第7話「甘い蜜と冷たい罠」
季節は巡り、天耀学舎の広大な敷地を彩っていた新緑は、次第に深みを増して初夏の気配を漂わせ始めていた。
飛燕が生徒会役員に任命されてから、数週間が経過している。
相変わらず彼の日常は、前世の荒んだ不良時代からは想像もつかないほど、平穏で、そして異常なまでに甘やかされたものだった。
「飛燕、今日の昼食は帝都で最も予約が取れないと言われる老舗の点心を取り寄せた。熱いうちに食べろ」
生徒会室のふかふかな専用ソファでうとうとしていた飛燕は、鼻先をくすぐるごま油と豚肉の芳醇な匂いに目を覚ました。
目の前の豪奢な紫檀の机には、湯気を立てる色とりどりの小籠包や翡翠餃子が、これ見よがしに美しく並べられている。
「……またですか、会長。俺、昨日も豪華な肉料理を腹一杯食わされたばっかりなんですけど」
飛燕は寝起きの気だるい声で文句を言いながらも、無意識のうちに喉が鳴るのを抑えきれなかった。
蒼龍は執務机から立ち上がり、長い脚で音もなく飛燕のそばへ歩み寄ると、満足げに目を細めた。
「お前は育ち盛りだ。それに、オメガの身体は良質な栄養を多く必要とする。遠慮はいらない」
「だからって、毎日毎日こんな……」
言い返そうとした飛燕の口に、蒼龍が自ら箸でつまんだ熱々の小籠包が容赦なく押し込まれた。
「んぐっ」
薄い皮が破れ、中から溢れ出した濃厚で熱い肉汁が口いっぱいに広がる。
火傷しそうな熱さと、それを上回る圧倒的な美味さに、飛燕は思わず目を丸くして咀嚼を始めた。
「うまっ……じゃなくて、自分で食えますから」
「そうか。だが、お前が美味しそうに頬張る顔を見るのは、存外悪くないものでな」
蒼龍は冷徹な生徒会長としての仮面を完全に脱ぎ捨て、まるで愛玩動物でも可愛がるかのような甘い表情を浮かべている。
冬の夜気を思わせる重厚なアルファの香りが、小籠包の匂いと混ざり合いながら飛燕を包み込む。
その香りに触れるたび、飛燕の身体の奥底でオメガとしての本能が小さく警鐘を鳴らし、同時に甘く疼くような矛盾した感覚に襲われるのだ。
心臓の鼓動が不自然に速まり、顔に熱が集まっていくのを自覚して、飛燕は慌てて顔を背けた。
「……ごちそうさまです。俺、ちょっと午後の授業の準備があるので、図書院に行ってきます」
逃げるように立ち上がった飛燕を、蒼龍は止めることなく、ただ静かに微笑んで見送った。
「気をつけて行け。何かあれば、すぐに側近を呼ぶように」
「過保護すぎますって……」
飛燕は小さく悪態をつきながら、逃げるように生徒会室を後にした。
***
図書院へ向かう渡り廊下は、初夏の心地よい風が吹き抜け、風鈴の涼しげな音がどこからか聞こえていた。
飛燕は火照った頬を風に冷ましながら、自分の情けなさに小さくため息をつく。
前世では、誰かに甘やかされることなど一度もなかった。
祖母の愛情は深かったが、それは厳しさと背中合わせのものであり、こんな風に無条件で、しかも同性から溺愛されるような経験は皆無だ。
『あいつ、本気で俺のこと気に入ってんのか……。それとも、オメガだから珍しがってるだけか』
ぐるぐると堂々巡りの思考を繰り返しながら歩いていた飛燕は、ふと前方に立ち塞がる人影に気がついて足を止めた。
そこには、豪奢な貴族の制服を着崩した数人のアルファの生徒たちが、薄ら笑いを浮かべて待ち構えていた。
彼らの胸元に輝く紋章は、学園内でも特にアルファ至上主義を掲げ、蒼龍の改革を快く思っていない保守派の貴族派閥のものだ。
「おや、これはこれは。生徒会長の『お気に入り』のオメガ殿ではありませんか」
先頭に立つ、金髪を撫で付けた細身の男が、嘲るような口調で声をかけてきた。
飛燕は無意識に眉間にしわを寄せ、警戒心を露わにする。
「何か用か。俺は図書院に用事があるんだ。道を開けろ」
「そうつれないことを言うなよ。我々はただ、君と少しお近づきになりたいだけだ」
男が指を鳴らすと、背後に控えていた生徒たちが一斉に間合いを詰め、飛燕を半円形に包囲した。
彼らの身体から放たれる、威圧的で攻撃的なアルファの匂いが、周囲の空気を泥のように重く濁らせていく。
蒼龍の放つ静謐で深い香りとはまったく違う、ただ暴力的に相手を屈服させようとする不快な匂いだ。
飛燕は胃の奥がむかつくのを感じながら、自然体で足幅を開き、いつでも迎撃できる体勢を作った。
「蒼龍会長も物好きなことだ。いくら腕っぷしが少し強いからといって、こんな平民上がりの薄汚いオメガをそばに置くとは」
男の言葉に、周囲の生徒たちが下劣な笑い声を上げる。
「しかし、君も大変だろう。あの氷のように冷たい男の機嫌を取るために、毎晩尻尾を振っているのだからな」
「……てめえ、言わせておけば」
飛燕の声が、一段階低く沈み込んだ。
自分のことを侮辱されるのは前世から慣れっこだ。腹は立つが、聞き流すこともできる。
だが、蒼龍のことを馬鹿にされるのは、なぜか無性に、どうしようもなく腹の底から煮えくり返るような怒りが湧き上がってきた。
「会長は、お前らみたいな腐った連中とは違う。実力も、中身もな」
飛燕が鋭く睨みつけると、男の顔から薄ら笑いが消え、代わりに屈辱に歪んだ醜い表情が浮かび上がった。
「オメガの分際で、調子に乗るなよ……っ」
男が懐から何かを取り出し、飛燕の顔面に向けて勢いよく振りまいた。
キラキラと光る細かい粉末が、初夏の風に乗って飛燕の顔を直撃する。
「なっ……」
反射的に息を止めたが、遅かった。
微量に吸い込んでしまった粉末は、鼻の粘膜から脳へと一瞬で到達し、飛燕の視界をぐらりと大きく揺らした。
手足の先から急速に力が抜け、立っていることすら困難になる。
「がはっ……てめえ、何を……」
「貴重な霊薬だ。アルファの気を強制的に暴走させる代物だが、オメガが吸い込めばどうなるか……試してみたかったんだよ」
男の歪んだ笑い顔が二重、三重にブレて見える。
飛燕は膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、壁に手をついて身体を支えた。
だが、身体の奥底から、信じられないほどの熱が急速に湧き上がり、下腹部を中心にドクドクと脈打ち始めていた。
それは、オメガとしての本能を強制的に引きずり出す、最悪の罠だった。




