第2話「我慢の限界と正義の鉄拳」
昼休みの天耀学舎は、普段の厳粛な空気から少しだけ解放され、あちこちで生徒たちの楽しげな声が響き渡っている。
しかし、飛燕が好んで足を運ぶのは、そんな華やかな喧騒から遠く離れた、中庭の裏手にひっそりと佇む古い東屋だった。
色褪せた朱塗りの柱と、少し苔むした屋根。
周囲には背の高い竹林が鬱蒼と茂り、風が吹くたびに笹の葉が擦れ合ってざわざわと涼しげな音を立てる。
人の寄り付かないこの場所だけが、オメガである飛燕にとって唯一、心から息をつける安全地帯だった。
手作りの簡素な弁当を広げ、竹の葉の間からこぼれる木漏れ日をぼんやりと眺めながら、飛燕は静かに箸を進めていた。
冷めた青菜の炒め物と、少し硬い白飯。
貴族の生徒たちが食堂で食べるような豪華な食事とは比べるべくもないが、誰の冷たい視線も浴びずに食べられるこの時間は、飛燕にとって何よりも贅沢なものだった。
しかし、その平穏な静寂は、竹林の奥から聞こえてきた不快な音によって呆気なく破られた。
「おいおい、オメガの分際で生意気な目つきしてんじゃねえよ」
下品に歪んだ笑い声と、鈍い打撃音。
続いて、小さくうめくような悲鳴が風に乗って飛燕の耳に届いた。
飛燕は箸を止め、ゆっくりと立ち上がった。
嫌な予感がする。見に行かない方がいい。関われば厄介なことになるだけだ。
頭ではそう冷静に判断しているのに、気がつけば足は音のする方へと向かっていた。
***
竹林を抜け、少し開けた場所に出た飛燕の目に飛び込んできたのは、ひどく胸糞の悪い光景だった。
派手に制服を着崩した三人のアルファの不良生徒たちが、一人の小柄な生徒を土壁に押し付けて囲んでいる。
囲まれている生徒の身体からは、微かに甘い匂いが漂っていた。飛燕と同じ、立場の弱いオメガだ。
地面には、オメガの生徒が大切に抱えていたであろう書物が無惨に放り出され、土に塗れている。
「謝れよ。俺の靴に泥を飛ばした落とし前、どうつけてくれるんだ」
不良の一人が、怯えて震えるオメガの少年の顔に、泥のついた靴底を押し付けようと足を振り上げた。
少年は恐怖で目を固く閉じ、肩をすくめてその暴力に耐えようとしている。
飛燕は竹の陰からその様子を見つめながら、全身の血が逆流するような激しい怒りを覚えた。
胃の奥が煮えくり返り、こめかみの血管がドクドクと嫌な音を立てて脈打つ。
前世で自分が一番嫌いだったのは、こういう反撃できない弱者を寄ってたかって痛めつけるような、卑怯で腐った連中だった。
手のひらに爪が食い込み、微かに血がにじむほどの力で拳を握りしめる。
やめろ。見なかったことにしろ。ここを引き返せば、平和な日常が守られるんだ。
飛燕は自分自身に必死で言い聞かせた。
祖母の顔が脳裏をよぎる。
『喧嘩ばかりしないで、真っ当に生きなさい』
そうだ、約束したじゃないか。もう二度と、拳を振るうような真似はしないと。
飛燕は震える足に力を込め、その場から立ち去ろうと身を翻した。
「ひっ……やめて、ください……」
背後から聞こえた、悲痛な叫び声。
直後、乾いた破裂音が響き、オメガの少年が頬を押さえて地面にうずくまるのが見えた。
不良たちが下劣な笑い声を上げ、倒れた少年の腹を容赦なく蹴り上げる。
プツン、と。
飛燕の中で、何かが決定的に切れる音がした。
『ばあちゃん、ごめん。ちょっとだけ約束破るわ』
心の中でそう謝罪した瞬間、飛燕の身体は弾かれたように竹林から飛び出していた。
地面を蹴る足に、内側から湧き上がる熱い力が宿る。
この世界に存在する、気や霊力と呼ばれる神秘的なエネルギー。
飛燕の並外れた気合いは、無意識のうちに物理的な力として身体を強化していた。
風を切り裂くような速度で不良たちの背後に迫り、一番手前にいた男の肩を無造作につかんで背後へ放り投げる。
「あ? なんだてめえ……ぐはっ」
状況を理解する暇も与えず、振り向いた二番目の男の顔面に、飛燕の拳が深く沈み込んだ。
硬い骨が軋む嫌な感触とともに、大柄な男の身体が宙を舞い、土壁に激突して力なく崩れ落ちる。
「な、なんだこいつ! オメガの分際で」
残された最後の不良が、顔を真っ赤にして怒鳴りながら殴りかかってきた。
しかし、飛燕の目にはその動きがひどく遅く、そして単調に見えた。
前世でくぐり抜けてきた修羅場の数に比べれば、ただ力任せに振り回すだけの素人の拳など、止まって見えるのも同然だ。
飛燕はわずかに首を傾けて拳をかわすと、がら空きになった相手の鳩尾に、全身のバネを使った強烈な蹴りを叩き込んだ。
「がはっ……」
男は目をひん剥き、胃液を吐き出しながら地面にうずくまり、そのまま動かなくなった。
静寂。
風が竹林を揺らす音だけが、やけに大きく響いている。
飛燕は荒くなった呼吸を整えながら、倒れ伏す三人のアルファを見下ろした。
拳の関節がじんじんと熱を持ち、アドレナリンが全身を駆け巡っているのを感じる。
やってしまった。
圧倒的な痛快さと同時に、急激に現実感が押し寄せてきた。
アルファの貴族に手を挙げたオメガなど、間違いなく即刻退学だ。場合によっては、帝国軍の牢獄に放り込まれるかもしれない。
冷や汗が背中を伝い落ちるのを感じながら、飛燕は倒れているオメガの少年にゆっくりと手を差し伸べた。
「おい、大丈夫か。立てるか」
飛燕の平易な言葉に、少年は信じられないものを見るような目で彼を見上げ、おそるおそるその手を取った。
少年の手が小刻みに震えているのが伝わってくる。
飛燕が少年を立ち上がらせようとした、まさにその時だった。
背筋が凍りつくような、圧倒的な威圧感が突然背後から押し寄せてきた。




