第4話「過保護すぎる絶対君主と居心地の悪い特等席」
天耀学舎の最上階に位置する生徒会室の重厚な両開きの扉を押し開けると、今日もまたむせ返るような高級な香木の匂いが鼻先をかすめた。
飛燕は無意識に顔をしかめ、室内に足を踏み入れるのを一瞬だけためらってしまう。
前世で慣れ親しんだ、土埃や安っぽいカップ麺の匂いとは天地ほども違う、洗練されすぎた空間の空気がどうにも肺に馴染まないのだ。
しかし、部屋の奥に座る学園の絶対的支配者は、飛燕のささやかな葛藤などお見通しだと言わんばかりに、低く艶のある声を響かせた。
「来たか、飛燕」
「……おはようございます、会長」
飛燕がぎこちなく挨拶を返しながら部屋の中へ進むと、足の裏が沈み込むような深紅の分厚い絨毯が、彼の足音を完全に吸い取ってしまった。
窓から差し込む朝の光が、部屋の隅々に配置された豪奢な調度品をきらきらと照らし出している。
蒼龍は執務机に積み上げられた書類からゆっくりと顔を上げ、氷のように冷たいはずの切れ長の瞳を、途端に春の陽だまりのように柔らかく細めた。
そのあからさまな態度の変化に、飛燕の背中をぞわざわとしたくすぐったい悪寒が駆け抜ける。
「お前の席は昨日と同じ場所だ」
蒼龍が視線で示した先には、黒い革張りの執務用チェアとはまったく不釣り合いな、真っ白でふかふかとした一人用の大型ソファが鎮座していた。
昨日、飛燕が生徒会役員に任命された直後、どこからか運び込まれてきた特注品である。
座面には手触りの良い絹のクッションがいくつも重ねられ、少しでも身体が痛くならないようにという異様なまでの配慮が施されていた。
飛燕は複雑な表情でそのソファを見つめ、小さくため息をついてから腰を下ろした。
ふわりと身体が包み込まれるような極上の座り心地に、思わず気が緩みそうになるのを必死でこらえる。
前世の不良時代なら、こんな気取った椅子に座らされたら三分で逃げ出していただろう。
だが、今は逆らうことのできない生徒会長の監視下にあるのだ。
「今日は少し冷えるな」
蒼龍がそう言うが早いか、部屋の隅に控えていた側近の生徒が音もなく近づき、飛燕の膝に上質な毛織の膝掛けをそっと乗せた。
「いや、俺は別に寒くなんて……」
「遠慮はするな。オメガの身体は冷えやすいと聞く」
「俺はそんなヤワじゃありませんよ」
飛燕は少しだけむっとして反論したが、蒼龍は意に介する様子もなく、次に机の上の銀の呼び鈴を軽く鳴らした。
すると今度は、別の生徒が湯気を立てる美しい陶器のティーカップと、色鮮やかな焼き菓子が山のように盛られた三段の皿を運んできた。
甘く香ばしい匂いが飛燕の鼻をくすぐり、不覚にも胃袋が小さく鳴ってしまった。
「朝食はきちんと摂ってきたか。足りないようなら、食堂の料理長に専用の膳を作らせるが」
「……これ以上食ったら動けなくなりますって」
飛燕は呆れたようにつぶやきながら、目の前に置かれた温かい茶を一口だけすすった。
花の香りがする爽やかな飲み口に、張り詰めていた肩の力がわずかに抜けていく。
その様子を満足げに眺めていた蒼龍の視線が、不意に飛燕の右手に止まった。
「その手は、どうした」
先ほどまでの甘やかな空気が一変し、室内の温度が急激に数度下がったかのような錯覚に陥る。
蒼龍の声には、隠しきれない鋭い怒気が混じっていた。
飛燕は驚いて自分の右手を見下ろした。
人差し指の第二関節のあたりに、米粒ほどの小さな擦り傷ができている。
今朝、自室の古びた木枠の窓を開けようとした際、少しだけささくれに引っ掛けてしまったものだ。
血すら滲んでいない、ただ赤くなっているだけの些細な跡だった。
「あ、これですか。朝、窓枠にちょっと擦っただけで……」
「すぐに手当てをしろ」
蒼龍は執務机から立ち上がると、長い脚で絨毯を踏みしめ、あっという間に飛燕の目の前まで歩み寄ってきた。
飛燕が止める間もなく、上質な手袋に包まれた大きな手が、飛燕の華奢な手首をがっしりと、しかし痛みを与えない絶妙な力加減でつかみ取る。
「おい、ちょっと待ってください。こんなのツバつけとけば治るレベルの……」
「ふざけるな。お前のその白い肌に傷が残ったらどうするつもりだ」
蒼龍は真剣そのものの表情で言い放ち、側近に医療箱を持ってこさせた。
冷たい消毒液を含ませた柔らかい綿が傷口に触れ、かすかな刺激が走る。
蒼龍の顔がすぐ近くにあり、彼の整った顔立ちの陰影や、長いまつ毛の先までがはっきりと見えた。
冬の夜気を思わせる冷たくて重厚なアルファの香りが飛燕を包み込み、胸の奥でオメガとしての本能が甘く疼き出す。
心臓が不規則なリズムで跳ね、顔に熱が集まっていくのを止められない。
「大げさすぎますって……俺、これでも男ですよ」
飛燕はたまらず顔を背け、少しだけ乱暴な口調で文句を言った。
自分の足でしっかりと立ち、自分の力で身を守りたい。
前世で培ってきた意地と誇りが、こんな風に庇護されるだけの弱い存在として扱われることに猛烈に反発していた。
しかし、蒼龍は消毒を終えた指先に丁寧に小さな絆創膏を貼りながら、ふっと小さく笑みをこぼした。
「お前が強いことは知っている」
その声は信じられないほど優しく、飛燕の耳の奥をくすぐるように響いた。
「だが、俺がお前を甘やかしたいのだ。我慢しろ」
堂々と告げられたそのわがままな宣言に、飛燕は口をぱくぱくと開閉させることしかできなかった。
反論の言葉を見つけられないまま、飛燕はただ真っ赤になった顔を隠すように、ふかふかのクッションに深く沈み込むしかなかった。




