第五話
「ねえねえ裕太……ゆうた……私、我慢できない」
沙織が台所に立とうとする俺の背中にくっついて魔性の囁きを投げかけてくる。
大人しく寝たと思ったのに。
「お、おい、沙織……まだだめだ、まだだ」
「なんで?裕太のお願い聞いてあげてるんだよ?やめちゃうよ?いいの?」
そうだった。当たり前って怖い。
こうなったらしかたない。洗い物はあとでいいや。
「散歩行こう。公園だ」
「こ、公園で?」
なにを?
「裕太ちょっと変わってるよね」
なにが?
沙織はとろけたまま、寝ぼけたことを言っている。
「行くよー」
沙織は俺をひっぱる。
しかし沙織の後ろ姿がラフすぎる。というか、布がない。
「とりあえず服を着てくれ」
外は少し涼しくなっていた。
今日は月が近い。
お煎餅が浮かんているように見える。
クレーターが焼きムラ。
手に取ろうにも届かない。
いくら近づこうと前に進んでも、いっこうに近づかない。
いつもの公園についた。
俺と沙織は、この公園で始まった。
だからここに来ると初心に返るというか、毎回改めて沙織のことが好きになる。
眠そうな沙織をベンチに座らせる。
「ねえ、沙織。今日は月が明るいよ。すごいきれい」
「月?わかんない。きれいかどうかなんて、わかんない」
「どうして?上を見てみなよ」
「やだよ。どうせ私には見えないもん」
「わかった。それなら無理は言わない」
「いじわるだね、裕太は。私の目をこんな風にしといて」
「ああ……」
「私の目は裕太なんだよ。急に目隠ししてさ」
「うん、でも……」
「まあ、私の目を裕太に預けるのも悪くないなって思っちゃったところもあるけど」
一昨日の夜に、俺は沙織の両目を眼帯で塞いだ。
沙織は自分で外さないし、俺も外さないし、沙織が外してくれないし、俺は外してくれと言わないし、沙織は外したいと言わなかった。
月に負けそうだ。
月を見たい。
月を見ている沙織を見たい。
月が映っている沙織の瞳が見たい。
「終わりにしよう」
「いいの?」
「うん」
いいもなにも、どうしてこんなことになったのか。
「うー、月が目に染みる」
俺はベンチに座っている沙織の後ろから、目を手で覆った。
「何?」
「俺だけに、その瞳を見せて欲しい」
俺は少しだけ指を開き、覆いかぶさるように沙織の目をのぞき込んだ。
沙織は俺の瞳を見つめる。
俺の目しか映らない。
「大丈夫だよ。大丈夫。って変か。関係ない。これも変か。あー!」
「わっ」
沙織は急に立ち上がりベンチに足をかけて反対側にジャンプした。
そしてその勢いで俺に抱きついてくる。
「おふっ」
俺の胸に顔を埋めて顔をぐりぐり押しつけ、月の刺激で流れた涙を拭いている。
「むーむー、ほうんほうん、むふっ」
胸の中でうなっている。
息が熱い。
沙織は服の上から息を吹き込んでくる癖がある。
冬はちょっと気持ちいいけれど、今は夏だ。
沙織の息が焼けるように熱い。
汗くさくないかな。
落ち着いた沙織は、抱きついたまま、空を見上げて月を見る。
沙織の瞳に映る月は、直接見る月よりも綺麗だった。
そして俺の方に瞳を移す。
瞳に映っている俺は不器用に笑っていた。
「あ、そうだ。見えない私にしたこと、全部教えてね?」
「やだ」
「見えないとね、すごく感覚が敏感になるの。
だから一日中裕太の視線にどきどきしてたし、ちょっと触れただけでぞくぞくしちゃって大変でさ。さっきみたいになっちゃったわけ。わかる?」
わからないけど、わかる気がする。
想像しちゃいけない気がするから、わからない気になっておく。
「そ、そうなんだ」
「ふう、もう」
沙織は外した眼帯を俺の目の前に差し出す。
ま、まさか今度は俺が?
「だからさ、またこれして帰るね」
「えっ?」




