11話
「そろそろ、また身を固めた方がいいんじゃないか?」
「いえ、まだそういう考えには至らないので」
常日頃お世話になっている他大学の教授が、唐突に吉井の講座へと訪れた。気まぐれなのは今に始まったことではないが、授業や会議、他大学への出張講座など、意外と外に出ることの多い職務なのがわかりきっている教授にしては珍しい行動で面食らう。
そして、いきなり自分へと直球を投げかけられ、あまりに突然の提案に混乱する。
もともと確かに世話好きで、自分のところの助教に対しても、その恋人とのやりとりをやきもきと心配している人間だとは思ってはいた。だが、それを自分にまで発揮されるとは思ってもいなかったのだ。
働かない頭をなんとか回転させ、社交辞令を身につけた口先が辛うじて当たり障りのない返答を口にする。
「おせっかいだとは思ったんだが」
「一度失敗していますし」
離婚当時、その話題は瞬く間に同業者間に広がっていった。吉井がそれを知るのは間接的ではあるが、それでも仲のよい友人たちからためらいがちに確認されたことを覚えている。
元々夫婦仲が良いと評判だった吉井と元妻の突然の別れ話に、友人たち以外の知人レベルの人間たちは、話を聞きたいけれども聞いてはいけないような微妙な空気を纏いながら遠巻きにしていた事を思い出す。だからこそ、再婚話など誰の口からも出たことはなかった。
それを敢て行動に移したということには裏があるはずだ、と、探るような視線を教授へと送る。
「まあ、そういうけれど、腰を落ち着ければ女子学生の指導もやりやすくもなるし」
他愛もない雑談を挟んだ後の、教授の言葉で、彼はようやくその提案がどこからどういう風にしてもたらされたものなのかを理解した。
澤田由香子の存在。
そう、彼女の存在こそが、教授が耳にした懸案事項であり、恐らく同じ学部の同業者あたりが彼に密告した内容そのものなのだろう。吉井が毎週毎週特定の女子学生を引き入れている、と。
確かに、第三者からみれば、吉井と澤田の関係は不可解なものである。何の接点もないなずの二人が今では定期的に食事を共にまでしている。いかがわしい関係ではない、と即座に否定はできるものの、だからといって、自分の心に一点の曇もない、というわけでもない。だが、純粋に赤の他人にそう思われるのは不愉快ではある。
「誰が何を言ったのかは知りませんが、当分結婚するつもりもありませんし、そういう相手もいませんから、あまり心配しないでください」
笑みを作った吉井に、教授は頷ずき返す。
それから先は、吉井のプライベートなことに口出しする事はなく、仕事について有意義な議論が活発に交わされていった。
そろそろ、彼女との曖昧な時間にも終わりがくることを予感しながら。
それは、何の予告もなしに突然とやってきた。
「終了、っと。ついでにもうここに来るのも終了」
学部内の誰かが吉井と由香子の関係を色眼鏡で見ていることを知りながらも、結局吉井の方からは何一つ対策を立てることができないでいた。もうここに来るなとは、言えないでいる吉井に対し、あっさりと由香子は終わりの言葉を告げる。しかも、世間話をするように何気ない会話の中で。
「何か、言われたのか?」
情ないことに、吉井が最初に口にした言葉が、おせっかいな第三者からの横槍の心配だ。吉井を突付いてもダメなのならば、もう片方へと対象をうつせば良い。確かに、方法論としてはまっとうだ。それがどれほど気に入らない方法だとしても。
「いや?別に。まあ、そろそろ就活もしないと、だし、助手さんも来たしね」
助教の永田久紀が着任したのは先月、1月のことだ。時期が中途半端だということで、新卒ではなくポスドクをやっていた人間を引き抜いたのだが、週に一度来る不可思議な少女をあっさりと受け入れ、今では駄菓子で釣りながら掃除をさせるほどに打ち解けている。二人の姿を遠巻きで眺めながら、吐露できない感情に囚われていたのはいつものことで、つい先ほどまで耐え難い感情の渦に巻き込まれていたのだから。
「困る」
次に吐き出したのは、極表層をさらりとすくった程度の感情で、確かに由香子が来なくて困ることは事実だ。部屋はまたカオスへと逆戻りをするし、その状態にストレスを感じることも予想できる。だが、その短い一言に、吉井は心の奥深くに閉じ込めたままの思いが滲んでしまっていることにも気がついてしまった。
「まあ、だいぶ整ったし、後は順番に入れていけばいいだけだし」
ただ掃除するだけではなく、由香子は彼女がいなくても整理しやすいように徐々に部屋を改造していった。だから、確かに今では、雑誌などを彼女が仕切った通りに仕舞っていきさえすれば、最初に由香子が見た惨状には戻らないはずなのだ。
「就職、するのか?」
「んーー、出来たらね、って縁起でもないな、する、うん、就職するって宣言しとく」
全開の笑顔でこちらを見つめる少女は、どこにも曇などない。もう、ここへはこないことで例え吉井と接点が切れたところで、それはそれで構わないのだろう。だからこそ、胸が痛む。
吉井は、屈折して認めたくなかった自分の心とようやく向き合うことができた。
出来た途端にそれを失うことになってしまったけれど。
あくまで教職員と学生という立場を崩すつもりはない吉井は、今までの由香子の努力に素直に謝辞を述べる。
それを笑顔で受ける由香子を眺めながら、もう二度と味わう事はないのだろうと思っていた懐かしい思いが胸を占める。
由香子の宣言通りに、それ以後本当に由香子の姿を吉井の居室でみることはなくなった。