月ノ灯流奥義、煌
『 “静かなる暴君 ”ビネガー選手の前に、月ノ灯流のゲッカ選手ダウン! はたして立つ事ができるのか!?』
片膝をつき、痛みで身を震わせる相手をビネガーは見下ろした。幾多の傷痕が残るその腕には、上書きされるように紅い血が滴っている。しかし、交錯した二人のダメージの差は誰が見ても明らかだった。
『ズィーノさん、今のプレーの解説を!』
『あの薙刀使い、やりやがった。わざと攻撃のスピードを遅くして、相手のカウンターを誘ったんだ』
『これがビネガー選手の対策、「月面歩き」返しということですか!?』
『そうさな。完全に俺様の言う通りというわけよ』
『え、ズィーノさん、そんな事仰いましたっけ?』
『かーッ! ねーちゃんそれはないぜ。ここにいる観客全員が証人さ。俺は確かに言ったぜ、ヒントは「煎餅と包丁」だ――てな』
『ええッ!? そのヒントのどこが言う通りなのですか!?』
『……口の聞き方に気をつけるんだな』
ズィーノは横目でじろりと九海を睨んだ。九海はペコペコと何度も頭を上げ下げする。
『すすす、すみません! それで、そのヒントの解説もしていただけると……』
『なに、簡単な事よ。振りかぶった包丁の斬れ味は煎餅にとって致命傷だが、振りかぶる直前ならそれほどの威力もないって意味だ。あのデカブツの武器は薙刀だけじゃなくて、あいつ自身が武器そのものだったわけだ。わざとてめえの攻撃に隙を作って、カウンター潰しの体当たりをぶちかましやがったのさ。その読みがピッタリはまって、この有様というわけよ』
『なるほど! それがビネガー選手の考えた「月面歩き」対策、というわけですね』
『対策っつーほど大それたものじゃねぇ。相手の攻撃に向かって体一つで迎え撃つなんざ、頭のイカれた野郎しかできねぇ行動だ。気に入ったぜ、あの薙刀使い。俺様の舎弟にしてやってもいいくらいだ』
『おおッ!? ズィーノさんのお墨付きをいただきました、ビネガー選手! これはとても珍しい事です!』
『……ただ、あいつもまだ所詮二流よ。俺様なら一撃で終わらせていた』
『え……?』
九海がフィールドに目を移すと、そこには着流しの男がかろうじて、己の足で立っている姿があった。肩で息をし、得物を構える事もままならないが、それでも場内の客の空気を変えるのには充分すぎるほどだった。
『ゲッカ選手立ち上がった~~! 地に膝をついてダウンこそ逃れられませんでしたが、その闘志は未だ熱く燃えているぅ~~!』
そう、その瞳には確かに闘志が宿っていた。劣勢の剣士の背中を支えるが如く、観客のほぼ全員がゲッカに声援を送る中、相対するビネガーだけがその違和感を覚えていた。
攻防の中でさえ殺気を抑え、ビネガーに不気味とさえ思わせたあの月ノ灯流の剣士が、今はその鋭い殺気を隠せられずにいる。ビネガーを捉えるその双眸に、確かな敵意がはっきりと見て取れる。それが意味するものは、窮地に追い詰められた獣の最後の抵抗か。それとも、辛い冬を越えた獣の目覚めの兆候か――。
いずれにせよ、手負いの獣を相手にする事に変わりはない。腕にできた切創の痛みは、脳内麻薬でとうの昔に過ぎ去った。ビネガーはここぞとばかりにゲッカに接近して、得物の薙刀を振るった。予想通り、薙刀から手、手から腕へと鈍い感触が伝わり、痺れを感じさせる。
『ゲッカ選手、ダウンの影響か、ビネガー選手の攻撃を躱すことができない!』
「えいやぁッ!」
ビネガーは続けざまに、相手の脛目掛けて攻撃を行う。先刻であれば空を切った剣戟は、今回は得物を激しくぶつかり合わせた。ゲッカは石板に日本刀を突き立て、凄まじい威力で迫るビネガーの薙刀を迎え撃った。力で全てを抑え込もうとするビネガーの一撃を、ゲッカは自らの太腿に日本刀の峰の部分を食いこませ、それでやっと防御している状態だ。
相手を釘付けの状態にした今こそ、勝負時。だがビネガーは冷静だった。踏み込むリスクを背負う必要は皆無。鐓打ちや体当たりなど、自ら相手の間合いに飛び込む危険性を把握して、鍔迫り合いを解いた。そして上段の構えから瞬時に、薙刀の射程を活かした渾身の振り降ろしを、ゲッカの脳天目掛けて放った。
「チェストオオオォッ!」
石板に亀裂が入り、風圧で粉塵が吹き飛ばされるほどの一撃。しかし最後の一振りは回避され、両者に一定の距離が与えられた。
『ゲッカ選手、ビネガー選手の猛攻を何とか耐え凌いだ! 決着はまだついていません!』
決着をつけられなかったのは手痛いが、それでも相手の躱し方は先程のようにきれいなものではなかった。余裕など一握もない、窮地からの脱出。
観客のざわめき具合が、ビネガーの圧倒的有利を物語っていた。ゲッカを応援する黄色い声も途絶え、口に手を当ててこれからの惨劇を見届けているようでもあった。月ノ灯流でも叶わないとわかった今、誰がこの暴君を止められるというのだろうか――。
夕日が照らす闘技場で、観客の誰もがそう思った時、信じられない光景が皆の前に飛び込んだ。時が止まったような錯覚さえも覚えた。
いついかなる時も脇構えを解かなかった、あの月ノ灯流の剣士が、構えを解いたのである。無防備、まるで日本刀さえ持っていないような自然な佇まい。
ビネガーはここで気づくべきだった。ゲッカが殺気を消している事、すなわち彼特有の戦闘態勢に入っている事に。しかし、想定外の行動を取る対戦相手を注視するのは、やむを得ない行動なのかもしれない。それが十七尺という、極めて安全だと思っていた距離で行われていたのだから、なおさらだ。
ゲッカは得物を持つ右手をゆっくりと、ゆっくりと天に掲げた。
その行動の意味するもの。考えるまでもなく脳裏を過る。
打倒予告――ッ!?
観客、実況者、そして相対するビネガーまでもが驚愕する、その時だった。
突如、ビネガーの視界が眩い光によって白く遮られた。太陽を直視したかのような眩い光。
何が起きているかわからない。ビネガーが咄嗟に顔を背けて、謎の光から逃れようとした時、初めてそれが敵の仕業だと悟った。その証拠に、おぞましい気配と共に自分に近づく恐怖を感じたからだ。
「月ノ灯流奥義、煌――」
ザシュッという肉を斬る音が場内に響く。その瞬間、呆気にとられていた観客が歓喜の雄叫びを上げていた。劣勢に立たされていたゲッカが、難攻不落の対戦相手に一太刀を浴びせている。それだけで観客は大いに盛り上がった。
『な、な、何とお!? ゲッカ選手、自らのプレースタイルを捨てて攻撃に転じたぁ~~ッ! しかも新たな奥義、「煌」も同時に繰り出すとは、何というエンターテイナー! シグナ国の戦士の鑑! それにしても見事な奇襲でした! 打倒予告をしたうえでの、素早い立ち回り! これにはビネガー選手も対応しきれなかったようです!』
『ねーちゃん、そいつはちと違うぜ?』
『へ? 何がですか、ズィーノさん?』
『月ノ灯流の輩は今のやりとりを以て、奴との間合いを完全に支配した』
『そ、それはどういう事ですか!? 支配というのは一体……!』
『まぁ焦るな、あと一回は確実に拝めるさ』
ビネガーは混乱していた。耳に入る実況解説は右から左へと通り過ぎ、何を話していたかわからなかったが、『間合いを完全に支配した』というフレーズだけは妙に頭に残った。
逆に言えば、自分にとっては間合いを完全に支配されたとも言える。馬鹿な。対戦相手の持つ日本刀に、そのようなからくりなどは仕込まれていないはず。それとも、十七尺という距離を埋める何かがあるというのか。
そして、ビネガーはあの瞬間に起きた出来事を思い出す。敵が動き出す瞬間のあの眩い光。偶然夕日が目に入ったとは思えない。だとすればあれは何なのか。「煌」という奥義の正体は一体――。
ビネガーの中で、一つの仮説が打ち建てられる。あまりにも単純で突飛、しかし今の状況下でしかなしえない敵の奥義の正体は、まさか――。
正面にいるゲッカは再び脇構えの体勢に戻っている。だが、今まで以上にビネガーの不安を掻き立てる事に間違いはなかった。得体の知れない奥義と再度相見えた時、自分は立っていられるのか。
観客を味方につけた月ノ灯流の剣士を、夕日が織りなす自然のスポットライトが照らしていた。その姿は、闇のようでもあり幻のようでもあり、ビネガーにはそれが覇気を纏った猛者に見えたと言う。
煌の正体がバレバレなのはご愛嬌ということで……。




