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8話

「に……、吉井さん」

「桐さん」


吉井の居室の前に突然現れた場違いな女性に、二人の動きが止まった。吉井は、その女性が何者であるのか知っている上で驚きを隠せないでいる。そして、そんな状態の彼を見て、隣を歩いていた由香子もかすかに動揺していた。


「誰?それ」


それ呼ばわりをされたと言うのに、由香子は目の前の女性の、どこか思いつめた様子に抗議の声一つあげられないでいる。うろたえたままの吉井が話せないでいるため、仕方なく由香子が代わって二人の関係を端的に説明する。


「こんにちは、私はアルバイトの澤田で、一週間に一度の約束で先生の居室の掃除を任されているものです。偶然エレベーターの中で先生にお会いしたものですから、指示を仰いでいたのですが」


由香子がチラリと吉井の方を窺うと、彼女の方を見ながら何かを言いたそうな顔をした。

確かに、客観的にみて由香子の言っていることには一つの間違いもない。

彼女は頼まれてここの掃除を引き受けているし、金銭の授受ではなくて食事というものに替えて彼女に対して利益を提供もしている。だが、吉井にとって、彼女はただ契約をして雇っているアルバイトだと、切って捨てるような言い方はしたくない相手だ。

だからといって、何かと問われればはっきりと答えうるだけのものを持ちえてはいないのだけれど。

それにもまして、今までに一度も呼ばれた事のない呼称で数度呼ばれ、吉井ははっきりと面食らっているのだ。

そう、先生と、彼女は確かに吉井の事を指してそう呼んだ。

彼女は同じ大学の学生で、自分はそこの教員である。その事実は事実としてわかっていたものの、彼女の口からその呼ばれ方をしてみて改めて認識してしまったのだ。

彼女は学生であり、自分は職員であるということに。

急激に彼女の方から距離を開けられてしまったようで、余計に狼狽する。


「そう……。学生さん」


そんな葛藤など知らない上に、どこか余裕のない来訪者は、とりあえず由香子の説明に納得したようだ。由香子の存在は取るに足らないものと判断して、再び吉井の方へと視線を合わせる。


「お客様みたいですし、失礼しますね。先生」


再び「先生」と念を押され、心の中の複雑な気持ちががどんどん膨れ上がっていく。

姿を目で追うことすらできずに、まったくそちらの方へと意識がいってもいないのに、来訪者と向き合う形となってしまう。


「吉井さん?」

「え?ええ、はい。ここではなんですのでこちらへ」


個人に与えられた居室へと彼女を案内する。

そうして平常時は締められる事のない扉が閉められた。

それはまるで、由香子との距離はそんな簡単なことで、あっけなく断ち切られてしまうほど、脆く危ういものであるという思いを吉井に感じさせた。




「お久しぶり、です」

「お久しぶりです」


ぎこちない挨拶を交わし、来訪者へと椅子を勧める。インスタントですが、と断りを入れコーヒーを差し出す。


「お話は?」

「随分出世したんだね、一人部屋とかもらったりして」

「年も年ですから」

「そうなの?その年で准教授だなんて、すごいってお姉ちゃん褒めてたけど?」

「そう、ですか」

「一人?」

「現在独身でいるか、ということならば、一人ですが」


あくまでも他人行儀を貫くように礼儀正しい言葉遣いを崩そうとはしない吉井に、訪問者は怒りと諦めを同時に顔に表す。その表情は吉井にも見覚えのあるもので、吉井が覚えている彼女の最後の表情も、今日のそれであることを思い出した。

訪問者は取り出したハンカチを力いっぱい握り締め、吉井を睨みつける。


「泣いてる、お姉ちゃん」

「……」


言うべき言葉も思い浮かばずに、二人の間に沈黙が訪れる。うっすらと涙ぐんでいる彼女は、憎しみとも怒りとも取れる感情を吉井に対して滲ませる。


「どうして別れたの!」


そういえばさんざんそんなことを電話口でも聞かれた覚えがあったと、三年も前自分に起こった出来事を思い出す。あの時、一番感情を露に吉井に対して向けてきたのは、当事者ではなく、彼女であった。吉井にしても、相手にしてもさんざん悩んだ末の結論であり、疲弊しきった二人は、お互いに感情をぶつけ合うほどの余裕はなかった。お互いの両親、特に桐と元妻の両親は、元妻の精神状態に散々巻き込まれ、最後には離縁することにどこか希望すら見出していた。仲間はずれにされたという思いもあるせいか、吉井夫妻の離婚に関しては、この桐が一番感情的に反応し、それは今でも変わっていない様子だ。


「お姉ちゃんに子どもが出来ないから?」

「それは、関係ありません」

「じゃあ何?ノイローゼだから?家事もしないで趣味ばっかりしていたから?」

「それも、瑣末な事で直接的には何の関係もありません」

「だったら何?さっさと自分だけ留学しちゃったり、こうやってちゃっかり昇進したりして。その間お姉ちゃんがどれだけ辛かったかわかっているの?」

「わかる、とは言いませんが」

「どうして別れたの!あんなに幸せそうだったじゃない!!!」


最後の言葉は迸るような激情で、吉井に鋭く突き刺さる。だが、相反する心で、当事者でもない桐に何がわかる、と思う心も事実だ。


――幸せ、だったのだと。


「彼女が悪いとは言わない」

「だったら!」

「だけど、自分が全て悪かったとも思わない。強いて言えばボタンの掛け違いとも言えるけれども」

「そんな些細なこと」

「些細な事でも気が付いてみれば取り返しがつかないことだってあるんですよ、世の中」


あの時、さんざん悩んだ思いがフラッシュバックする。妻の気持ちの変化に気がつかなかった鈍感な自分にも、ずっとお互いの何かを言い出せなかった関係も。

思い返せば返すほどやり直したくて、だけど、時間はすでに取り返しの出来ないところまで過ぎ去っていったあの時。吉井は、ようやく最近思い出すことがなくなった、あの当時の元妻とのやりとりがよぎり、同時に精神状態まで当時のものへと一瞬にして追い詰められた。


「でも!」

「余計な首をつっこむな」

「だって」

「あなたは、赤の他人なのだから」


普段の吉井を知るものならば、信じられないほど冷たい態度をとり、扉を開ける。目を赤く晴らし、明らかに泣いていたであろう妙齢の女性が飛び出していく。おまけに、大声で詰られた内容は、狭い廊下を隔てて学生がたむろしている教室まで筒抜けだろう。当分の間、桐との関係をかまびすしく噂されるかもしれない。うんざりはするが、それも致し方がないことだと割切る事ができる。

だが、たった一人だけそのあやふやな噂を信じて欲しくない人間がいる。

吉井にとって、どういう位置付けにいるのかすらはっきりと定義できないでいるその人間が、ひょっこりと何事もなかったかのような顔をしてこちらを窺っていた。

ひどく荒立った精神状態を立て直すべく、深呼吸をする。






「澤田」

「もう掃除していい?」

「え?ああ、もういい」

「はいはーい、今から由香子ちゃんが掃除するから、ちょっとどいてね」


わざとおどけたような口調に、イライラが募る。


「まったく、どうしてたった一週間でこれだけ汚せるかね、この人は」


再び、彼女の口から「先生」と呼ばれることなく、妙に口数が多いまま作業が続けられる。

一人黙ったまま机の前へと座り、それでも仕事など手につかないままじっと彼女の背中ばかりを見つめつづける。


「聞かないのか?」

「聞いて欲しいわけ?」


黙々と雑誌の束をまとめ、縛っている彼女の背中に問い掛ける。あっさりと質問に質問を返した形の由香子は、手を休めないで作業を続けている。


「あれは、俺の元妻の妹だ」

「元、妻?」


パサリと落ちた雑誌を拾うこともせずに彼女が振り返る。その目には唐突に告げられた吉井の過去に対して、はっきりとした困惑の色がが浮かんでいる。


「そうだ、所謂バツイチというやつだ、俺は」

「そっか。バツイチ、ね」

「三年も前の話だけどな」


戸惑いながらも作業に戻った彼女は、それ以上の詮索をすることはなかった。プライベートな事に深入りしないことが由香子の良いところだと思ってはいたけれど、今の吉井にとっては自分の事など興味がないといった彼女に対して、僅かに落胆を覚えている。

本当は、全てをぶちまけて由香子に聞いて欲しいのだと、そんな思いがよぎる。

一週間に一度会うだけのただの学生に対して、そんな思いを抱くことに更なる戸惑いを覚え、混乱していく。


「終了、っと」


日が落ちるのが早くなったせいか、いつもの時間に終了したというのに、すっかりあたりは暗くなっている。あれだけ暑かった日々が嘘のように、今では僅かに開けた窓の隙間から涼しい風が入り込んでいる。

季節は確実にうつろっているのだと、吉井はそんな当たり前の事に気がつかされた。


「メシ、行くか?」

「もちろん」


どこか作り物めいた笑顔を浮かべ、彼女はこの場に闖入者が来た事などなかったかのように振舞っている。

どこか寂しさを覚え、どこか安堵した気分で、吉井はもうその話題を口にすることはしなかった。

お互いの間に、確実に小さな歪ができていることに気がついていたにも関わらず。

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