝わるような挨拶が聞こえてきた。
だけど、自己紹介だけされても要件が全く分からない。
「すみません、今、兄貴まだ寝てるんですけどー」
『あ、賢二君!? 久しぶりー』
「はあ、お久しぶりです」
うん。会話をしてほしい。キャッチボールプリーズ。
『賢二君、しばらく見ないうちにおっきくなったねー。…………。て、ここは「そっちからは見えないやろっ!」って突っ込むところやないかーい!』
わかんねーよ。
兄貴と性格が合わなそうなこの人がまさかの彼女であることが、目下のところ、俺にとって二番目の大きな謎なのであった。
ちなみに最大の謎は、楓は本当のところ俺のことをどう思ってくれているのか、だったりする。
『あれ、黙っちゃった? 呆れた? うーん、やっぱり隆一さんにそっくりだねえー』
ああ、兄貴にも呆れられてるんですね。わかりますー。あとこれだけでそっくり認定を頂けるのなら、貴女の周りにはそっくりさんだらけになることでしょう。
「とりあえず、兄貴を叩き起こして来ましょうか?」
『いやーいいよ。隆一さん、昨日バイトの夜勤だったんでしょ? 私もこのあとバイトだしー』
その隆一さん、昨夜はベットで漫画を読んでいた気がするー。彼女に嘘をついてんのか?
『とりあえず、出てきてよー。渡したいものがあるんだー』
玄関を出てから小一時間たってようやく、俺は解放された。
「あいかわらず騒がしい人だったな。永遠と喋ってたかと思えば、『バイトの時間だ!』つって嵐のように去っていくんだから」
手渡された紙袋を覗きこむ。案の定というか当然と言うべきか、渡したいものとはチョコレートだった。
紙袋に入っていたのは二つの箱。そのうちの一つは、なんと、俺への義理チョコだった……!
いくら彼女がいるとはいえ俺も男のはしくれなわけで、おまけに「今年はゼロかー」なんて思っていたところへのチョコは、あからさまな義理だろうと嬉しい。……大きさが本命の四分の一でも嬉しい。
しばらくすると、二階からトイレの水を流す音が聞こえてきた。あの馬鹿兄貴がようやく起きてきたらしい。
ちょうど昼飯のチャーハンを作り終えたタイミングだったので、少しイラッときた。
◆
「冷蔵庫の中に安藤さんに渡されたチョコがあるから」
起きてきて水を飲んでいる兄貴に教えてやった。
「何……!? 千佳子が来たのか?」
来たときのことを教えろと言うので、一から説明すると「なんで俺のことを起こさなかった!?」と言う。
「は? 自分がいつまでも寝てたんじゃん!」
安藤さんだって起こさなくていいって言ってたし。
「チッ。で、あいつは時間ギリギリまでお前と話してたんだな?」
「まあ、そうだけど?」
「……はぁ、そう来るとは思わなかった。あいつだって朝は弱いはずだろ……」
頭をワシャワシャと掻く兄貴。
「ところで、なんで安藤さんに、夜勤明けなんて嘘ついたの?」
あの時から気になっていたことを尋ねる。
「……別に」
そうやって口を尖らす兄貴は久々に見たな。俄然興味が沸く。
「ねえ、教えてよ」
沈黙を保つ兄貴。
「チャーハンあげないよー?」
「……あいつが今日バイトなのは知ってたからな、迷惑かけたくなかったんだよ。明日出かける予定だったし」
「へ? つまり『忙しい中わざわざ来なくてもいい』っていうツンデレ?」
明日出かけるとは要するにデートか。
再びダンマリの兄貴。へえ、あの兄貴がこうやって人を気にかけるなんて。
「でもきっと今日渡したかったんだろうねー」
「お前に言われなくてもわかってるよ」
兄貴は話はこれで終わりだと言わんばかりに、チャーハンを掻き込んだ。
起きたばっかでよくそんなに食えるな。あともう少し味わってほしい。
◆
夕方、自分の部屋で勉強しているとドアをノックされた。
まだ家には兄貴しかいないはず。ならば、ノックしたのは兄貴であるわけだが、
「珍しいね。普段ならノックなんてしないでズカズカ入って来るのに」
とキッチンタイマーを止めながら声をかける。自分としては、入っていいよ、という意を伝えたつもり。それが伝わったのか部屋に入って来る兄貴。これから出かけるのか部屋着から着替えていた。
「お前ってマジで真面目に勉強してるんだな」
兄貴は俺を眺めてそんなことを言う。
「なにそれ嫌味?」
自分はそんなに勉強しなくても剣華乃高校に入れたぞ、って。
「そんなわけあるか。単純に『凄いな』って思ってんだよ」
「……そりゃどうも」
なんだか調子が狂うな。
「お前なら大丈夫かもしれないな」
「なにがさ?」
「剣華乃高校行こうが、開難高校行こうが、俺みたいにはならないんじゃないか、って思ったんだよ」
「どういうこと?」
とてもじゃないけれど、単純な才能の話なら兄貴の方がずっと上だと思う。けれど「才能なんか関係ねえよ」と兄貴は言う。
「大事なのは、自分に足りないものを見極め受け入れて、その上で、それを変えようと努力することなんだよ」とどこか遠い目で言う兄貴。
――そんな大層なことを俺が出来てるとでも言うのか?
「でも、いくら努力して変えようのないことに、力を入れるのは無駄じゃない?」
「だから、それを――努力しても変えられないつうことを――受け入れる努力が出来らりゃあいいんだよ。それに、その近くにあって、なおかつ努力可能なことをやっていれば、いつか手の届くようになってたりすんだよ。そういうのは」
兄貴は、例のつもりか、最初からセンター試験で九割目指すのは無理なら八割から目指せばいいと言う。いやいや、高校受験もまだなやつに大学入試で例を出されても……。さすが二年間大学受験生をやっていただけはある。
俺には、それは出来る人の理屈な気がしたし、最初から目標が八割っていうのはレベルが高いんじゃないの? とも思ってしまう。でもそれなら、まず平均点、平均越え、ってステップアップすればいいのか?
それに、仮にそうだとしても、
「――結局は『努力』じゃん」
努力。俺の苦手な言葉だ。嫌いじゃないけど苦手。俺みたいな奴にとって『努力』とは言わば、縋りつく最後の砦であって、同時にそんなものに縋らなきゃいけない弱い自分を写す鏡でもあった。
試しに、この思いを兄貴にぶつけてみた。
「努力に縋りつかないといけない人間は弱い、か……」
「だってそうだろ、出来るヤツは、それこそ当たり前のように出来るんじゃないの?」
「少なくとも、『努力に縋りつく人=弱い人』なら俺は強い人を一人も知らないよ」
兄貴は部屋から出て行こうとする。一体何しに来たんだか……。
「あ、忘れてた」と兄貴。
そうじゃないかと思ったんだよ。
「何?」と短く答える俺。
「今から出かけるから。夕飯はいらないって母さんに伝えといて」
「もしかして、安藤さんのところに行くの?」
「……そうだよ」
「珍しく素直じゃん? どうしたの?」
「お前を見ていたらな、『俺は素直にならないといけないな』って思ったんだよ」
「俺を見習おうってこと?」
「俺『は』って言ってんだろ!? ……中途半端にお互いを想い合ってるだけじゃ駄目なんだと思うぞ。俺もお前もな」
そう言い残して、兄貴は部屋を出て行った。
◆
兄貴は部屋を出て行ったが、俺は勉強に集中出来なくなってしまった。
椅子の背もたれに、文字通り、背をもたれかけながら天井を見上げている。
「俺は素直だし」
――ちょっと捻くれてるかもしれないけど。
「俺は本当に楓のこと大切に思ってるし」
――これは掛け値なしに。
そうやって悶々としていると、ピピピと携帯が鳴った。電話の着信音。画面をみると兄貴の名前が表示されている。
「何? まだ何か言い忘れがあるの?」
「賢二、今すぐちょっと外に出ろ」
「は? なんでさ、面倒くさい」
「いいからさっさと来い!」
何を大声出してんの?
「はいはい、行けばいいんでしょ?」
「あ、おい、ちょっと待って」
「来いって言ったり、待てって言ったり、一体何なんだよ!?」
「お前に言ったんじゃねえよ! とにかくすぐ降りてこい!!」
切りやがった。スピーカーからツーツーという音が聞こえる。
別に急ぐでもなく玄関に向かう。一体何なんだよ、と思いながらも、玄関のドアを開けると――
「おい、兄貴――え?」
「こんばんは……賢二君」
そこには楓が立っていた。
「こ、こんばんは……」と俺。
「…………」
「…………」
二人してフリーズしてしまった。冬の冷たい風が頬を突いて赤くする。二人して顔を赤くする様は、凍結した何かが溶けているようにも感じられた。
「ご、ごめん!」
とっさに俺の口から飛び出たものは、謝罪の言葉だった。
「え!? なんで謝るの!?」
「え、い、いや。何か謝らなくちゃいけない気がして」
楓はその言葉に唇を尖らせた。
「何? 賢二君は、何かよくわからないけど、とりあえず謝って済まそうとするの?」
「え、あ、ごめん」
「だから、とりあえずで謝るのを止めてってば!」
楓は、右手の中指と人差し指で、ピッと、俺の上唇を押さえた。
意識が唇に集中してしまい、すげえ緊張する。そういえば、脳の大脳皮質の表面比の割合で、唇は比較的大きい値を占めてるんだっけ……? つまり、唇は敏感な場所なわけで――……。
何だろ目がクルクル回っている気がする。同時に思考も、まるで漫画のように、クルクル回っている。
「賢二君? どうしたの?」
楓が指を離して、顔を覗きこんでくる。大きな瞳が目の前に迫っていた。一難去ってまた一難! いや、俺が一人でドタバタしてるだけだけど……。
思わず、横を向いてしまう。い、息を吸いたい! アイ ニード 深呼吸!
「賢二君、今、顔、背けた」
「え?」
顔の向きはそのままで、視線だけ楓の方に向けると、楓は不機嫌そうな顔をしている。
「心配してあげたのに、顔を背けた」
いやだって、目の前に――
「謝って」
「へ?」
「ごめん、以外で謝って」
あ、謝るなって言ったり、謝れって言ったり……。と、とりあえず、「す――
「すみませんもなし!!」
――何だとっ!?
「す……」
「すぅー?」と、にやりと笑いながら首を傾ける楓。
今の楓は、普段は見せないくらいハチャメチャで、そして楽し気だった。ああもう、かわいいなー、チクショウ!
「好きだよ」
きちんと向き直り、そう告げた。
「…………」
真面目に言ったのに、そうやって真顔でカチーンと固まるのは止めて欲しい。
「…………」
遂に俯いてしまった。そんなに黙りこまれると居た堪れなくなるから止めてよ。
また、思わず「ごめん」と謝りかけた時だった。
「……ありがとう。はい、これ」
にっこりと笑いながら顔を上げて、楓は一つの包みを差し出した。
「え? これって――」
「バレンタインデー、おめでとう」
「あ、ありがとう」
今度は俺がカチーンと固まってしまう番だった。
今日が何の日かすっかり失念していた。楓が来てくれた時点で予想してしかるべきなのに。……もしかしたら、わざと目を逸らして、何もなかったとしてもショックを受けないようにしたのかもしれなかった。相変わらず駄目な奴だな、俺は。
「賢二君、袋を開けてみてくれる? 私、伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「え? わ、わかった……」
楓の改まった表情に凄く緊張してしまう。
――まさか、「もう別れよう」とかのメッセージカードか何かが入ってるんじゃないだろうか? ……笑い草だ。散々、自分で「釣り合わない」って言っておいて、いざこうなると、手が、ひどく、震える。
恐る恐る、リボンを外し、中を覗き込むと、
「――ナニコレ?」
黒い何かがそこに在った。強いて何かに喩えると、外を包むイガイガがボロッボロになった栗、かな……?
「……チョ、チョコ?」
手を口元に添えて、そっぽを向きながら楓はそう言う。せめて、チョコと言いきって欲しかった。
一応、お別れカードとかが入ってないか探す。――ない、よかった。いや、このチョコの形がお別れの気持ちを表してるという線も、なくはないのか?
「あ、ありがと。……チョコ、なんだよな?」
「う、うん。ハート型の手作りチョコレート、のつもり?」
「ハート型っ!? ……あ、あれかな! 恋のキューピットの矢に射抜かれた――いや、穿たれたか?――ハートってこと、かな? こう、血飛沫をあげた!」
「え? そう見えるー? じゃあ、もしかしたらそうなのかも? オホホ」
未だかつて、楓がオホホと笑うことがあっただろうか? いや、ない。
だんだんと楓の笑い声が小さくなり……また、場が静まりかえってしまった。
「楓! 食べてもいいよな?」
空気を変えるにはこれしかなかった。
「う、うん。……でも」
ここでチョコを渡してから初めて俺の目を見た楓の目尻には、小さく雫が浮かんでいた。
――俺は馬鹿か、楓をこんな顔にして!
改めてチョコ(と主張されているもの)を見る。確かに見た目はアレだが、きっと見た目だけだろう。……きっと。
「なあ楓、当然、味見はしたよな?」
気持ち「当然」のところを強く言う。
「エへへへー」
――そこー! 目を背けるなー!!
う、いや、少なくともチョコを作ろうとしたのだから、形以外の失敗なんて、せいぜい砂糖を塩と間違えるぐらいだろう。……たぶん。
覚悟を決めて、チョコを、口に運んだ。
ボリボリボリボリ。
「ほ、本当に食べちゃった」
――結論から言うと、砂糖と塩を間違えたりはしていないようだった。
「ど、どう……?」
――だがしかし、全く逆方向の失敗を犯していた。
「ね、ねえ……?」
――甘っ!!!! すっっげえ甘い!! 甘すぎる!! 一体どれだけの砂糖を入れたんだ……!?
「大丈夫、おいしいよ」
やっとこさで、それだけ言った。
◆
楓を家まで送る道の上。先ほどまで長く長く延びていた俺たちの影は、夕闇の中で少しずつ溶けていった。
繋いだ手の影も、交わるように溶けていく。
――まあ、口に残った甘さは、薄れることなく舌に残っているけれど。
ところで、楓に聞きたいことが二つほどあった。
「なあ楓、なんで兄貴に呼ばれて出てきたら楓がいたの?」
「えっと、それは……この辺りをウロウロ――散歩してたら見つかっちゃって」
完全にウロウロって言った。少し意地悪をしたくなる。
「何でチョコを持って散歩してたの?」
「……本当はお昼頃、ヴァイオリンの稽古の前に、一度来たんだけど……」
あ、もしかして安藤さんが来てた時か。
「あれは安藤千佳子さんっていって、兄貴の彼女でさ」
昼の一部始終を説明する。
「……でも、その安藤さんと長いこと話してたよね?」
「いや、あれは――イテッ」
デコピンをされた。怒っているのか思い、あわてて顔を覗き見ると、意外とそうでもなかった。
「きっとさ、その安藤さんは、やっぱりお兄さんと話がしたくて、ギリギリまで粘ってたんじゃないかな?」
確かに、そうなのかもしれない。ならもしかして、兄貴は俺の話を聞いてそれに気がついて、安藤さんに会いに行ったのか?
「でも安藤さんは綺麗だったし、賢二君も顔がにやけてたし、妬いちゃうなー」
「いや、あの時は楓にチョコを貰えないんじゃないかって思ってたからさー」
あのチョコを思い出して恥ずかしいのか、楓の手を握る力が強くなったように感じる。ちょっとチクッとしたのは、昨日も気になった彼女の指の絆創膏。
「もしかして、自惚れかもしれないけど、その手の絆創膏って……」
彼女は恥ずかしげにチロリと笑う。
「うん。チョコを作ってたら、ちょっと火傷しちゃった。あ、でも痕も残らないくらいだし、大丈夫だから、心配しないで」
そっか。大丈夫ならよかった。
「俺のためだよね、ありがとう」
「ど、どーいたしまして! てっきり、また意味不明に謝るのかと思った。賢二君、すぐ謝るから」
「え、それは、ゴメ――」
さっきよりも強くデコピンされた。
「イタタ。ところでさ、チョコを開けるとき『伝えないといけないことがある』って言っていたよね? あれって何だったの?」
これがもう一つの聞きたいことで、きっと、聞かなければいけないこと。
「それは……。賢二君さ、少し私のことを過大評価するところがあるじゃない? ついでに、自分のことを過小評価しちゃってさ」
それこそ、楓自身に対する過小評価と、俺に対する過大評価だと思う。
「ねえ賢二君、『それこそ、私自身に対する過小評価と、賢二君に対する過大評価だと思う』なんて思ってたら怒るよ」
「アハハハハハー。否定はしない」
「この捻くれ者!」
イタッ! 脛を蹴られた! 向こう脛を! 弁慶の泣き所!
「あのチョコ見たらわかると思うけど、私だってなんでも出来る超人ってわけじゃないんだよ? 違うクラスだから知らないと思うけど、家庭科の成績なんて酷いんだから! ……私ね、時々、不安になるんだ。賢二君が好きなのは何でも完璧にこなす、賢二君の頭の中にいる『伊東楓』なんじゃないかって。だから、駄目なところがある私なんて嫌いに――」
「そんなわけあるか!! 俺は『お前』が好きなんだよ!! ありのままの『伊東楓』が好きなんだよ! それに、むしろ……ちょっと駄目なところがある方がほっとするよ。それにあんなの、そんなに大した欠点じゃないから気にするな。――チョコだっておいしかったよ」
「ありがとう……ありがとう。賢二君」
そんなに大したことは言ってないと思うのに、楓は俺の胸にしがみついて、しゃくり上げた。つまり、あんな言葉でこんな風になるくらい、俺は楓を追い詰めていたのか……。
――チクショウ。結局泣かせちまった。
せめて出来ることを、と思い。肩を抱いて、頭を撫でた。少しドギマギしてしまい、ぎこちなかったけど。
「――プッ。賢二君、ヘタクソ」
うるせえ、キスもまだな初心者カップルの片割れに何を求めてるんだよ。
「でも、ありがと」
ずるいなあ。こんなの、嫌いになんてなれるわけがないだろ。
泣きやんだ楓と再び歩き出す。
恥ずかしいのか、楓は俺より半歩前を歩いている。俺だって恥ずかしいよ。
「そういえばさっき、お兄さんにね、『自分は凡人だから、努力なんてものに縋りつかないとやっていけない弱い人間なんだよ』て言ってる人に、私はなんて言うか聞かれたんだー」
あの馬鹿兄貴――! 完全に俺のことじゃねーか!? こんな情けないことを楓に言うんじゃねえよ!
なんとか何かしらを言おうと口をパクパクさせてる俺に構わず、腕を後ろに組みながら、楓は石ころを蹴り転がし始めた。
――それはどこか、昨日の続きのような光景だった。
「きっとその人はね、凄く凄ーく努力していると思うんだ。努力なんてしなきゃいけない自分は弱い、って自分自身を嘲りながら、それでも、少しでも弱くない自分になろうと、懸命に努力してる。……私ね、そんな人を一人知ってるんだ。とっても不器用な男の子で、自分を過小評価する癖のある捻くれ者。けど、私はそんな彼のことが――」
彼女はここで言葉を区切り、振り返って、俺の顔を正面からジッと見つめた。
「――とっても、大好きなの」
楓は、この宵闇の中でも分かるほどまで顔を真っ赤に染めながら、けれど目を逸らすことなく、そんな言葉をくれた。
やべえ、俺まで泣きそうだ。それをなんとか、必死に耐える。
「今日さ、賢二君はたくさん好きだって伝えてくれたのに、私はまだ伝えてなかったなって」
「たくさん? 二回ぐらいじゃないか?」
それも一回は事故みたいなもんだったし。
「ハウメニー、じゃなくてハウマッチだよ。回数じゃなくて量なの。それに直接の言葉以外でも、いろいろ示してくれたし……」
「なんだそりゃ」
「そうだね、例えば……」
ゴショゴショと何か言うがよく聞こえない。よく聞こえないので、耳を楓の口元に近づける。すると、顎を両腕で掴まれ、無理やり顔の向きを変えられた。
眼前に広がる真っ赤な楓の顔。そのまま、唇を襲われた。
俺、ファーストキスって軽く触れたか触れないかのようなものを想像していたのに、楓は「口を開けろ」とばかりに舌で唇をノックしてくる。
おずおずと口を薄く開けると、楓の舌がピャッと入って来て、そして、ピャッと出て行った。
思わず閉じていた目を、ゆっくりと開けると、ジト目で睨む楓の姿。さっぱりわけがわからない。
「やっぱり……」
「な、なんだよ?」
「私のファーストキスは、馬っ鹿みたいに甘いチョコレートの味でした」
――あ、もしかして。
「やっぱりさ、チョコがおいしかったなんて嘘だったんでしょ?」
「あ……まあ、うん。でも嫌いじゃない味だったよ?」
一年ほど味わうのは遠慮したいけど。
楓は、一度ため息をつき「賢二君が私にラブラブな証拠は、例えばああやって嘘をついたところや、そういうところ」と言う。
好きという気持ちが伝わった具体例から、ラブラブな証拠にいつの間にか変わっている。まあ、間違っちゃあいないけど、さ。
「ら、来年は、もっとおいしく作るから……」
ラブラブな証拠となったとしても、チョコを上手く作れなかったのはやはりショックなのか、おずおずと話かけてくる楓。
「無理だな」
「え?」
何をショックを受けたような顔をしているんだか。
「あのチョコは、きっと一年くらいじゃよくならないよ」
「そ、そんなこと――」
さっき彼女がしたように、上唇を指で押さえてやる。まだ俺の言いたいことは残っている。
「だから、何年でも、待つから。何年後も一緒に居られるように、俺も頑張るから。絶対に同じ高校行く、って約束することは難しいけど、それでも、一緒に居られるように、頑張る」
楓が迷惑じゃなければ、だけど、さ。
「あ、当てにしたからね。責任とってよ? ……私も頑張るからさ。一緒に、頑張ろ、ね?」
そう言ってくれて、すごく嬉しい。きっと頬がかなり緩んでいると思う。
「ありがとう。頑張ろうな」
もう一度だけ、俺の方からキスをする。軽く触れるだけのキス。
数年に渡る、いや、もしかしたらもっと長い期間に及ぶ約束。その間も、俺はやっぱり情けないやつになってしまう時もあるかもしれない。でも、楓のためなら、楓と一緒なら、なんとかなるんじゃないかと思えた。
人は、一人きりではあのチョコレートのように歪な形なのかもしれない。けれど、誰かと一緒なら何とかなるんじゃないかと、そう思えた。