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10話

「あんたまだやってんの?」

「やってるけど?」


修士まで残った数少ない同級生の一人が、由香子の講座までやってくるのはよくある話である。まして、同性ならばなおさらだろう。

夏休みに入った現在では、その頻度が増す傾向にある。割と仲が良い方だとお互いが自認するだけはあり、高橋佐緒里は由香子のプライベートに触れられる数少ない人間だ。そんな彼女が最近疑問に思っている出来事は、まさに由香子の不可解な行動様式にあり、どちらかというとそのことに、佐緒里はあまり良い印象を抱いていない。


「何の関係もない野郎の研究室へ行ってせっせと掃除して帰る、だなんて不毛なこといいかげんやめれば?」

「や、不毛って、一応ごはんついているし」

「ごはんっていったってそのへんの学生が行くようなやっすい店でしょ?なんのメリットがあんの?」

「メリットって、やっぱりタダメシって魅力的やん」

「ただじゃないだろうがただじゃ、あんたの労働の対価でしょ」

「まあ、そう言われればそうだけど」

「だいたい拘束時間が長い割には夕食一食のみ???どれだけケチだっつーの」

「いやそれは、私が勝手に仕事が終わるのを待っているだけだし、それにその間なんだかんだで勉強していたりするから、それほど拘束時間が長いわけじゃないんよ」

「……ああ言えばこう言う。結局やめる気はないわけね」

「ないない、全くない」

「ごはんぐらい誰かに言えば、由香子ならいくらでもおごってもらえるだろうに」

「ペットに餌付けする気分でおごってくれる人もいるだろうけど、ただおごってもらうのはなぁ、主義に反する」

「どうしてそういうところだけ律儀かな、この子は」

「そういう性格なんだからしょうがないじゃん」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ。何かやり始めたと思ったら、おっさんの世話って、いったい何を考えてるわけ?」

「まあまあ、それにどうせそんなに長い事やれるわけじゃなし」


人懐こそうな外見とは裏腹に、あまり他人に関心のない由香子がようやく人間に興味をもった。友達として、それを喜ばしいことだと受け止めていたが、決してその内容を歓迎してはいない。どうしてかわいい由香子が、わけのわからない学問に没頭しているよそのおっさんの面倒をみなけばならないのか。それも佐緒里にとっては、到底理解しがたい安い労働対価で、だ。本人が満足しているのなら、と、小言は控えてはいるものの、それでも顔を合わすたびに口出ししそうになるのを押さえている有様だ。

 佐緒里は、由香子が年頃の女性らしく恋愛に興味を持って欲しい、という思いは変わっていない。そればかりが人生ではなく、そういうことにまるで興味をもたない性質の人間がいることも理解している。だが、どういうわけか由香子にはそのような気持ちを抱いてしまうのだ。

もてないわけではないのに、周囲にそう言う意味でのアンテナを張り巡らせることのない彼女を、まるで姉か親のように心配している。だからこそ、無意味な時間を過ごすだけの由香子のアルバイトを芳しく思ってはおらず、また、そういうことを許容している相手の男に対しても好意的な意見をもてないでいた。

さらに、由香子に対して言い募ろうとした佐緒里のおせっかいな口出しは、由香子の講座の教授が現れたことで中断された。いい足りない佐緒里と、これ以上何も言いたくはない由香子は、それぞれ素早くスイッチを切り替えて、教授と今現在興味を持っている資料について会話をはじめていった。



 下宿先へ帰る道すがら、由香子はぼんやりと吉井について考えた。

彼女が彼について知っていることといえば、難しい分野の准教授であることと、まだ研究室にはスタッフが一人しかおらず、研究室内に手が行き渡っていないということ。さらには、我侭な喫煙者で、食が細く、車の運転が少々荒いということぐらいである。

そうして、つい最近知ったもっともプライベートな部分というのは、吉井が三年前に離婚しており、いまだにそのときの奥さんの妹さんが職場へと訪ねてくる関係である、ということだ。

あの時から、どこかもやもやした気分を抱えたまま、だけれども由香子はそれをはっきりと言語にすることができないでいる。だから、いつまでたってもそのもやもやは正体のはっきりしないわけのわからない気持ちのままで、今の今までずっと消化できずにいるのだ。だからといって、それを今誰かに話してはっきりさせようという状態にはなってはいない。それは、友達の佐緒里に対してもそうだし、他の友達に対してもそうである。まして、有る意味当事者とも言える吉井に対して、そんなに曖昧な気持ちを吐露するわけにもいかず、結局ずっと態度までもが曖昧なまま過ごさざるを得なくなっている。そんな由香子の態度に気がついているのかいないのか、吉井にしてもどこか自分に対してギクシャクとしているような気がしてしまう。もっとも、それはひどくプライベートな部分に偶然にも触れられてしまったことによる拒否反応かもしれないし、そうだとしたら、それもひどく悲しいことだと、由香子は感じている。

ただ偶然、吉井の居室へと赴き、思いつきで彼の部屋を片付けた。心のどこかで、もう一度会えるかもしれないと思いながら遠征した学食で再び出会えた時には、柄にもなく緊張もした。こうして現在週に一度とはいえ、定期的に吉井と対面することは、嬉しくもあり楽しくも有る。だからといって、自分がこれ以上どうしたい、という明確な欲求はないままだ。

だから、このまま由香子がこれ以上なんの接点も持ち得ないまま卒業したとしても、それはしかたがないと割り切れると思いはするものの、それだけでは寂しいと思う心も同時に存在する。

強い欲求も、葛藤もない。

そんな気持ちをやはり、どう言い表せばいいのか途方にくれる。

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