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13話

 新年度ともなれば、教員にとっても学生にとっても、やるべき仕事は山のように存在する。

授業が開始されれば、そのための準備をしなくてはならない。もちろん年度始めは事務仕事も多い。研究者としても教育者としても、本分からはだいぶそれてはしまうが、それらをこなすだけで一日があっという間に過ぎ去ってしまう。

ほんの少し、交流をもったに過ぎない一学生のことを思い出す時間などは本来ならばないはずなのだ。

だが、由香子がこの居室へと来なくなって以来、部屋の景観は雑然としていく一方で、彼女の面影だけはなぜか薄れないでいる。いつもの時間にひょっこりとまた、顔を出しそうなほど鮮明に、由香子の気配だけはそこここに強く残ったままだ。

――どうかしている。

そう思いはするものの、肝心の吉井はすでにそのことを否定する気にすらならないでいる状態だ。



「そういえば、先生この間彼女を見ましたよ?」

「彼女?」


息抜きにと、学生がたむろしている喫煙コーナーへと足を運んだ吉井に、不意に学生から思わぬ情報をもたらされた。


「掃除しに来ていたちっちゃい子ですよ」

「ああ……、澤田か」


その先が聞きたくてたまらないのに、それをおくびにも気取られないようにして、箱から煙草を取り出す。なぜだかクラブの黒服をバイトとしてやっていた、という学生が、素早く彼の煙草に火をつけ、その手慣れた動作に思わず苦笑する。


「彼氏と一緒だったみたいで、声かけそびれたんですけどね、結局」

「何、あの子彼氏とかいたの?」

「そりゃあ、いるんじゃねーの?おまえみたいなのにも彼女がいるぐらいだし」


その軽口を皮切りに、学生たちは次々とお互いのプライベートなことを突付きあっては笑い声を上げる。

ただ一人、煙草の味などまるで感じなくなってしまった、吉井を除いて。

まだほとんど残ったままの煙草を灰皿へ押し付け、無言で吉井がその場を立ち去る。

そのような事は珍しくはなく、学生たちも一瞬彼のほうへと顔をむけたものの、またすぐ雑談へと戻っていく。

吉井は、居室へと戻り、しっかりと扉を閉める。あまり閉められることのない扉が閉められ、外界と切断されたような錯覚に陥る。


「彼氏、だと?」


思わず呟いた一言は、ぞっとするほど冷たく、その冷たさに吐いた当の本人すら僅かにたじろぐ。

年頃の女性に、恋人がいたという事実は、それほどおかしなことではない。現に、あれほどむさくるしい自分の研究室の学生にすら彼女を持つものも少なくはない。

――違う。

澤田由香子に恋人がいたという事実が、吉井に衝撃を与えたのだ。外聞も気にすることなく、ただ己の殻に閉じこもってしまうほどに。


「だから、か」


由香子が突然バイトをやめる、といいだしたことをその事実と結びつける。いや、彼女の行動のなにもかもがその事実と結びついてしまうようで、今までの由香子との思い出そのものが歪んだフィルターをかけられてしまったようだ。

この部屋に残る、彼女の気配を全て消し去りたい衝動にかられる。

そんなことはもうできるはずもないのに。




「あ……」

「……お前か」


同じ場所で同じ会話を交わしたのは、すでに一年近く前の事である。偶然なのか、故意なのか、吉井は再び由香子と遭遇してしまった。

あれ以来、絶対に会う事はないはずだと思っていた人物に出会ってしまい、あまり感情の振れ幅が大きいとは言えない吉井が動揺する。

そんな吉井を尻目に、由香子の方はにこやかに手招きをする。ご丁寧にあの時と同じように、女性には多いと思われるカレーの皿を自身の前に置きながら。


「久しぶり」

「ああ」


どうやって会話を繋いでいいのかわからない吉井は、相槌を打つのが精一杯である。

思いのほか、学生から聞かされた由香子には恋人がいる、という情報がダメージを与えているらしい。そんなはずはない、と言い聞かせていた自分の強がりに気がつく。


「どうしてここに」


以前にも問うたはずの言葉を、再び口にする。あっけらかんと「ここのがおいしいから」と、事も無げに言い返されることを期待して。

だが、由香子の口から零れだしたのは予想もしなかった言葉であり、さらにそれが吉井を圧迫していく。


「確かめに」

「……何を?」


全く思考回路が働かない彼を置いてきぼりにして、彼女は相変わらず小さな一口でせっせとカレーを運んでいる。


「私にとって吉井直樹准教授っていうのがどういう存在なのかっていうこと、かな?」


吉井自身がもっとも聞きたくて、もっとも聞けなかった質問を、さらりと口にする。何も言えない吉井をにこやかに見つめながら、由香子は続けていく。


「一度目は偶然で、二度目は故意に。それから先は強引に」


恐らく二人の出会いから、今現在に至るまでのことを言っているのだろうけれど、今の吉井にはそれを十分吟味する余裕がない。


「私と吉井さんってどういう関係?」


唐突にもたらされたあまりにも直球すぎる問いかけに、吉井は答えられないでいる。


「わからないんだよなぁ、私にも」


由香子は話しながらも手は止まることなく、食事を続けている。一方の吉井は、箸をもったままその右手は微動だにしていない。

――だたの学生と職員だ。

そう言い切ってしまえばこれから先も、少なくともそういう関係で由香子と会いつづけることはできる。居室に来る、ということはもうないのかもしれないけれど、こうやって学食で偶然出会うことも可能性としてはあり得るはずだ。おせっかいな同業者に忠告されるまでもなく、吉井は危ない橋を渡るつもりはなく、そいうい雑音に由香子がさらされて欲しくはない、という思いも有る。だが、社交辞令的に心にもない嘘を平気でつけるはずの吉井は、唇が固まってうごかないままだ。


「どう思う?」


カランと置かれたスプーンと、からっぽのお皿、以前に見た光景なのに、あの時とでは吉井の置かれた精神状態がまるでことなっている。

拒否する事も迎え入れることもできないまま、周囲の風景だけが世話しなく動いている。


「先生と学生?」


肯定の答えを与えるべきなのに、うなずく事もできない。


「雇用主と使用人?」


昼休みの終了間際にやってきたせいなのか、吉井と由香子の周辺のテーブルからは次々と人が立ち去っていく。


「友達?」


吉井の心情を表すにはとても遠くて、だけれども、二人の間の関係性を表すには現時点ではもっとも適切だと思われる単語が発せられる。ようやく、金縛りにあったかのように動けないでいた吉井が小さく頷く。


「そっか……。トモダチ、か。トモダチ」


何度も口の中で小さく繰り返しながら、由香子は立ち上がる。


「じゃあ、金曜日に」

「え?」

「またね」


由香子は晴れやかな笑顔でトレイを片手でもちながら、右手を振る。

狐につままれたような気分に陥った吉井は、あまりおいしくないという評判のそばをすっかり伸びきった状態で食べることとなる。

胸の中がどうしてだか、僅かにあたたかくなるのを感じながら。

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