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海の終わり  作者: 禅海
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*


 青年は浜辺に腰を下ろして、曖昧な水平線を、老人のように凝視している。水色の空と鬱色の海の境界は、丁度着物の帯が服の上下を仕分けるような輪郭を、尤も殆ど色差を持たないまま、視界の左右に隈なく棚引いている。夏色の雲は堆く空の白に凝析し、緻密な雨空の破片を、晴空のあちらこちらに不穏に覗かせつつ、気流に逆らわないではて高まったかと思えばみるみる崩れていく。

 青年の腰、尻、太腿は、みぎわに薙いでくる波の透明な薄い刃に錐揉みされ、濡れて強張る。反省を強いられる小学生のように、彼は頑なに自分の意志を曲げようとしない。たとえそれが過ちであろうとも、彼には過ちぐらいしか、自分を慰めてくれるものがないと知っている。彼を愛する彼女ですら……青年の決定には逆らえない。

 みぎわの青年のもとに、少女が駆けよってくる。両手に濡れたペットボトルをぶら下げて、彼女は彼の傍に立つと、しばらく青年の頭上から、その頑なな横顔が海の果てを眺めるのを確かめた後、彼の隣に、ホットパンツの長く豊満な脚を曲げてしゃがみ、彼の耳に接吻した。反応がないのを別に彼女は驚かない。そのまま熱い唇を移動させ、耳朶を軽く吸ってみると、先端に赤い染みのような軽い痣ができる。少女はそれを、青年の美しいイヤリングだと思った。

「もう二時間も見てるよ。退屈しないの」と少女はペットボトルのキャップをひねりながら言った。

「いつまでも見ていられるよ。どうしてかは分からないけど、あそこには僕たちの知らない何かが詰まってる気がするんだ。そうだな、キッチンの排水溝みたいに」と青年は呆然と言った。

「排水溝は汚れてるよ。掃除、したことないでしょ。私にはそんな風には見えないけど……」 

 少女は青年の視線を追って、水平線の彼方を眺めた。青い。ある一時代の青さがあの直線を描いている気がする。自分が彼を愛し始めたそのときから続く愛の証拠が、あの一直線の青として、暗号化されているのだ。あの青を解く鍵らしいものを、私たちはどこに捨ててしまったんだろうと、少女は嘆きそうになった。

 少女は透明なペットボトルの先に口づけした。それは青年が昨晩拒んだ口づけに対する秘かな復讐ではなかったか? 青年はしかし、少女には目もくれないで、ひたすら海の一点を凝視し続けている。

「僕は、物事には決して飽きない人間だと自負していたんだ。海を眺めるように、全ては無限の時間によって抽象化され、形式は台無しにされ、概念化されてしまうと信じていた。人間心理も、ある一定の法則性に支配されている概念だとばかり考えていたんだよ。僕はだから君を愛することが出来ると思ったんだ。僕は決して君を愛するのに飽きないだろうって」

 青年は断るように言った。その熱い目尻、椰子の葉のような睫毛、はっきりした二重瞼、潤んだまどかな瞳の全てが、まとまって海に集中している。

 自分が今も心から愛している青年の全てが海ばかり見て、もう自分を見ていないのに、少女は落胆しつつ、それを受け入れる時間を青年が用意してくれたことに感謝した。小学生の幼馴染同士の二人が、永遠に続くと思われた日常を、恰も否定してしまうような、青年の確固とした記憶の表情。

 青年の揺るぎない強固な骨格の隣に寄り添って、少女は膝を三角に折りたたんで胸の前に立てて姿勢を変えながら、正した両脚を抱きかかえ、自分たちの一番のかけがえのない記憶は何だろうと思い出した。

 中学校の放課後の部活動の後の、自転車を押して帰る夕焼けの空、高校の校舎裏の初めての接吻、大学の朝がけのキッチンから眺められる、薄い毛布にくるまれてまだ眠っている青年の裸体。

 少女はこういうときの回顧の涙を好ましいものだとは思わない。それは決して負け惜しみなどではない、確実な幸福の証、幸福に対する貞操の誓いのようなものだった。記憶に対する涙は、老人の特権であって、まだ若い二人のものではないと、少女は知悉していた。

 けれど、今思い出したものは、実際二人の人生の中で最も幸福な時間だったかは分からない。本当に幸福な時間というものは、思い出そうとしてみると、なかなか思い出せないのだ。

「僕は今日ずっと、いままでで一番楽しかったのはいつだったか考えていたんだけど」と青年が言うのを聞いて、少女はまだ自分たちの思考が似通い、愛し合っていると突き付けられている気持ちがして、心を刺されるような気がした。

「覚えてる? ぼくはさっき思い出したんだけど、そう、波が冷たくて思い出したんだ」

 二人の爪先に寄せては引く波の感触が二人の記憶と混ざり合い、溶け合って、つぶさに死に、蘇る。少女も青年の言葉を聞いて、ある冬の日を思い出した。


 冬の日、それは二人が同じ東京の大学に進学するまで生まれ育った北の地方の、雪の夥しく積もった日だった。二人はまだ小学生だった。二人はその日の前日から、天気予想の大雪を楽しみにしていた。翌日降った雪は、二人の生家の周辺の空き地という空き地を占領した。二人はその、荒廃した焼け野原の前に手を繋いで立っていた。冬に人々の生活を冷たく暗い世界に閉じ込めてしまう雪が、よく似た防寒着を着込んで喜びに充実した二人を、かえって親密なもののように思わせた。

 二人はシャベルとスコップを持って、近くの空き地に向かった。二人は、西の日本海の湿気のために、降ったそばからすぐ固まり始めてしまうこの地方特有の雪の重みと朝早くから格闘しながら、雪を掘り、掘った雪を一か所に投げ集めるのを延々と続けた。そして二人は小さな、自分の背丈くらいの雪山を完成させた。既に夜が近いころだった。付近の家々は炊事を始めるために、炊事場の小さな明かり取りの窓に白い光が灯篭のように灯され始めた。

 夜になる前に、二人はこの雪山の下部に、辛うじて子供が這って通れるくらいの横穴を無心に掘り続けて、さらに雪山の内部に空洞を掘って、かまくらを作った。これが二人の冬休みの目的だったのだ。大人の手を一つも借りず、暗い、ひんやりした二人だけの空間の内側で、二人は身を寄せ合って、少し汗ばんだ防寒具の上気した体温越しに、自分たちの労働の成果を確かめ合うのだった。二人は霜焼けみたいな真っ赤な頬に互いに勇気づけられて、顔を見合って笑った。朗らかな笑い声がかまくらの内側に炎を照らしたように広がったかと思うと、するとそのとき、かまくらは大音を立てて、二人の頭上に崩れ落ちた。二人は雪だらけで、思ったよりも小さいために何の事故も起こせなかったかまくらだった雪の形式の廃趾に、また大声で笑った。


「私も思い出したよ。二人で作ったかまくらのこと。今は真夏なのにね」

 少女は剥き出しの肌を焼く照り付ける夏の太陽と、一方で爪先からいさらいにかけてを冷たくする夏の波を感じつつ言った。

「崩れたときが、一番楽しかったとは思わない? 僕はそれを思い出していたんだ」

 と青年は決然と言った。風が二人の背後を通り過ぎた。冬の記憶は薄まり、濃い夏の匂いが蘇る。

「私も、なんでだろう。二人が一生懸命に作ったものが、一瞬で壊れたときのあの嬉しさは何だったんだろう」と、少女は内心疑問の汗に濡れた心地で応えた。

「そう、僕も全く同じことを考えていたんだ。でもようするに、壊れてからの再建みたいなもの、全く新しい世界に対する憧憬みたいなものが、あのときの僕らには確かに存在していたんだと思う」

「新しい世界ね。あのときはでも、あなたがいるという世界が保証されていた。全く新しいわけではなかったんだよ。私はまだ、それでもいいと思っているの。あなたはそれじゃ駄目なのね?」

「僕は海に出たくなったんだ。一人で船出して、どこかの無人島に漂着して、そこで死にたい」

「私を連れて行ってくれないの」

「君は無人島には勿体ないよ」

 青年はその時初めて、笑顔で少女の方を見た。少女も美しい微笑を携えて、青年を頑なに見つめている。しかしその顔に後ろめたい悲しみや苦しみに拘束された感情は見つからない。それはあの雪の日の、崩れ落ちたあとの二人の最上の歓びにも勝るような、この上ない希望の予感を信じている。

 青年は、少年の日に戻ったような気持ちで、少女の優しさが彼女自身を傷つけることを理解していつつ、それに便乗して自分の無茶を押し通そうとする自分を少しも責めていないのを知って、喜んだ。

「僕は無人島で、君と同じくらい大切なものを発見すると思うよ。君と同じくらいに」

「生きていける? 朝ご飯もまともに作れないじゃん」

「生きるさ」

 青年と少女は見つめあったまま、微笑した。

 波がさざめいている。海の訪れを予兆させるその潮騒が、少しずつ、暮れなずむ錦の差し始めた水平線に遠のいていくのが分かる。雲の底が茜色の罅になる。

 潮風が二人の胸を満たし、現代的な毒素を消毒して、再びその毒気を外へ連れ出してゆく。汗ばんだ肌は、既に海水に洗練された人間の形を取り戻していた。

 少女は自分がいつまでも青年を愛しているのは、彼の出発にも、自分の出発にも邪魔だと考えた。葛藤の必要はない。私たちは新しい出発を受け入れさえすればよいのだ。青年が無人島へ行くというのなら、自分は無人の山にでも行こう。

 少女は背後を振り返った。地平線は空に紛れるよりずっと手前で、儚い山嶺の夕日の影の下方にぶつかり、つぶれて、黒くわだかまっている。


 少女は、左手の薬指に優しく触れた。銀色の、文字の刻まれた指輪が、もう一方の手の人差し指と親指に掴まれて、薬指の付け根から抵抗なくするする指先まで引き抜かれた。引き抜かれた指輪を、少女は青年に手渡した。

 青年は優しく笑った。そして青年は、受け取ったばかりの指輪を、力いっぱい、海めがけて放り投げた。指輪の煌めきの弧が宙に描かれて、海の波の高まりに音も立てずに落ちた。海の鬱色の瑰麗が増すように思われた。青年は力強く笑った。

 かつて青年が誓った愛の言葉に、少女は決して裏切りを見出したわけではなかった。陸へ向かってふくらみを連ねてゆく潮風が、少女の形のよい鼻先に触れて心地よい。少女は自分が、この夏の海に魅せられた青年を愛しながら、けれど青年だった彼を自分がもう愛していないことを知って、麗らかに微笑んだ。


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