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15話

「考え事?」

「偶発的事故における、男女の可能性と未来について」

「なにそれ?」

「なんでもない」


吉井のところでのバイトを復活させた事を、由香子は佐緒里には秘密にしている。中年男への労働力の提供を快く思っていなかった彼女は、腑に落ちないまでも前回の一時停止を喜んでいた。それなのに、ある程度の思惑をもって再開された、由香子のバイトを手放しで歓迎するはずはないと思っているからだ。あまつさえ、彼女の前では由香子は吉井の名前をできるだけ出さないように努めてさえいる。

自分がやっていることが社会通念上間違っているとは思ってはいない。

それでもやはり、外聞がいいとはいえないことはわかってもいる。

一食を提供されることによるささやかな労働力の提供。

ただ、それだけ、とはいえない由香子の気持ち。

それを吐露すれば、陳腐な言葉に変わり果てるであろう吉井への思いは、わざと会わないでいたころも、そのまま変わらずにいた。

どうこうしようと、思ったことはない。

だが、気がついて欲しいと思わないといえば嘘になる。

自分でもよくわからない持て余したような気持ちの上に、昨夜のちょっとした事故は、由香子を混乱させるには充分であった。

どうして、あんなことをしたのか、と、吉井へ聞けばシニカルな笑顔で「いやがらせだ」と、答えてくれたのかもしれない。

皮肉めいた答さえもらえば、由香子は堂々と吉井の元へと通いつづけることができるだろう。

実際には、そんなことすらできるはずはなく、ただ何事もなかったかのように過ごしただけだ。

あのときの自分にそれ以上何が出来たのかと問う。

――軽い、気持ちなのかな。

皮肉以上の気持ちが欲しくて、無意識に自分の唇に触れる。

ただ同じ体温があるだけのその動作は、それでも昨日の事を思い出させてくれた。

どんな顔をして吉井に会いに行けばいいというのか、変わらない表情とは異なり、さざなみのように揺れる気持ちを抑えられないでいた。




「よう」

「よう」


ぶっきらぼうに挨拶を交わした由香子と吉井は、表面上は変わらないまでもお互い内面にはそれぞれの思惑を抱えていた。

あんなことをした自分を何事もないかのように扱う由香子に対して、再びどうしていいのかわからなくなってしまった吉井。

あれは偶発的な事故に過ぎないと己に言い聞かせながらも、それでも何か思わずにはいられない由香子。

それぞれの気持ちは、口に出されずに各々の内面へと蓄積されていく。


「元気、か?」


たった一週間しかたっていないにもかかわらず、どうやって声をかけていいのかわからない吉井の無意味な問いかけが由香子へと投げかけられる。訝しく思いながらも「それなりに」という当り障りのない答えを返していく。


「この間は……」


掃除が終わりごろになるのを待っていたかのように吉井が切り出す。

一瞬ギクリとした由香子は、それでも持ち前の精神力で笑顔を作り出す。


「おまえにとって、俺はどういう存在だ?」


学食での由香子の問いかけを、反対に吉井が由香子に対して投げ返す。


「どういうって」

「雇い主か?」


由香子が次々と吉井へと投げかけた言葉が、今、自分の方を向いて返ってくる。これほど答えにくい質問を自分は吉井に対して発していたのかと、後悔するほどに。

二人の間には何もない。

言葉も、それに伴う行動も。

唯一曖昧な思いをお互い抱きながら、なんとか表面上はうまくやってきていた。危ういバランスを保ちながら、どうやって名づけていいのかわからない思いと関係を続けてきたのだ。だからこそ、こうやって一歩を踏み出す行為は躊躇われるものでもあるし、下手をすればこれからの関係性を壊してしまう可能性すらある。

だが、吉井はここにきて、こんな曖昧で何もできないでいる立場というものを変えてみたくなったのだ。

彼女は「友達」だと二人の関係を評して言い切った。

その言葉に一時は吉井も満足はした。

ただの知り合いでもなく、それよりも深い関係を表す友達という言葉は、二人の年齢差や立場を差っぴいてもあの時点では相応しいものだと思われたからだ。

だが、今は違う。

吉井は改めて由香子の顔を直視する。

何を考えているのかはわからないその瞳も、気の強そう引き結ばれた唇も、全体的にぼんやりとしたイメージを与えるパーツを引き締める眉も、全て目を瞑っても鮮明に思い出せるほど、由香子の顔は吉井の意識の中に刷り込まれている。

この思いを、曖昧な言葉の定義のままにおいておきたくはない。

桐の存在や、自分の過去を知られたときから強く思っていた欲求。

全てを知りたくて、全てを知ってもらいたい。

もう、吉井はそれが何からもたらされるものなのかを自覚していた。


「俺はおまえといると楽しいし、できればこれからも一緒に過ごす時間がとれると嬉しいと思っている。おまえがどう考えているのかはわからんが」


一瞬視線を床へと落とし、躊躇いの色をみせたものの、由香子はきっちりと吉井の目を見据えなおす。


「私も、あなたといるのは緊張するけど楽しいし、できればもっと一緒にいたいと思ってもいる。あなたがそんなことを考えていたなんてわかんなかったけど」


二人の間に張り巡らされていた緊張の糸が切れる。

由香子は、へたり込みながらいつも座っているソファーへと沈み込む。

吉井も、ゆっくりと椅子へと座りなおし、お互いがお互いの表情を窺う。

何時もよりは明るい時間で、こんな風にお互いを見詰め合ったことはこれまでなかったかもしれない、と、吉井は今までの由香子との付き合いを思い出す。例外を言えば、食堂での出会いがそれにあたるのかもしれないが、無意識の一度目と意識しすぎていた二度目の邂逅では、今このときに味わっている気持ちとはかけ離れすぎていて、比較にはならない。


「つーことで、これからもよろしく」

「おまえも就職がんばれよ」

「……そういうところがなければちょっとはいいやつって見直してやってもいいのに」

「悪いが俺はこういうやつだ、こういうやつが嫌いなら他をあたれ」

「由香子ちゃんが他に当てがないと思って、そういう自信過剰なこというと痛い目みるよ?」

「ほほう、あそこのセミナーにまともな男がいるとは初耳だな」

「調べたわけ?」

「あたりまえだ」

「意外とむっつりなんだ」


由香子の言い草があまりにもひどかったせいか、吉井が口を噤む。

由香子は勝ち誇ったかのように、以前に聞いたとんかつの歌を口ずさみはじめる。


「それ以外の選択肢はないのか?」

「んーーー、やっぱレディーファースト?」

「そういうのは、そうは言わんと思うが」

「まあまあ、たまには私の言う事も聞いて頂戴」

「たまには?」

「ちょくちょく」

「……まあいい、今日は言う事をきいてやる」


満面の笑みを浮かべながら由香子が立ち上がる。短いスカートの裾を直しながら、吉井のほうへと一歩近づいていく。

その予測できなかった行動をはじめた由香子に驚きながらも、吉井は彼女から目を離せない。

すっと、平均よりはやはり小さい手を差し出しながら、由香子がにやっと笑う。


「これからよろしく」


由香子の意図を察した吉井は、その小さな手を握りながら大袈裟に上下に振ってみせる。


「こちらこそ」


やや肩に負担がかかったのか、ぷっくりと頬をふくらませ抗議の意を表す。

その頬を人差し指でつつきながら帰り支度をはじめる。

今日はもう、デスクワークの続きをするような気分ではない、と、珍しく仕事を放棄するつもりなのだ。吉井が満足そうな笑みを浮かべ、その隣には小さな由香子が早足でくっついていく。

見慣れた風景に、すでにこの棟の学生は何も言わないし、二人の関係が微妙に変化したことを知らない。

二人の影は、長い廊下を横切ってゆき、やがては、夕日が入り込むだけの誰もいない廊下へと戻っていく。


曖昧な関係は終わりを告げ、新たな関係へと歩み始める。

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