表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/20

5話

 由香子が掃除のバイトをはじめたからといって、吉井准教授の生活にさしたる変化が現れるはずもない。

わずかな感情の揺れがもたらす何がしかの心の変遷、というものにも目もくれず、相変わらず退屈なルーチンワークを淡々とこなす日々が続いている。ようやく助教の採用も教授会議を経て、さらに上のレベルの会議へと上げられる予定である。その人物が赴任するころには、恐らく由香子のバイトも終了しているのだろうと、吉井は漠然と考えていた。

そこまで考えて、現在興味がないとはいえ、会議の真っ最中であり、進行下手な議長があちこちへと迷子になりながらも進行を続けているところだ、ということに気がつく。もともとやる気がなかった吉井は、審査をまかされた論文を手にしており、学生の内職宜しくそれをこなそうと考えていた。にもかかわらず、最初の数行を読んだまま思考がほかのもの、由香子のことへと振り分けられていた事実にさらに驚く。

当然、会議など現在どの議題について議論されているかなど皆目検討もつかない状態だ。気がつかれないようにためいきをつき、仕方がなく残りの時間はただひたすら論文を読むことにかかりきりになろうと必死になることにした。

定例の会議から帰ってきた吉井は、拘束時間が長い割にはなんら有効な議論が交わされなかったらしい先ほどの時間を思い出し、いつもよりさらに神経を尖らせながら自らの居室の前へ立つ。在室中とは異なり、一応きちんと締められた扉を開けると、中には、会議中吉井の頭の中の幾ばくかを占拠していた人間がちゃっかりと存在していた。


「何やってやがる?お前」

「お前じゃありません、由香子ちゃんです」


来客用の椅子に座りこみ、あまつさえノートと本を開きながら澤田由香子が返答をする。その姿はもはやこの居室にしっくりと馴染み、彼女が来るたびにざわついていた学生たちも、すでに日常の出来事として処理するようになっていた。それは吉井にとっても同じ事で、彼女がくる金曜日を待ち遠しく思う事はないけれど、と、前置きをしながらも、彼女が好きそうな菓子類を用意したりして、平常時とは違う心持ちであることを認めないほど頑なではなかった。だがしかし、これほどまでに図々しく自分のペースで時間を過ごしている由香子をみたのは初めてで、何をやっているのかは視覚により明らかなものの、どうしても聞いてみたくなったのだ。


「いつも寝ているのもあれだし」

「だから終わったなら終わったと途中で言えばいいだろう」

「自分が言えないような雰囲気をぷんぷんさせておいて良くいうわ」

「俺のせいか?」

「そう、そっちのせい」

「だからってお前」

「由香子ちゃん!だって一応学生だし、ここで勉強したって悪い事なんて何もないじゃん」

「いや、そりゃあ学生の本分は勉強だけどもさ」

「だったらいいっしょ?別に邪魔になっているわけじゃなし」

「あのな」

「そういえばもう会議は終わったわけ?」

「ああ、あんなくだらんもの、とっとと終わればいいものを」

「まあまあ、そういうのがお役所仕事ってやつやし」

「……否定できんところが悲しいが。ってお前話を摩り替えるな」

「だーかーらー、由香子ちゃんだってば。って、話って?」

「おま……、そっちが掃除の後にこうやって堂々と自主学習をここで続けている理由について、だ!」

「ええ?だって移動するの面倒」

「だからって」

「じゃあ、あっちの教室入っていい?」

「あっち?」

「そう、あっち」


由香子が示す方向には研究室の学生がたむろしている部屋が存在し、確かに彼女はそこをはっきりと指している。だが、吉井と由香子の関係がバイトとその雇い主以上の関係ではなく、なおかつ由香子自身が彼らと積極的にコミュニケーションを取ろうとしない、ということがわかり、ようやくざわついていた連中が落ち着き始めたところに、彼女のようなはっきりとした異分子をあの場へと注入するわけにはいかない。その気持ちの中に、幾分それ以外の気持ちが混ざっていたような気もするものの、吉井は諦めて首を横に振る。


「だったらここでいい?」

「……おとなしくしてろよ」

「騒いだ事あったっけ?」

「相変わらず減らず口だな」

「黙ったら死んじゃうし」

「まあいい、で?今日は何が食べたいんだ?とんかつはやめてくれよ」

「ちっ、先手を打たれたか。しょうがないなーー、今日はお好み焼きで勘弁してやる」

「まだそっちの方がいい」

「あ、言っておくけど一枚じゃ足りないからね」

「安心しろ、言ってもお好み焼きだろうが。まさか松坂牛入りとかイセエビ入りのお好みを食べたいわけじゃないだろ」

「あたりまえやん。お好みは豚玉に限るし」

「わかったから、準備しろ」

「へいへーい、ちょうど宿題も終わったところだし」


てきぱきと自分の道具を片付け始めた彼女を尻目に、いつのまにかすっかり由香子のペースに乗せられている自分に気がつく。おまけに、それが嫌ではない自分の不思議な心の揺れ方に戸惑いを覚えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ