嵐の前の
その場所は、周りとの世界を遮断された空間。そびえ立つ巨大な砂色の壁が円形をなし、閉鎖された空間を造り上げている。その壁の向こうからは、歓声や溜息、鳴物が織りなす軽快な音楽、売子の小気味良い宣伝、そしてたまに金属が激しくぶつかり合う鈍い音が響く。建物の上底に蓋がされていないのだろうか、人の目線からではわからないが、天に轟くように響く内部の音が、界隈の通りにまで聞こえてくる。人々は惹かれるようにして、その円い建造物の中に入っていく。階段を上がって暗い通路を抜けた先に、彼らが求めるものがあるからだ。
段々になっている観客席が、円い建造物に沿って敷き詰められている。そこで立ち上がって声を上げる人々。彼らの視線の先には、中央の石板でできた舞台がある。舞台、というにはあまりにも粗雑で何もない。そこだけが少し隆起していて、観客席と舞台の間は窪んでいて溝になっている。
その溝の部分では、歓声に応えて雄叫びを上げる者。そしてその反対側には、肩を担がれて力なく暗い通路に消える者がいた。いつしか雄叫びを上げる者も退場し、舞台には人一人いない状況が続く。それでも観客の興奮は冷めず、次に起こる筋書きのないドラマを、今か今かと待ち望んでいる。
そう、その場所は闘技場――。
『最強の戦士を決める闘い、シングルトーナメント! 本日のザヴァン闘技場は、開場六十分で満員となってしまいました! 正午から四つの試合が行われ、今現在は緋色の西日が差そうという時間ですが、観客の皆様方の熱気は未だ我々の実況席にも届いております。実況は私、九海。解説は前回の本選出場者、パラエラル=ズィーノさんにお越しいただいています。ズィーノさん、よろしくお願いします』
『ふあぁ~あ……あ? おう、よろしくな』
『ズィーノさん、だいぶお疲れのようですが?』
『ったくよ、つまらん試合ばかりでよくもまぁ、こんなに盛り上がれるもんだな。地方巡業も楽じゃあねぇぜ』
『あ、あはは! ズィーノさんは生粋の中央地区出身ですから、あそこと比べると少しレベルは下がるかもしれませんね。でもズィーノさん、本日のトリとなる次の試合はいかがでしょうか?』
『何でも、スカした野郎がいるんだってな? 対戦相手を全てカウンターで仕留めてきた野郎がよ』
『はい! 月ノ灯流のテン=ゲッカ選手が、次の試合に控えております』
『一丁前に流派なんか名乗りやがって。これで腑抜けた闘いをしてみろ、俺がひとつ大暴れしてやるからな』
『お、おそらくその心配はないかと思われます。ここまでゲッカ選手の闘いの実況を務めた私が、それを保証致します!』
『えらく肩を持つじゃねぇか、ねーちゃん。ますます月ノ灯流とやらが気に入らなくなってきたぜ』
観客席の最前列、普通の席とで仕切りが設けられている場所で、実況者の女性とふてぶてしい言動が目立つ解説の男が座っている。男のほうはテーブルに足を乗せてつまらなそうにしている。
『さぁ、対するは“静かなる暴君”、薙刀使いのビネガー=マルティネス選手です』
『薙刀か。それだけで気に食わねぇ野郎だ。ずりぃんだよ、リーチが長い武器はよ』
『あはは……。元々ビネガー選手は剣使いだったようですが、今回の大会で初めて薙刀を携えての出場という事です。しかし、その闘いぶりはまさに鬼神と言っても過言ではございません!』
『どうだかな。そいつが鬼神なら、この俺にはどういう異名がつくんだい?』
『ズィーノさんは……鬼神の中の鬼神という事で』
『はっ、上手く躱したなぁ、ねーちゃん。気に入ったぜ、今晩俺の部屋に来いよ。夜のドッグファイトといこうや』
『わ、私なんかが恐れ多い! ズィーノさんにはもっと素敵な女性がお似合いでございます!』
あからさまに大きなリアクションを取り、実況者の九海は一呼吸置いて気を取り直す。
『さ、さぁ! 前評判でも話題になりましたが、両者の武器のリーチの差からして、薙刀を使うビネガー選手が有利なのでは、という情報なのですが、ズィーノさんはどう見ますか?』
『けっ、そのリーチの差を悉く覆してきたんだろ? 月ノ灯流だかケツの灯流だか知らねーがよ。だったらそんな一般論は当てにならん。馬鹿じゃねぇんだ、何か策は練ってきているだろうが』
『は、はい! ゲッカ選手は、相手の攻撃の隙を突く「月面歩き」という技を多用しています。攻撃の出かかりに合わせる技なので、防ぐのは容易ではないようです』
『おい、ねーちゃん。この俺を前にしてそれはねぇぜ? 俺だって仕事で来てんだ、その「月面歩き」をどう攻略するのかを考えてきたんだぜ?』
『おぉっと!? 本当ですか、ズィーノさん! 少し見直しました!』
『おいこら』
『す、すみません! うっかり口が滑って……。ゴホン。さてズィーノさん、改めてズィーノさんが考えた「月面歩き」返しとは、いったい――』
『対戦前に言う奴がいるかよ、アホ! 俺はそれを見に来たんだ、薙刀使いがどんな対策をしてきたかをな』
『な、なるほど……』
『だがまぁ、ヒントくらいはくれてやるか。おい、観客にいる素人共! てめぇらにこの俺様が教えてやる! ありがたく聞くんだな! ヒントは「煎餅と包丁」だ!』
男の声と共に、ざわついていた観客――いや、闘技場の中の全ての音が消えてしまった。唖然とする大衆の反応を見て、男は『ん?』と周囲を見回した。
『……はい?』
『都合上、わざとわかりにくいたとえを言ってやったんだ。後はてめぇらで考えるんだな』
『ムム……。知識の浅い私には何の事だかさっぱりわかりませんが、ズィーノさんの今のたとえがどういった形で闘いに現れるのか。これも一つの見所となるでしょう!』
解説の男とトークで場を繋げる九海のもとに、運営スタッフが小声で耳打ちをした。
『え、何ですか? ……はい! えぇ~、運営から観客の皆様にご報告です。時間が押しているという事なので、選手の入場は二人いっぺんに行うとの事です。ご了承ください』
いよいよ今日最後の試合が行われる。ざわめきはいつしか霧のように消え、観客は舞台の出入口から現れる者を静寂で迎えた。そしてその時は来た。
西日で眩く照らされた方の出入口から、一人の剣士が姿を現す。遠目からでは、影が蠢いているようにしか見えなかったが、確かにその男は存在した。漆黒の髪、深い闇色の着流し、墨色に輝く鞘を腰に携える一人の男。月ノ灯流のテン=ゲッカその人である。
反対の、建物の影で暗くなった出入口からは、巨躯の男が登場する。着古された道着、その間から見え隠れする鋼の肉体。背には男の背丈と匹敵する、長い長い薙刀が背負われている。“静かなる暴君”ビネガー=マルティネス。その眼光はすでに相手を見据えていた。
「きゃ~~~!! ゲッカ様~~~!!」
「どの面下げてここに来てんだ!? えぇ!? このイモ畜生がよぉ!」
相対する二人が登場した事で、闘技場は異様な雰囲気に包まれた。単に盛り上がるような声援もあれば、ゲッカの名を呼ぶ女性たちの奇声じみた黄色い歓声、ビネガーを罵倒する人々の低い怒声などが場内を反響する。熱気と歓喜と憤怒が入り混じる異様な雰囲気に、実況者の声にも戸惑いが見られた。
『こ、これは、闘技場内は今までに類を見ない盛り上がりを見せています! 女性に人気が高いゲッカ選手への声援は相変わらずですが、ここに来てビネガー選手への厳しい罵倒の言葉が場内を渦巻いているぅ~!』
『ねーちゃん、これは一体どういうこった?』
『町中で噂になっているのですが、先日ビネガー選手が複数の少女を路地裏に連れ込み、暴力をふるったとの情報が、実況者である私の耳にも届きました。その真実は定かではないのですが……』
『あ? その話は信憑性があるのか?』
『様々な情報が飛び交っているため、今のところ大会の運営側も詳細を調査中との事です。実況は公平さを保ってお送りしますが、この状態ではビネガー選手にとって、図らずもアウェイの状況になりましたね』
『ふ~ん。よそ者の俺は知ったこっちゃねぇが、しらけるような試合はごめんだぜ?』
俄に沸騰する場内のその中心、舞台となる石板上では対照的に、戦士二人が向かい合うさまは驚くほどに静かだ。しかし、その雰囲気は長閑という言葉とは程遠い。嵐の前の静けさ、これから起こる目まぐるしい斬撃の応酬を彷彿とさせる。
周囲の騒音に惑わされないくらいには集中しており、殺気をちらつかせるほど浮かれてはいない。そのレベルに到達したものだけが分かり合える、ならではの佇まい。解説を務めるズィーノは、隣にいる九海に悟られないように口元に笑みを浮かべた。こいつは面白いものが見れそうだ、と――。
『場内の人間を味方にしたゲッカ選手が、勝利の二文字をもぎ取るのか!? それとも、リーチの差を利用してビネガー選手が堅実な闘いを見せるのか!? いよいよ試合開始です!』




