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14話

由香子の突拍子もない、とも言える言動に驚き、吉井は呆気にとられた。

すでに三十を過ぎ、様々な理由をつくっては言い訳にするような大人になりきった吉井には、由香子はただそれだけでまぶしい存在だ。

そして、それをまざまざと見せ付けられたとあっては、立場や年齢の差、という後付けの保身で同じ場所に立ち尽くしていた自分自身の矮小さを思い知らされる。

自分に呆れ、それでも喜ぶ気持ちを隠せない。

そんな浮ついた状態にある吉井准教授の日常は、それでも淡々と過ぎていく。

金曜日がくることを待ち遠しく、でもどこかで恐れながら、気がつくとカレンダーを眺めていた。

 吉井の水面下の状態などお構いなしに、あたりまえのように、けれども吉井にとっては唐突に由香子は再び現れた。

何の躊躇いも見せずに、由香子はずかずかと居室へと踏み込み掃除をこなしていく。

気の利いた言葉一つ言えずに、由香子の動作に邪魔にならないように動きながら、それでも視線は由香子をひそかに追いつづける。

そんな視線に気がついていたのか、由香子がゆっくりと顔を上げる。


「とんかつ」

「却下」


どう考えてもにやっと、としか言い様のない笑顔を浮かべ、由香子はあの量だけは多いとんかつ屋を指定する。条件反射的に拒否の意を示した吉井は、それを皮切りにようやく由香子へと通常の憎まれ口をきけるようになっていった。


「太るぞ」

「そうみえる?」

「今はいいかもしれないが、25過ぎた辺りからどかんとくるぞ、おまえみたいなタイプは」

「いやー、うちって細身の家系なんですよね、どっちかっていうと」

「ああ、じゃあ、そのチビも親譲りか」


ぷっくりと頬を膨らませ、由香子が感情を露にする。一年の付き合いで気がついてはいたが、由香子は身長を話題にされることを嫌う。あえてその話題をサラリと提供するのが、吉井の吉井たる所以ではあるが。


「思春期に充分背が伸びた人には、私の気持ちなんてわからないんだ」


確かに、吉井は平均身長よりは高くはあるが、それでも由香子に指摘されるほど高身長ではない。あくまで平均より低い彼女から見れば高く感じるだけである。


「おまえからみれば大抵は高いだろ、普通」

「悪かったわねーーー、ガリガリのチビでサルで」

「いや、俺もそこまでは言っていない」


高校生の頃のあだ名がリスザルだったと白状した由香子に、笑いを噛み殺しながら仕事へと戻る。相変わらずデスクワークは減る様子みせず、実験という体を動かす仕事に集中できない身分を嘆く。

あっという間に綺麗になった居室を、満足そうに眺めながら、由香子はソファーの上へと勢いよく座り込む。持ち込んだトートバッグの中から、レポート用紙大の紙切れを取り出し、かわいらしいマスコットのような人形がついた筆記具を手にとる。近くにいる吉井の存在を忘れたかのように、自らの専門分野へと集中していった由香子を視界からはずし、ようやく吉井准教授も自分の仕事へと取り掛かり始めた。


「……結局この時間なわけ」

「悪いといっているだろうが」

「その不遜な態度ってどこからわいてくるの?それとも地?」

「そういうお前こそ、えらく真剣になにかやっていたのはいっしょだろうが」

「私は8時ぐらいからお腹がすいたってへばっていました。ついでに早く終われ光線を送りつづけてました」

「そんなもの、第六感どころか普通に鈍い俺がわかるわけがないだろうが」

「あれ?自覚あったんだ、鈍いって」


空腹時の由香子はパワーはないものの、いつもにもまして容赦がない。その舌戦にさらされながらも、吉井は慌てて、居室の扉を閉めカギをかける。

午後十一時を過ぎた大学の廊下は、学生がいる居室から僅かな光が漏れるのみで、すっかりと暗闇が支配している。数名残っているであろう学生へと声をかけ、由香子と共に駐車場へと歩き出す。

相変わらずやや緊張を伴う車内にて、シートベルトを締めた由香子に、胸の中に燻っていた懸案事項を切り出す。どうしてこのタイミングでこの場所でそんなことを口走るのかもわからないほど、吉井の中では敢えて確認したくて仕方がないことだったのだと改めて思い知る。


「そういえば、おまえ彼氏いるんだな、生意気な」


どこまでも憎まれ口調で、いつもの言い合いの延長線上に見せかけながら、注意深く由香子の表情を窺う。どこまでも内心では緊迫しているというのに、どうにか平静状態である、という見栄ははれているようだ。


「は??彼氏?そんなもの大学入ってからはいないっすよ?」


何を言っているのかわからない、といった風に由香子が小首を傾げる。

その動作に常に感じまいと己を律していた、由香子の女の部分を感じとる。

一瞬にして、自分の行動をコントロールすることができなくなる。

気がついたときには、己の唇に自分の物とは違う何か柔らかい物体が接触している時であり、それが、由香子の唇だと理解したときには、二人の距離はまた元通りとなっていた。


「……たぶん、弟と一緒に歩いているところでも見られたんだと思う。私の周りで男って吉井さんか弟ぐらいしかいないから」

「寂しい人生だな」

「吉井さんほどじゃないけど」


何事もなかったかのように、由香子は淡々といつものように会話を続けていく。

吉井は、自分がしでかしたことが信じられなくて、さらには理不尽にもそのことをなかったことのように扱っている由香子に腹を立てる。

職員が学生に手をだすということ。

恩師の来訪と、彼の心配そうな表情を思い出す。

もう二度とこのような軽はずみな行動は起こすまいと、思う心の反面、揺らいでしまった均衡はもう元には戻らないのかもしれない、と、思いながら。


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