第4話 数という暴力、ぬかるみの十五分
【鉄錆の地平、四百の彷徨】
転移の光が収まった瞬間、エレナの鼻腔を灼いたのは、焦げた肉の臭気と鉄錆の混じった、生々しい「血」のにおいだった。
つい数分前まで、バシュタールの食堂でレンズ豆の温かさに浸っていたのが、遠い前世の出来事のように感じられる。
目の前に広がるのは、王国同士の国境沿いにある名もなき平原。
かつては草がたなびく美しい場所だったであろうそこは今、深い泥と無数の鉄くず、および動かなくなった数百の戦死者に埋め尽くされていた。
王国同士の、よくある小規模な小競り合い。
歴史の教科書にすら一行も残らない、名もなき国境紛争の成れの果てだ。
「……嘘、でしょ」
エレナの傍らで、リリィが絶句する。
琥珀色の瞳は恐怖に震え、一本跳ねた寝癖さえもその場の重圧に萎れているようだった。
空には厚く重い雲が垂れ込め、その隙間から、無数の青白い光が揺らめきながら立ち上っている。
それは肉体を離れたばかりの、未査定の魂たち。
その数、およそ四百。
「感傷に浸る時間は与えられていない」
ヴィクトールの冷徹な声が、戦場の静寂を切り裂いた。
『匕ャッハー! 見渡す限り、魂の草刈り場だぜ!』
バシュタールの石板『フリント』が、凄惨な光景を喜ぶかのように下卑たルーンを明滅させた。
それに続くように、他の石板たちも一斉に意志を放ち始める。
『ヴィクトール様、ここは最高効率で駆け抜けましょう』
ヴィクトールの傍らで、黒いモノリスのような『クォーツ』が冷静な電子音を響かせる。
『リリィ、魂がいっぱいだよ、いっぱいお勉強できるねぇ!』
リリィの石板『マイカ』が、主人の幼さを映したような無邪気な光を放つ。
『エレナ、この中で最高の魂を見つけ出すのが、僕たちの役割でしょう?』
そしてグラファイトが、エレナの赤い瞳に応えるように、静かな、だが確信に満ちた言葉を紡いだ。
ヴィクトールは、そんなかしましい石板たちには目もくれず、流れるような手つきで空間をスキャンし始めている。
アッシュグレーの髪を一筋たりとも乱すことなく、銀縁眼鏡の奥の瞳には、死を哀れむ気持ちではなく、処理すべき膨大なタスクへの計算だけが宿っていた。
「四人で手分けして裁いていくぞ。バシュタールは右翼、私は中央を進む。リリィは私の隣に立ち左側を担当しろ。エレナ、貴様は左端だ」
迷いのない指揮。
ヴィクトールは一度だけエレナを鋭く見つめ、冷たく告げた。
「いいか? 魂の消失まで残された時間は十五分だ。一人たりとも取りこぼすな」
【十秒のさばき、砕かれる誇り】
エレナは泥を蹴って走り出す。
その瞬間、傍らで浮遊するグラファイトが鋭い警告音を鳴らした。
『エレナ、警告です。あなたの担当エリア、左翼端の未査定個体数は約八十。制限時間十五分から算出した、一人当たりの査定猶予は――わずか十一秒強。端数を切り捨てれば、十秒しかありません』
「ええ……!? たった、十秒……!?」
絶望的な数字を突きつけられ、エレナは頭が真っ白になる。
一人ひとりの人生を掘り起こすのに、十秒で何ができるというのか。
それでも、立ち止まることは許されない。
彼女は吐き気をこらえ、すぐ近くに横たわる若い兵士の傍らに膝をついた。
震える手で石板をかざす。
「グラファイト、スキャン開始!」
いつものように、エレナは若い兵士の人生を調べ始める。
槍で突き抜かれる最後の瞬間から、早戻しのように映像が巻き戻されていく。
泥にまみれた初陣、故郷での別れ、それら「彼だけの物語」を必死に掬い取ろうとする。
しかし――
『エレナ、時間です。確定してください』
脳内の映像が強制的にシャットダウンされる。
「……確定、します」
結局、グラファイトがスキャンした無機質な内容をそのまま追認することしかできなかった。
彼という人間が何を感じ、誰を愛したのか。
それを掘り起こす猶予すら、今の彼女には与えられていない。
次の遺体に石板をかざしてスキャンし、確定する。
またその次へ。
エレナはこれまでの自分のやり方がすべて否定され、自分が石板の付属品にでもなったかのような錯覚を覚え始める。
彼女の目に、涙の粒が浮かび始める。
「エレナ、足を止めるな! 遅れはじめているぞ!」
ヴィクトールの容赦ない叱咤の声が、エレナの耳に叩きつけられる。
『――補足いたします。エレナ様、リリィ様の作業が想定より遅れています。ヴィクトール様、バシュタール様、フォローに入れるよう心がけてください』
クォーツの淡々とした、だが冷酷なほど正確な現状分析が、焦るエレナの心にさらなる追い打ちをかける。
エレナは目を大きく見開き、改めて気合を入れた。
今は、今だけはできることをやるしかない。
そう自分に言い聞かせて、ぬかるみの中へ、再びその身を投じた。
【ぬかるみの連帯、亡霊への防波堤】
「こんなのやだ、助けて……っ!」
隣からリリィの悲鳴が上がった。
血泥にへたり込み、石板を抱えたまま泣き崩れている。
『リリィ、目を開けて。リリィの助けが必要な魂が目の前にいるよ』
彼女の腕の中で、マイカが必死に、震えるような光を放ちながら呼びかける。
理不尽な死の山を前に、まだ若い彼女の心は限界を迎えていた。
エレナは駆け寄り、その泥だらけの肩を強く抱き寄せた。
「……そうね、わかるわ。リリィ」
震える声を抑え、エレナは後輩の目を見つめて説いた。
「でも、今はできることをやりましょう。査定を終えなければ、彼らは亡霊となって彷徨い、魔物や悪魔へと堕ちてしまう。救われぬ魂にするわけにはいかないのよ」
「……あ、先輩……」
「泣くのは、全部終わってから。今は一秒でも早く、彼らの『出口』を作ってあげて」
赤い瞳に宿る意志が、リリィの絶望を繋ぎ止める。
リリィは袖で涙を拭い、再び石板を起動させた。
「はい、先輩。リリィ、頑張ります!」
彼女は再び泥を跳ね飛ばし、亡骸へと駆け寄る。
二人の死神は涙をこらえ、凄惨な「作業」へと戻っていった。
『このまま勢いで行っちまうぜバリバリバリー!』
フリントがさらに出力を上げ、戦場を光の矢のように駆け抜ける。
『ヴィクトール様、残りの時間を全速力で駆け抜けます。心拍数をモニターしておりますので、ご安心ください』
クォーツもまた、主人の心拍と疲労度を冷徹に監視しながら、選別の速度を極限まで引き上げていった。
【無言の救済、プロフェッショナルの背中】
十五分。
その短くも永遠のような時間が、ついに終わりを告げた。
空を埋め尽くしていた青白い光の粒が、最後の一つまで消え去る。
戦場に唯一残ったのは、魂の抜けた冷たい肉体の山と、死神たちの荒い呼吸だけだった。
ぬかるみのなか、四人の死神がゆっくりと中央に集まってくる。
エレナは力なく立ち尽くしていた。
彼女とリリィの持ち場には、まだいくつかの遺体が残されていたが、それらの魂は霧散する直前にヴィクトールとバシュタールによって強引に「処理」されていた。
二人のベテランが、若手たちの遅れを完璧にカバーしたのだ。
「……すまない、ヴィクトール、バシュタールさん。私が、至らないばかりに」
エレナが顔を伏せて絞り出すように言う。
石板の付属品に成り下がったような屈辱と、それでも救いきれなかったという無力感が、彼女の胸を締め付ける。
『本当だぜ。俺とクォーツがいなかったら危ないところだった』
バシュタールの石板『フリント』が、労いも何もなく、容赦ないツッコミを入れた。
『結果として、消失はゼロ。ミッションクリアです』
続いてクォーツが、機械的な冷徹さで全体を完璧にまとめ上げた。
「……謝罪は不要だ。クォーツの言う通り、結果としてロストはゼロ。査察官としての最低限の任務は遂行された」
ヴィクトールは懐中時計をパチンと閉じ、一筋の乱れもない アッシュグレーの髪をなぞった。
彼の眼鏡には、もはや感情の欠片も映っていない。
「役目ご苦労。……このような場所に長居は用はない。魂のない肉体に、我々の用はない」
バシュタールが、無言でエレナの肩に大きな手を置いた。
そのすり切れた外套からは、幾千の死を乗り越えてきた男特有の、重く乾いた匂いがした。
「戻ろうぜ。ここにはもう、風しか吹いちゃいねえ」
バシュタールの低い声が、戦場の静寂に溶けていく。
ヴィクトールが空間を指先で弾くと、再び転移の光が四人を包み込んだ。
一瞬の後、視界から泥と血の匂いが消え失せる。
戻ってきたのは、高価なインクと古い紙の匂いが漂う、無機質で静かな「魂の査察局」だった。
【残酷なる集計、虚ろな廊下の灯火】
冷たい空気のなか、四人はそれぞれ受付の端末へと向かい、淡々と結果を転送していく。
クリスタルのスロットに石板をかざすと、吸い込まれるようにデータが移動していく。
数十名の、名もなき人々の人生。
彼らがかつて愛し、戦い、泥にまみれて絶命したそのすべてが、一瞬のパルスとなって電子の海へ消えていく。
あまりにも、軽すぎる。
エレナは、自分の指先から吸い出されていく光を見つめ、目の前が暗くなるような感覚に陥った。
エリックという農家の三男も、名前さえ読み上げられなかった他の若者たちも、今はただの数字と、効率的な処理結果としてしか存在していない。
一人の魂の「真実」を掘り起こすことに命をかけてきた彼女にとって、この光景は魂そのものを汚されるような冒涜に思えた。
その時。
エレナは、端末の傍らに表示された集計ログの数値に目を止め、息を呑んだ。
自分とリリィの査定結果は、そのすべてが「Cランク」――石板が最初にスキャンしたデフォルトの判定のまま、一分の狂いもなく処理されていた。
時間に追われ、ただ「確定」ボタンを押すだけの機械に成り下がっていた自分たちの限界が、そこには無機質な記号となって並んでいた。
だが、ヴィクトールとバシュタールのログは違った。
あの凄まじい速度で魂を捌きながら、彼らは時折、Bランク、およびAランクという、価値ある人生の輝きをその手で紡ぎ出していたのだ。
特に, ヴィクトールが確定させた一人の青年。
彼は農民出身でありながら、その利発な物言いに才を見出され、若くして小隊長を任されていた優秀な指揮官だった。
本来なら「戦死した兵士の一人」として埋もれるはずだった彼の価値を、ヴィクトールはあのわずか数秒の査定の中で見抜き、その栄誉を永遠の記録へと刻み込んでいた。
「…………っ」
エレナの指先が、かすかに震える。
自分は「向き合うこと」を盾にして、結局は彼らの表面をなぞることさえできていなかった。
冷徹に効率を求めていると思っていたヴィクトールこそが、あの地獄のような戦場で、エレナよりもずっと鋭く、深く、魂の真実を射抜いていたのだ。
「……これで、終わりなんですか」
エレナの独白が、虚ろな廊下に消えようとしたその時だった。
「皆、さすがに疲れているようだな」
ヴィクトールの、いつもと変わらぬ、だがどこか棘の取れた声が響いた。
彼は眼鏡を押し上げ、エレナとリリィを正面から見据える。
「エレナとリリィはもう休め。後は私とバシュタールで対応する」
「しゃーねーな。嬢ちゃんたち。ゆっくりおねんねするんだぞ」
バシュタールが豪快に、それでいて気遣うように二人の背中を軽く叩いた。
『フリントさん、クォーツさん、頑張ってねー。バイバーイ!』
リリィの腕の中でマイカが能天気に光を明滅させ、ベテラン石板たちに別れを告げる。
『エレナ、あなたは極度に疲労しています。ここはしっかり休みましょう』
グラファイトもまた、主人の体調を案じるように静かなトーンで言葉を添えた。
日頃は騒がしいはずの少女たちが、ただ静かにその言葉を噛み締め、沈黙する。
ベテラン二人の優しい言葉だけが、ひんやりとした役所の廊下に、いつまでも温かな余韻を残していた。
【次回予告】
戦場の絶望に打ちひしがれるエレナとリリィ。
そんな二人を導くのは、頼れる先輩たちの不器用な優しさ!?
あの冷徹なヴィクトール先輩が、
有能秘書AIに「後輩思い」を暴露されて真っ赤に!?
石板で顔を隠す激レアなツンデレ姿は必見です!
次回、第5話。
立ち上がるバディたちをお楽しみに!




