第5話「冷徹な仮面の下に隠された真意」
生徒会室での息詰まるような甘やかしの時間から解放され、飛燕は学園の広大な敷地内にある大図書院へと足を運んでいた。
ここには帝国の歴史から異国の技術書まで、ありとあらゆる書物が収蔵されている。
高くそびえ立つ木造の書架には隙間なく本が並び、古い紙と独特のインクの匂いが静かな空間を満たしていた。
飛燕は午後の授業で使う資料を探すため、平民のベータやオメガが主に使用する区画の通路を歩いていた。
窓から差し込む斜光が、空気中を舞う細かな埃を黄金色に照らし出している。
静かで落ち着いたこの場所は、飛燕にとって生徒会室の次に息抜きができる場所になりつつあった。
しかし、その静寂は不快な物音によって唐突に破られた。
「どけよ、薄汚い平民どもが。ここは俺たちが使うんだ」
通路の奥から聞こえてきたのは、傲慢さに満ちた甲高い声だった。
飛燕が本棚の陰からそっと様子をうかがうと、三人のアルファの貴族生徒たちが、大きな学習机を囲んでいた数人のベータとオメガの生徒たちを無理やり退かそうとしているところだった。
貴族の制服の胸元には、彼らの権力を誇示するような派手な刺繍が施されている。
「で、ですが、ここは平民用の区画で……貴族の方々の閲覧室は上の階に……」
ベータの生徒が震える声で反論しようとした瞬間、アルファの一人が机の上に置かれていた彼らのノートを乱暴に床へ払い落とした。
バサバサと音を立てて紙片が散らばり、ベータの生徒は弾かれたように言葉を失う。
「上の階は空気が悪いんだよ。俺たちがここを使うと言っているんだ、さっさと荷物をまとめて消えろ」
理不尽極まりない要求に、飛燕の胃の奥で再び熱い怒りの火種がくすぶり始めた。
手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、呼吸が浅くなる。
助けに入りたい。あの偉そうな顔面に、前世で鍛え上げた右ストレートを叩き込んでやりたい。
その衝動が全身の筋肉を硬直させるが、飛燕は必死に足を踏みとどまらせた。
今の自分は、ただの生徒ではない。生徒会役員という立場にあるのだ。
ここで自分が暴力を振るえば、自分を役員に引き上げた蒼龍の顔に泥を塗ることになるかもしれない。
祖母との約束と、蒼龍の期待。その二つが重い枷となって飛燕の身体を縛り付けていた。
『どうする……見過ごすのか。また、見ないふりをして逃げるのか』
飛燕が唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、葛藤に身を焦がしていたその時だった。
「ずいぶんと威勢が良いな」
図書院の入り口の方から、ひどく冷たく、そして静まり返った声が響き渡った。
その声が空気を震わせた瞬間、その場にいた全員の動きが完全に停止した。
飛燕が驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか図書院に足を踏み入れていた蒼龍の姿があった。
革靴が木の床を打つ乾いた音が、静寂の中でやけに大きく聞こえる。
蒼龍の背後にはいつものように側近たちが控えていたが、彼から発せられる圧倒的な威圧感は、たった一人で軍隊を率いているかのような重さを持っていた。
「か、会長……」
先ほどまで傲慢に振る舞っていたアルファの貴族生徒たちの顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが見えた。
蒼龍は乱雑に床に散らばったノートを一瞥し、そして怯えて縮こまるベータとオメガの生徒たちに視線を向けた。
「天耀学舎の規則、第三章第七項。身分を笠に着た施設設備の不当な占有、および他者の学習権の侵害は、厳重な処罰の対象となる」
蒼龍の声には感情の起伏が一切なく、ただ淡々と事実だけを突きつける刃のような鋭さがあった。
「お前たちが今行っていたのは、まさにその規則への明確な違反だ。違うか」
「い、いえ、これはその……彼らが自主的に場所を譲ってくれると……」
苦し紛れの言い訳を口にした貴族生徒に、蒼龍は冷酷な眼差しを向けた。
「見苦しい嘘をつく暇があるなら、自分の犯した罪の重さを数えろ。お前たちのような愚か者が貴族を名乗ること自体が、この学園の、ひいては帝国の恥だ」
その言葉は、彼らのプライドを根元からへし折るには十分すぎるほどの威力を持っていた。
飛燕は本棚の陰から、その光景を食い入るように見つめていた。
暴力に頼ることなく、ただその存在感と揺るぎない正論だけで、理不尽を圧倒し、弱者を守り抜く姿。
蒼龍はただの冷酷な暴君ではない。
彼の中には、この学園にはびこる腐敗や身分差別を本気で正そうとする、確固たる信念が息づいているのだ。
飛燕の胸の奥で、蒼龍に対する認識が大きく音を立てて変わっていくのを感じた。
恐怖や戸惑いとは違う、純粋な敬意と、少しばかりの憧れ。
自分のような力任せの解決方法とは違う、真の強者の在り方がそこにあった。
「お前たちの処分は後で言い渡す。今すぐここから立ち去れ」
蒼龍が静かに宣告すると、貴族生徒たちは真っ青な顔のまま、逃げるように図書院から駆け出していった。
後に残されたのは、圧倒的な静寂と、放心したように立ち尽くすベータとオメガの生徒たちだけだった。
蒼龍は彼らに向かってわずかに顎を引き、短い言葉を紡いだ。
「床のものを拾って、勉強を続けろ」
その声は先ほどの冷酷さとは打って変わり、不器用ながらも確かな気遣いが滲んでいた。
飛燕は無意識のうちに口元を緩め、本棚の陰からゆっくりと歩み出た。
自分の背中を預けられる相手が、もしかしたらこの学園にいるのかもしれない。
そんな予感が、飛燕の心を少しだけ軽くしてくれたのだった。




