第13話「真っ当な生き方と、隣にある特等席」
天耀学舎の広大な敷地を黄金色に染め上げる秋の夕暮れ。
空気はすっかり乾燥し、吹き抜ける風には冬の足音が微かに混じり始めていた。
学園の象徴である大講堂の前に広がる石畳の広場には、全校生徒が身分や性別の垣根なく集められていた。
ざわめきが波のように広場を満たす中、演壇に立つ一人の青年の姿が、その喧騒を徐々に静寂へと変えていく。
漆黒の豪奢な制服を隙なく着こなした生徒会長、蒼龍だ。
彼から放たれる圧倒的な威圧感と、冬の夜空のように澄み切った冷たい気配は、何千人もの生徒たちを瞬時に釘付けにするだけの絶対的な力を持っていた。
飛燕は演壇の斜め後ろ、生徒会役員が並ぶ席から、その広く頼もしい背中をじっと見つめていた。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打ち、手のひらにはじっとりと嫌な汗が滲んでいる。
「本日は、全校生徒に伝えたい重大な決定事項がある」
蒼龍の声は、魔術的な音響設備を通しているかのように、広場の隅々にまで低く、そして鮮明に響き渡った。
「我々天耀学舎は、長きにわたり身分や性別による理不尽な階級制度を黙認してきた。アルファが特権を貪り、ベータやオメガが虐げられる現状。それは帝国の未来を担う学び舎として、あまりにも恥ずべき腐敗である」
蒼龍の言葉には容赦がない。
痛烈な自己批判とも取れるその宣言に、広場のあちこちで息を呑む音が聞こえた。
保守的な貴族の生徒たちの顔色が変わるのが、遠目からでもはっきりとわかる。
「俺は生徒会長として、この腐りきった慣習を根本から破壊する。実力と志ある者だけが正当に評価される、真の天耀学舎へと生まれ変わらせる」
堂々たる改革の宣言。
それは、旧校舎での襲撃事件以降、蒼龍が水面下で進めてきた計画の総決算であり、帝国全体の古い体制に対する事実上の宣戦布告でもあった。
圧倒的な力を持つアルファの頂点に立つ男が、自らの特権を否定し、弱者の側に立つ。
その矛盾と壮絶な覚悟に、平民やオメガの生徒たちの目に、信じられないものを見るような、しかし確かな希望の光が宿り始めていた。
「そして、この改革を進めるにあたり、俺には生涯をかけて背中を預けるパートナーがいる」
蒼龍の声のトーンが、わずかに、しかし決定的に変化した。
冷徹な響きの中に、隠しきれない深い熱情と、とろけるような甘さが混ざり込む。
飛燕の肩がびくっと大きく跳ねた。
来る。
あの夏の夜、池のほとりで交わした途方もない約束が、今まさに現実のものになろうとしているのだ。
蒼龍は演壇からゆっくりと振り返り、何千もの視線が突き刺さる中で、迷うことなく飛燕に向かって手を差し伸べた。
「飛燕。俺の隣へ来い」
それは命令ではなく、懇願でもない。ただ純粋に、自分の半身を求める魂の叫びだった。
広場が水を打ったように静まり返る。
全員の視線が、華奢なオメガの少年である飛燕に一斉に注がれた。
驚愕、嫉妬、反発、そして純粋な好奇心。
数え切れないほどの感情が入り混じった視線の矢に射抜かれ、飛燕は足がすくみそうになるのを必死でこらえた。
前世の自分なら、こんな目立つ場所からは一目散に逃げ出していただろう。
祖母との約束である「真っ当な生き方」とは、波風を立てず、誰の記憶にも残らないような平穏な人生のはずだった。
だが、今の飛燕の胸にあるのは、恐怖や逃走の衝動ではない。
自分を信じ、必要とし、そして狂おしいほどに愛してくれているこの男の期待に、真っ向から応えたいという強烈な意志だった。
飛燕は深く息を吸い込み、手のひらの汗を制服のズボンで無造作に拭うと、決然と顔を上げた。
「……ああ、わかったよ」
マイクを通していない飛燕の地声は、広場の前列にしか届かなかっただろう。
それでも、飛燕は自分の足でしっかりと地面を踏みしめ、蒼龍の待つ演壇の中央へと歩み出た。
差し出された蒼龍の大きな手を取り、その温もりを強く握り返す。
上質な革手袋越しに伝わってくる脈拍が、重なり合って一つのリズムを刻み始めるのを感じた。
「紹介しよう。彼が俺の唯一の番であり、この学園の未来を共に切り拓く、最も気高きオメガだ」
蒼龍が飛燕の肩を抱き寄せ、全校生徒に向けて誇らしげに宣言した。
直後、広場を包んでいた静寂は、爆発的なざわめきと、一部の生徒たちからの割れんばかりの歓声に包まれた。
反対派の貴族たちが顔を真っ赤にして何かを叫んでいるのが見えたが、その声は圧倒的な熱量を持つ歓声にかき消されていく。
飛燕は頬を熱く染めながらも、逃げることなく真っすぐに前を見据えていた。
『ばあちゃん。俺、たぶん真っ当な生き方からは、だいぶ外れちまったよ』
心の中でそう独り言を言いながら、飛燕は小さく笑った。
『でも、悪い奴らをぶっ飛ばして、困ってる奴らを助けて、俺のことすげえ大事にしてくれる奴の隣で生きていくんだ。これだって、立派な真っ当な人生だよな』
祖母の優しい声が、風に乗って『そうさね』と笑ってくれたような気がした。
「飛燕、顔が赤いぞ。緊張しているのか」
歓声の渦の中で、蒼龍が耳元に顔を寄せて意地悪く囁いた。
アルファ特有の重厚な香りが鼻先をくすぐり、飛燕の背筋に甘い悪寒が走る。
「う、うるせえ。誰のせいでこんな大勢の前で晒し者になってると思ってんだ」
「晒し者ではない。俺の宝物をお披露目しているだけだ」
「そういう恥ずかしいこと、平気な顔で言うのやめろって……」
飛燕が顔を真っ赤にして抗議すると、蒼龍は形の良い唇を弧に描いて、心底嬉しそうに笑った。
その笑顔は、学園の絶対的支配者のものではなく、ただ一人の人間として、愛する者を慈しむためのものだった。
身分も、性別も、前世のしがらみも。
すべてを超越した場所で、二人の魂は確かに結びついていた。
夕日が沈みかけ、長く伸びた二人の影が、石畳の上で一つに重なり合う。
学園の改革はこれからが本番であり、前途には数え切れないほどの困難が待ち受けているだろう。
だが、この過保護で不器用な絶対君主と、規格外の力と真っすぐな心を持つ元不良のオメガ。
この二人が背中を預け合う限り、どんな理不尽も、どんな古い壁も、必ず打ち砕いていける。
飛燕は蒼龍の温かい体温に寄り添いながら、これから始まる騒がしくも愛おしい日々に思いを馳せ、静かに目を閉じた。
二度目の人生で見つけた特等席は、少し窮屈で、照れくさくて、そして何よりも温かかった。




