第5話 十秒の底、あるいは継承される真眼
【残響のスープ、消えぬ鉄錆の味】
窓から差し込む、透明な朝日。
ふかふかのベッドの上で、エレナは深く重い眠りから目を覚ました。
昨日、戦場から帰還した後、彼女は泥を落とす気力さえないまま深い眠りに落ちていた。
身支度を整え、局内の端にある小さな食卓につく。
隣には、同じく一睡もできなかったであろうリリィが、幽霊のような青白い顔で座っていた。
用意されたのは、温かいじゃがいものスープと固めの白パン。
湯気とともに漂う香ばしい匂いに、エレナは思わず鼻をひくつかせた。
だが、次の瞬間。
「…………っ」
立ち上る湯気の奥に、昨日の「血のにおい」が不意に混じった気がした。
焦げた肉の臭気、泥に混じった鉄の錆。
昨日の戦場で吸い込み続けた、あの圧倒的な情景が蘇り、胃の奥を不快に揺さぶる。
スープを一口運ぶが、味は驚くほど淡白に感じられた。
エリックという名の青年の最期を、たった十秒で確定した自分の指先の感覚だけが、嫌に生々しく残っている。
「……先輩」
リリィが、震える手でスプーンを置いた。
琥珀色の瞳は光を失い、溢れそうな涙を必死にこらえている。
「私……もう、お仕事できません。あんなの、魂の査察じゃなくて、ただの……ただのゴミ処理みたいだった。あんなにたくさんの人が死んで、それを十秒で片付けるなんて、私には……」
「リリィ……」
「ごめんなさい。今日はもう、お庭で日向ぼっこしてます。お日様の光を浴びてないと、心が真っ黒に溶けて消えちゃいそうなんです……。すみません、お先に行きますね」
リリィは一口もスープをつけないまま、ふらふらとした足取りで食堂を後にした。
残されたエレナは、彼女の分まで冷めていくスープを見つめ、そっと拳を握りしめる。
「……いつまでも、甘えていられないわ」
エレナは無理やりパンを噛みしめ、胃に流し込んだ。
昨日、自分とヴィクトールたちの間にあった、あの決定的な差。
それを見極めない限り、自分はいつまでも「石板の付属品」のままだ。
彼女は空になった皿を片付けると、迷いのない足取りで師匠のもとへと向かった。
【魂を喰らう石板、フリントのあざ笑い】
食堂の奥、バシュタールは古めかしい石板を磨き上げていた。
彼が愛用するその石板は、エレナの持つ「グラファイト」よりも一回り大きく、表面には幾千もの傷が刻まれている。
「おや、嬢ちゃん。随分と気合の入った顔をしてるじゃねえか」
エレナは両手をぎゅっと握りしめ、食い入るような真剣な眼差しでバシュタールに詰め寄った。
その必死な気迫に、バシュタールは僅かに圧倒されたように眉を上げる。
「……バシュタールさん。お願い、教えてください。あの短時間で、どうやって魂の本質を見抜いているんですか?」
エレナの切実な問いに、バシュタールは磨く手を止め、不敵な笑みを浮かべた。
彼は自分の石板をエレナの目の前に突き出す。
「いいか、エレナ。石板ってのは、ただの記録媒体じゃねえ。こいつは死神の目に同期する『もう一つの脳』だ。お前さんの石板……グラファイトだったか? そいつはまだ、人間を視た数が少なすぎる」
「石板が……視た数?」
「そうだ。石板は数多の人生を垣間見ることで、そのパターンを学習し、性能を上げていく。俺の石板がこの渋い銀色に光るまで、俺が何万人の絶望と歓喜を吸わせてきたと思う?」
バシュタールが石板を軽く叩くと、鈍く重厚な光が溢れ、その表面に荒々しいルーン文字が浮かび上がった。
『――そうさ。俺様はバシュタールと何万という奴らの魂を見てきたぜ。グラファイト、お前さんとは年季が違うのよ』
バシュタールの相棒である石板『フリント』が、しゃがれた電子音と共に誇らしげな光を明滅させて割り込む。
『お言葉ですがフリントさん。僕たちは同じ魂の石板、製造された時から完璧な知能が備えられています。不足などありません』
グラファイトがどこか不満げに、冷静な反論を返す。
しかし、フリントは鼻で笑うように表面の光を弾かせた。
『ちっ! 甘いなぁ。経験を侮るな。たくさんの奴らを見ることで、今まで見えなかったことが見えるようにもなるのさ。それはインストールされた「知能」だけでは到達できねえ領域なんだよ』
「……フリントの言う通りだ」
バシュタールが愉快そうに笑い、エレナを真っ直ぐに見据える。
「多くの人生を見せてやれ。そうすれば、最初のスキャンで弾き出される『診断結果』の精度が上がる。道具を使いこなすんじゃねえ。道具を『育てて』、お前自身の身体の一部にするんだよ」
バシュタールの荒々しい、だが職人的な助言。
エレナはその言葉を噛み締めながら、自身の石板、グラファイトにそっと触れた。
まだ青白く若い光を放つ相棒は、主人の決意に応えるように、フリントの言葉を反芻するように小さく震えた。
【外殻の雄弁、クォーツの炯眼】
続いてエレナが訪れたのは、局のメインオフィスだった。
ヴィクトールは既に今朝一番の出張を終えたらしく、銀縁眼鏡を押し上げながら、いくつもの査定録を中央システムへ転送している最中だった。
「……ヴィクトール」
「なんだ。報告書の内容に異議でもあるのか」
「……いえ。昨日、あなたが確定させたあの小隊長。どうして、あの一瞬で彼が『農家出身の、利発な小隊長』だと分かったのか……それを聞きに来たの」
ヴィクトールは作業の手を止め、初めてエレナを正面から見据えた。
彼の冷徹な瞳が、まるでスキャナーのようにエレナの全身をなぞる。
「エレナ、貴様は『魂の内部』を見ようとしすぎる。だが、魂は肉体に嘘をつけない」
ヴィクトールは昨日のログの一部を空中ディスプレイに投影した。
『――補足いたします。亡くなった人の姿、その場所、装備のすり減り方、すべてを観察しましょう。人生はその外見にこそ雄弁に刻まれております』
ヴィクトールの傍らで、磨き抜かれた黒いモノリスのような石板『クォーツ』が、冷静な女性秘書を思わせる透き通った声で告げた。
ヴィクトールはクォーツの言葉を肯定するように頷き、映像の一点を指し示す。
「クォーツの言う通りだ。見ろ、この兵士の死体を。服装は支給品だが、袖口の補強の仕方が農民特有の結び方だ。さらに指のタコを見ろ。これは剣を握ってできるものではない。彼は鍬を持ち、年中土を耕してきたのがわかる。それなのに、周囲には彼を慕って折り重なるように倒れた部下たちがいた」
エレナは息を呑んだ。
自分見落としていた、あまりにも多くの「情報の欠片」。
「石板に潜る前に、まずは自分の『真眼』でその男を読め。十秒あれば、外見から八割の真実を引き出せる。残りの二秒で、魂の奥底に触れろ。……これが、効率的な『深掘り』の方法だ」
ヴィクトールは再びディスプレイに向き直り、突き放すように言った。
「これは、という人にこそ時間を割け。それ以外を瞬時に捌くのは、その『一人の真実』を守るための義務だ」
【鉄面皮の赤ら顔、不器用な灯火】
バシュタールの「道具の進化」と、ヴィクトールの「観察の極致」。
二人の先輩の助言は、正反対でありながら、一つの真理へと繋がっていた。
『……補足しますがエレナ。さっきクォーツの言葉に何も言えなかったのは、適切な言葉が思いつかなかっただけで、決して彼女にビビったわけじゃありませんからね』
「はいはい、わかったわよ。……ヴィクトール、助言ありがとう。それじゃ、行ってくるわ」
エレナはグラファイトの必死な言い訳を雑に受け流すと、ヴィクトールに短く感謝を伝え、背を向けた。
オフィスを後にしながら、エレナは自分の手をじっと見つめた。
十秒は、決して短い時間ではない。
その十秒をどう使うか。
自分の「眼」を研ぎ澄まし、石板とともに成長していく。
「……グラファイト、行くわよ」
『了解しました、エレナ。……学習モード、スタンバイ。次の査定に向けて、システムの最適化を開始します』
エレナの赤い瞳には、昨日までの迷いは消えていた。
彼女は新たな出動命令が刻まれた石板を握り締め、再び現世へと繋がる転移の門へと向かって、力強く歩き出した。
その背中が角を曲がり、足音が遠のく。
それを静かに見送っていたヴィクトールの口元に、かすかに、だが確かな笑みが浮かんだ。
「ヴィクトール《《先輩》》。鉄面皮のお前には珍しく優しいじゃないか。どういう風の吹き回しだい?」
不意に横から響いた野太い声に、ヴィクトールの肩が僅かに跳ねた。
見れば、腕を組んだバシュタールがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて立っている。
「……馬鹿を言え! 仕事の質の向上に真剣な、後輩の面倒を見るのは先輩の務めだ。何もおかしいことはない。失礼する」
『――補足いたします。我が主は大変後輩思いです。誤解なきよう』
石板のクォーツが淡々と、だが逃げ場をふさぐような完璧なタイミングで補足を加える。
思わぬ相棒の追撃に、ヴィクトールは「なっ……!?」と目を見開き、あやうく手に持った彼女を取り落としそうになる。
彼は激しい咳払いで動揺を強引に塗りつぶすと、石板を不自然な高さまで掲げて顔を覆い隠し、足早にその場を去ろうとした。
バシュタールからの視線を遮り、頬に浮かんだかすかな赤みを見られまいとする、彼なりの不器用な防御だった。
「あ、そうだ。庭でしょげた顔でひなたぼっこしている、リリィにも声をかけてやんなよ」
『頼むぜ、ヴィクトールの旦那。クォーツもなんか言ってやれよ』
追い打ちをかけるバシュタールとフリントの言葉を背中に受けながら、ヴィクトールは逃げるように廊下の奥へと去っていく。
ニヤニヤと笑い続ける古参査察官と石板をよそに、ヴィクトールは顔の前の石板をさらに高く持ち上げ、足早に立ち去っていった。




