決着
独特の鉄の酸味が口内に広がる。口に溜まった異物を唾液と共に吐き出すと、それは紅く濁っており、自身に並々ならぬ負傷を受けた事をビネガーは悟った。太刀をもろに浴びるなど久方振りで、そのどうやっても慣れない苦痛は巨躯の男をも地に伏せさせた。傷口を抑えた手の指からは、温かい液体が止め処なく流れている。
観客の期待とは裏腹に、男は歯を食い縛らせて立ち上がった。周囲からは残念そうな嘆息が重なり、低い和音となって場内を廻る。今の一撃であの暴君を仕留められなかったのは、月ノ灯流にとって大きな痛手。『小よく大を制す』とはならずに、前評判通りの結果になってしまうのか。
観客のその予想は、すぐさま杞憂となって吹き飛んだ。月ノ灯流の剣士もまた、漆黒の髪と着物を汚しながらも、ふらふらと立ち上がったのである。その表情にいつもの余裕は見られなかったが、まだ勝負を諦めていないその姿勢に、客は声援を送って剣士を労った。
「いいぞ、月ノ灯流! あのデカブツを倒しちまえ!」
「ゲッカ様お願い、勝って~~! これからの私の人生、全部あなたに捧げるから~~!」
場内は確実に、月ノ灯流のホームへと変貌を遂げた。もはや観客とゲッカ全員で、悪役となったビネガーを倒さんという雰囲気が立ちこめる。実況を務める九海はそれを敏感に感じ取った。
『おぉっと!? ここにきてゲッカ選手へのエールがものすごい事になっています! 場内を駆け巡り響き渡るゲッカコールは、一体どの通りにまで聞こえる事となるのでしょうか!? 記録によりますと、今から五十七年前の三十一回目のトーナメントで、シオンストリートまで声援が届いたという記録が――ふにゃ!?』
『んな事ァどうでもいいんだよ。そんな昔の記録を伝えるより、今ここで誕生する歴史を見届けるんだ。それが実況の務めだろうが』
『うぅ~。ズィーノさんの仰る事はもっともなのですが、できれば私の事を痛めつけるのはやめていただきたく……。おでこにたんこぶができちゃいますよぅ』
間の抜けた実況とは対照的に、フィールドで相対する二人の戦士の間では、張りつめた緊張感が漂う。互いに息は荒く、それでも眼光を光らせて相手の姿を離さない。どちらが重傷を負っているのか、どちらが先に仕掛けるのか、どちらが最後に立っているのか。
そんな中、ビネガーの脳裏には別なものが過っていた。まだ自分が未熟だったころの、鍛錬の日々。体力不足で呼吸が追いつかず、格上の相手に見下された日のことを。感情を強く持つだけでは体を制御できない事も知らずに、悔しさと怒りで拳を震わせた辛い日々。
強敵と刃を交わす事だけでしか得られない、特別な体感。危機感と血の味が、唐突にそれを思い出させてくれた。昔と変わらないのは、どんなに不利な状況でも立ち向かう、闘いに真摯な姿勢のみ。
もはや敵に送られる声援すら、自分の耳に届かない。立ち塞がる敵、月ノ灯流を倒してこそ、えも言われぬ充足感、強さとは何かがわかるはず。修羅と化したビネガーの瞳に迷いはなかった。
この世に闘いの神がいるというのならば、それはこの時だけビネガーに手を寄せたに違いない。夕暮れに染まる視界が、突然輝きを失った。ビネガーにとって願ってもない勝ちへの道が示されたのだ。
『これは……。太陽が雲で覆われ、明るかった場内も一時的に暗くなっています』
『……ここしかねぇな。ねーちゃん、次が勝負所だぜ?』
『ふぇ? ……あ、そうか! 日が出ていなければ、ゲッカ選手の奥義「煌」が使えないという事ですね!?』
『おう、そういう事よ。わかってきたじゃねぇか、ねーちゃん』
実況者の言葉を聞くなり、観客は落胆の色を露にした。勝ってほしいゲッカにとって絶体絶命。しかし、敵のビネガーにとってはこれ以上ない絶好の機会。
肺の中にある空気を全て吐きだした後、ビネガーはゲッカに向かって猛進した。
右足親指の付け根、そして左わき腹と、ゲッカに効果的なダメージを与えられた今、ビネガーの打突は鈍り、薙刀の軌道は波打つまでになっていた。しかし、ゲッカもその甘い攻撃を咎められず、闘技場には刃が交じり合う金属の和音が響く。双方共に、己の持つ武器の重さに苦しめられるその姿は、それぞれの武器に操られる道化のように痛々しかった。
「ぬ゛うぅッ!」
「くッ……!」
気迫だけで薙刀を振るうビネガーと、それを何とか耐え忍ぶゲッカ。両者とも苦しそうな声を漏らして、それでも刃を交えさせる。不規則に奏でられる得物の衝突音は、彼らの悲鳴とも取れるようだ。
もはや達人同士の闘いとは程遠い、気持ちだけで持ち堪えている試合。傍から見ればみっともなくも見えただろう。ビネガーはそれを恥じた。武人たるもの、心技体を使いこなせて当たり前。『体』の輝きを失った今の自分では、相応の闘いを披露する事などできぬ。
しかし、観客の反応は思いも寄らないものだった。
「がんばれ~~! どっちも負けるな~~!」
「おう薙刀野郎! そこまでいったら死ぬまで闘い続けろや!」
『これは一体どういう事だ!? これまで打倒ビネガームードだった場内でしたが、ちらほらと彼を応援する声も聞こえています!』
ビネガーにはわからなかった。鋭さを失った今、図体だけでかいだけの戦士となった自分に、なぜ声援が送られるのか。みっともない姿を嘲笑う声などはなく、むしろそれを称賛するかのような温かい声援が、ビネガーの耳を通してひしひしと伝わってくる。
既に右足の感覚はなくなり、力は入らない。額には脂汗が浮き出て、薙刀を振るうと共に飛散する。得物が交錯するだけでも、手に伝わる痺れが関節を痛めつける。こんな哀れな自分のどこに魅力があるというのか。
薙刀を振るい続けながら、ビネガーは動揺を覚えていた。日は未だ現れない。それまでに決着をつけなければという焦り、そして月ノ灯流がその時を待っているという誤った予測が、ビネガーの冷静さを曇らせていた。
ビネガーが薙刀を振るう前に、ゲッカは膝を折って屈んでいた。負傷したビネガーは薙刀の軌道を変化させる事もできず、そのまま薙刀はゲッカの頭頂部を掠めていく。敵との距離はおよそ十五尺。ビネガーに大きな隙が生まれ、観客は一斉に息を呑んだ。
刹那、ビネガーに恐るべき殺気が襲いかかる。
ほんの一瞬の油断を悔いる時間もなく、敵の放つそれは徐々に迫ってくる。一度は耐えたが、二度目のカウンターを体一つで受けきる自信はない。
だが、漢に後退の二文字はもっとない!
月ノ灯流と共に朽ち果てる覚悟を以て、ビネガーは鋼の肉体を前面に突き出した。どんな苦痛も、どんな衝撃も、どんな罵倒もねじ伏せてみせる。武人の誇り高き尊厳を体現した、決死の体当たりだった。
ビネガーにとって、敵と衝突するまでの時間は永遠のように感じられた。
もしかしたら、自分は既に天国にいるのではないかと錯覚してしまうほどに。
構えども構えども、敵の殺気と衝突する時間はやって来ず、ついにその時が訪れる事はなかった。
それどころか、いつの間にか敵の殺気は雲散霧消していたのだ。
目を開けた先にあるものは、捉えられなかった月ノ灯流の姿。
零距離で放たれる後の先の一撃は、ついにビネガーの意識を途絶えさせたのだった。
「月ノ灯流奥義、朧――」




