第3話「絶対的支配者との遭遇」
空気が、一瞬にして凍りついたようだった。
飛燕の肌の表面を、見えない無数の針がチクチクと刺すような強烈な悪寒が駆け抜ける。
背後から漂ってくるのは、ただのアルファの威圧感ではない。
本能の底から警鐘が鳴り響き、絶対に逆らってはいけない強者の気配が、辺り一帯の酸素を奪い取っていくかのように重くのしかかってきた。
助けたオメガの少年は、その気配を感じ取った瞬間に顔面を蒼白にし、膝から崩れ落ちて震え始めた。
飛燕は息を呑み、心臓が早鐘のように激しく脈打つのを感じながら、ゆっくりと後ろを振り返った。
竹林の影から現れたのは、数人の取り巻きを引き連れた、一人の長身の青年だった。
天耀学舎の制服の中でも、特別な権力を持つ者だけに許された豪奢な漆黒の上着。
銀色の細かい刺繍が施された高い襟から覗く首筋は白く、整いすぎた容貌は彫刻のように冷たい美しさを放っている。
氷のように冷たく、しかしどこか燃えるような熱を帯びた鋭い切れ長の瞳が、倒れた不良たちを通り越し、飛燕を真っすぐに射抜いていた。
天耀学舎の頂点に君臨する絶対的支配者。
生徒会長の、蒼龍だった。
飛燕は反射的に身構えた。
最悪のタイミングだ。よりにもよって、学園で一番怒らせてはいけない男に、暴力沙汰の現場を見られてしまった。
蒼龍の背後に控えていた側近のアルファたちが、険しい顔つきで一斉に前に出ようとする。
「会長、オメガの生徒がアルファに危害を加えるなど言語道断。即刻、捕縛して地下の反省室へ……」
側近の一人が声を荒らげたが、蒼龍は手にはめた純白の手袋をゆっくりと直し、片手を軽く上げてそれを制した。
そのわずかな動作だけで、側近たちは弾かれたように口を閉じ、深く頭を下げる。
蒼龍の革靴が、乾いた土を踏みしめる音だけが響く。
一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、飛燕は彼から放たれる圧倒的な気の密度に息苦しさを覚えた。
冬の夜空のような冷たい匂いの中に、微かに混じる古い書物のような深い香り。
蒼龍は飛燕の目の前で立ち止まると、倒れている不良たちを一瞥し、再び飛燕の顔をじっと見下ろした。
怒られる。退学を宣告される。
飛燕がそう覚悟して唇を強く噛み締めたとき、蒼龍の薄い唇がゆっくりと開かれた。
「見事な身のこなしだったな」
その声は、驚くほど低く、そして静かだった。
怒気は一切含まれておらず、むしろ希少な芸術品でも見つけたかのような、微かな感嘆の色が滲んでいる。
「……は」
予想外の言葉に、飛燕は間の抜けた声を漏らしてしまった。
「オメガでありながら、アルファ三人を相手に無傷で制圧するとは。お前のその力、そしてどんな権威にも怯まないその真っすぐな瞳。実に興味深い」
蒼龍はそう言うと、形の良い口角をわずかに引き上げ、氷のような瞳の奥に妖しい光を宿して微笑んだ。
その笑顔に、飛燕は背筋を這い上がるような得体の知れない悪寒を感じた。
「ついてこい。お前には生徒会室で詳しく話を聞かせてもらおう」
有無を言わせぬ絶対的な命令。
飛燕が反論する隙も与えず、蒼龍は静かに背を向け、歩き出した。
逆らうことなど到底不可能だと悟った飛燕は、助けた少年に小さく目配せをしてから、重い足取りで蒼龍の後を追うしかなかった。
***
案内された生徒会室は、飛燕がこれまで生きてきた中で見たこともないほど豪華な空間だった。
高い天井からは美しい細工が施された硝子の照明が吊り下げられ、床には足が沈み込むほど分厚く柔らかな赤い絨毯が敷き詰められている。
部屋の隅に置かれた香炉からは、精神を落ち着かせるような高価な香木の煙が細く立ち昇っていた。
「そこに座れ」
蒼龍が指し示したのは、黒革で覆われた一人用の重厚なソファだった。
飛燕が緊張しながら腰を下ろすと、まるで身体を包み込まれるようなふかふかな感触に驚かされる。
蒼龍は自身の執務机には向かわず、飛燕の向かい側にあるソファにゆったりと腰を下ろした。
長い脚を組み、顎に手を当てて、飛燕の全身を値踏みするようにじっくりと観察してくる。
その視線が首元や胸のあたりをなぞるたびに、飛燕はオメガとしての本能が警鐘を鳴らすのを感じ、身を硬くした。
「さて。お前の処遇についてだが」
蒼龍が静かに口を開く。飛燕は思わず姿勢を正し、無意識のうちに膝の上で拳を握りしめた。
「退学にするつもりはない。あの腐りきった愚か者たちに鉄槌を下したこと、むしろ褒めてやりたいくらいだ」
「……え」
「お前を、本日から生徒会役員に任命する。俺の直属として、常に俺のそばにいることを命じる」
淡々と告げられたその言葉の意味を理解するのに、飛燕の脳は数秒の時間を要した。
「は……。いや、ちょっと待ってください。俺はオメガですよ。生徒会なんて、そんな目立つ場所……」
「オメガだからなんだというのだ」
蒼龍の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
「身分や性別で能力を量るような無能な真似を、俺がすると思っているのか。俺が欲しいのは、お前のその力と、理不尽に立ち向かうその心だ」
蒼龍の言葉には、嘘偽りのない真っすぐな響きがあった。
飛燕は戸惑い、口をパクパクと開閉させることしかできない。
「安心しろ。俺のそばにいれば、もう誰もお前に手出しはできない。食事も、環境も、すべて最高のものを用意してやろう」
蒼龍はゆっくりと立ち上がり、飛燕の座るソファへと歩み寄ってきた。
逃げる間もなく、蒼龍の大きな手が飛燕の頬にそっと触れる。
指先から伝わってくる体温と、強烈なアルファの匂いに、飛燕の身体がびくっと跳ねた。
「怪我はないか。少しでも痛むところがあれば、すぐに最高の医者を呼ぼう」
先ほどまでの冷酷な支配者の顔はどこへやら、今の蒼龍の表情は、信じられないほど甘く、そして過保護な色に染まっていた。
飛燕は完全に状況が飲み込めず、ただ顔を赤くして固まるしかなかった。
平穏な学生生活を送るはずだった二度目の人生は、学園の絶対的支配者という最悪で最強の厄介事に目をつけられたことで、音を立てて崩れ去ろうとしていた。




