第9話「逆鱗と共闘の炎」
薄暗い旧校舎の一室で、鈍い打撃音と苦痛のうめき声が絶え間なく響き渡っていた。
飛燕の動きは、薬の影響で普段の半分ほどの速度しか出ていない。
それでも、前世で培った喧嘩の勘と、急所を的確に狙う無駄のない身のこなしは、温室育ちの貴族たちを圧倒していた。
「この野郎っ」
右から殴りかかってきた大柄な男の拳を紙一重でかわし、そのまま相手の懐に潜り込んで鳩尾に肘打ちを叩き込む。
男がくの字に折れ曲がって倒れるのと同時に、背後から迫っていた別の男の膝関節を鋭い蹴りで打ち砕く。
「がはっ……ひぃっ」
たった数分の間に、五人いた貴族の生徒のうち三人が床に沈み、完全に戦意を喪失していた。
しかし、飛燕の体力も限界に近づいていた。
薬によって強制的に引き出された熱が体力を容赦なく削り取り、呼吸は刃物を飲み込んだように痛い。
視界の端が黒く霞み始め、膝がガクガクと笑っている。
「はぁっ……はぁっ……」
壁に寄りかかり、なんとか立っている状態の飛燕を見て、残った二人の生徒が再び邪悪な笑みを浮かべてにじり寄ってきた。
「化け物め……だが、もう限界だろう。大人しく……」
男が懐から小さなナイフを取り出し、飛燕に向けて振りかざした、まさにその瞬間。
旧校舎の分厚い木の扉が、爆発でも起きたかのように木端微塵に吹き飛んだ。
舞い上がる土埃と木片の向こうから、圧倒的な密度を持った殺気が、まるで実体のある冷気のように部屋中を満たしていく。
「……誰に断って、俺のものに手を出している」
そこに立っていたのは、地獄の底から這い上がってきた修羅のような形相の蒼龍だった。
普段の整った髪は乱れ、制服の肩で荒い息をしている。
しかし、その瞳に宿る怒りは、飛燕が今まで見たこともないほど深く、そして絶対的な冷酷さを孕んでいた。
冬の夜気を思わせる彼特有のアルファの香りが、今は鋭い刃のように空気を切り裂き、部屋の温度を一気に氷点下まで引き下げる。
「か、会長……。な、なぜここが……」
ナイフを持っていた男が、恐怖で顔面を蒼白にしながら後ずさった。
蒼龍は何も答えない。ただ無言で一歩、また一歩と間合いを詰め、男の胸ぐらを片手で掴み上げた。
「ひっ……」
「貴様らのような塵芥が、俺の逆鱗に触れたこと。その罪の重さを、骨の髄まで刻み込んでやる」
次の瞬間、蒼龍の拳が目にも留まらぬ速さで男の顔面にめり込んだ。
悲鳴を上げる間もなく、男は部屋の端まで吹き飛ばされ、動かなくなった。
残った最後の一人は、もはや戦う意志を完全に喪失し、その場にへたり込んでガタガタと震えている。
蒼龍はそんな男には目もくれず、壁際で荒い息をついている飛燕の元へ、弾かれたように駆け寄った。
「飛燕」
「……遅いですよ、会長。待ちくたびれました」
飛燕が強がって皮肉を口にすると、蒼龍の顔が痛切に歪んだ。
彼は迷うことなく飛燕の身体を抱き寄せ、自分の上着を脱いで、引き裂かれた飛燕の制服の上から優しく包み込んだ。
「すまない……俺の不注意だ。こんな目に遭わせて……」
蒼龍の低い声が、微かに震えている。
あの常に冷静沈着な絶対的支配者が、自分のためにここまで取り乱している。
その事実が、飛燕の胸の奥をぎゅっと締め付けた。
蒼龍の身体から伝わってくる温もりと、彼本来の落ち着いた香りが、飛燕の体内で荒れ狂っていた薬の熱を、嘘のように静めていくのを感じる。
「俺は平気です。あいつら、結構ボコボコにしてやりましたし」
飛燕が弱々しく笑いながら、床に倒れている貴族たちを顎でしゃくると、蒼龍はふっと短く息を吐き、張り詰めていた表情をわずかに緩めた。
「お前は本当に……規格外のオメガだな」
「だから言ったじゃないですか。俺はヤワじゃないって」
二人の間に、戦いの余韻とは違う、静かで温かい空気が流れ始める。
しかし、その静寂を破るように、気絶していたはずの最初の金髪の男が、血だらけの顔を上げて狂ったように笑い始めた。
「はははっ……どうだ、蒼龍。オメガの発情した匂いを嗅いで、理性が保てるか」
男は最後の力を振り絞り、隠し持っていた霊力の札を床に叩きつけた。
札から赤黒い煙が吹き出し、部屋中に充満しようとする。
蒼龍は飛燕を背中にかばうように立ち上がり、冷酷な眼差しで男を見下ろした。
「理性が保てるか、だと」
蒼龍の声が、絶対零度の響きを持って部屋に轟く。
「俺がお前たちのような下劣な欲望で動くと思っているなら、それは大きな間違いだ。俺が飛燕を求めるのは、本能などではない」
蒼龍は片手を前に突き出し、彼自身の膨大な気を開放した。
透明で神聖な気を帯びた突風が巻き起こり、赤黒い煙を瞬く間に吹き飛ばす。
「俺の魂が、彼を唯一の伴侶と認めているからだ」
堂々と宣言されたその言葉に、飛燕は心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受けた。
背中越しに伝わってくる蒼龍の大きく力強い鼓動が、それが決して嘘や誇張ではないことを物語っている。
飛燕は熱くなった顔を両手で覆い、小さくうめき声を漏らした。
『こんなの、ずるすぎるだろ……』
圧倒的な力と、揺るぎない愛情。
絶対的な支配者からの重すぎる愛を、飛燕はもう、否定することができなくなっていた。




