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9話

 吉井直樹と元の妻、菅原百合が出会ったのは吉井が博士課程在籍中のことである。

所謂友達の紹介、というありがちな出会いから付き合いだした彼らは、激しさこそないものの、穏やかにその関係を親密なものへと移行させていった。まだ吉井自身が学生ではあったものの、お互い二十代後半に突入することから、漠然とではあるが二人とも結婚を意識する付き合いではあった。

それをはっきりと口に出してはいなかったけれど。

二人に転機が訪れたのは、吉井が現在いる土地から数百キロ離れた大学へ助教として赴任することが決定したときだった。師事していた教授の交友関係のおかげか、割合すんなりと就職が決まった吉井は、激務の中、それが当たり前だというように百合にプロポーズすることとなった。降ってわいたような結婚話に、それでも百合も百合の家族も大喜びで賛成してくれた。さすがに年頃の娘がいつまでたっても結婚を匂わせない相手と付き合っていたことに、やや不信感を抱いていたようだ。吉井の家族の方はどちらかというと世話を焼かせる妹の方にかかりきりで、放任しっぱなしの兄のことについては、それほど関心がないようであった。両家の温度差が若干あるものの、そこに障害があるわけでもなく、二人の関係は恋人同士から夫婦へと変化していった。


 最初は、確かに幸せだった。

今現在の吉井が思い返しても、最初の頃の生活には笑顔が溢れていた事をはっきりと覚えている。それがいつしか険しいものへと変わり、いつのまにか百合は笑わなくなっていった。

 きっかけは、吉井にとってはささいな、百合にとっては重大な、子どもができなかった、という事実だ。

当初から子どもを欲しがっていた百合は、まだ早いと渋る吉井を説得し、体にいいと言われる食事やら最後には風水までもちだしては、妊娠することを待ち望んでいた。そんなに焦る事はない、という吉井の言葉も、百合の耳には届かず、ペースの異なる二人の間には、ギクシャクとした空気が流れていた。意を決して専門医の門を叩いた百合に、やがて、どうにもならない事実が突きつけられた。

どうあがいても自然に妊娠することは出来ない体であるという現実。

そのことを受け入れられない百合は、不妊治療をしようという吉井の言葉に耳も貸さず、ただひたすら自己嫌悪に陥っていった。テレビコマーシャルで乳児の姿が映し出されるだけで泣き叫び、下手をすると食事すら満足に取ろうとはしない彼女の世話を、吉井は必死になって見ていた。ともすると、治療をすればいいのに、という合理的で現実的な事実を突きつけそうになるのを堪えながら、それでも甲斐甲斐しく百合の面倒をみていた。間の悪いことに、百合の出身地から遠く離れたこの土地には、お互いが頼りとするべき親類も知人もおらず、働きにもでずどちらかというと社交的ではない百合は、常日頃から孤立していた。それでも、子どもさえできれば、というたっての希望が根底から覆されてしまったのだ、百合の精神バランスが揺らいだとしてもおかしなことではない。

 さらには、吉井自身、大学での生活は多忙を極めていた。就任一年目であり、卒業した大学からやや別方面の研究室へと就職した彼は、今までの経歴を一旦リセットせざるを得ず、なおかつ慣れない事務仕事で余裕のない生活を送っていた。それに加えて、私的な生活では一向に立ち直る気配の見せない妻の世話もしなくてはいけなかったのだ、多少彼の物言いに棘があったとしても、平常時ならば致し方がなかったともいえる。

だが、百合にしてみれば、そんなものは自分には関係のない出来事で、上からの視線でただひたすら接してくる夫に嫌気がさしていったのも事実である。その頃の百合にとってみれば、ただ共感して抱きしめてくれればいいのに、いつまでたっても同じポジションに立ってくれない吉井にイラついていたのだから。

すっかり凍りついた二人の関係も、それでも百合が趣味を持つ事で回復の兆しをみることができた。日中だけでは飽き足らず、夜遅くまでそれに没頭する彼女の姿に、やや不満を覚えるものの、元の状態に戻る事に比べればと、吉井は全ての不満を内へと溜め込んでいった。

 そんな薄氷の上を歩いているような二人の関係に、決定的に溝ができたのは、吉井が一人で勝手に留学する、ということを決めてしまったことに起因する。しかも、百合を日本においたまま。

吉井にすれば、せっかく趣味を持って前向きになり始めた百合の精神状態が、言葉の通じない外国へ行って悪化することを恐れたせいであり、たかだか一年にも満たない留学に趣味を中断してついて来いとも言えなかったせいでもある。あくまでも百合の状態を慮った吉井の行動は、結局裏目裏目と出ることとなる。

二人の間に、決定的に言葉が足りなかったのだ。

たった一言も相談せずに決めてしまったという事実に、百合は落胆し、あっという間に精神状態が悪化していった。ヒステリーをおこしながら、部屋中のものを投げつけることは日常茶飯事で、時として両家の親を巻き込んで、自殺騒ぎを起こしたりもした。そのたびに、吉井は百合の両親に頭を下げ、離婚を仄めかす自分の両親を諌めることに必死だった。結局のところ、いつまでたっても頭で理解しようとはしない娘の態度に疲弊した両親と、どこまでも自分を責めつづけるだけの百合と、第三者が心配するほどやつれてしまった吉井は、三者三様で疲れきった状態で離婚届にサインすることになった。

あっけなく、終わってしまった夫婦と言う関係。

文字通り紙切れ一枚で他人同士になってしまったことを実感しながら、吉井は逃げるようにして外国の空へと旅立っていった。

吉井は、まだそれほど思い出にはならない生々しい記憶を、菅原桐の登場でまざまざと思い出してしまった。もう三年も経つのに、結局自分はあれからちっとも成長していないことに苦笑する。

この思いを、由香子に聞いてもらいたいと思う一方で、自分勝手だった自分を知られたくないとも思う。

矛盾した気持ちが、これからどこへいくのかわからないまま。

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