第2話 帰還、あるいは記録の余白
【あぜ道の相棒】
黄金色の海を背に、エレナは村外れのあぜ道を一人進んでいく。
時折吹き抜ける柔らかな風が、彼女の鮮やかなピンクのストレートヘアを優しく揺らし、あたり一面の小麦畑からは、穂と穂が触れ合うサラサラとした涼やかな音がさざ波のように聞こえてくる。
迫る夕闇。
足元の影が長く伸びるその傍らには、意思を持つ黒い石板――グラファイトが、主の歩調に合わせるようにふわりふわりと浮遊を続けている。
「……ねえエレナ。さっきの沈黙、気づきました? 僕の完璧なまでの『空気読み』。あれ、なかなかのファインプレーだったと思いません?」
石板の表面に、言葉に合わせて波形のような光が明滅する。
先ほどまでの無機質な記録装置とは思えない、どこか軽薄で自信たっぷりな響きだ。
「……何のことよ」
「とぼけないでください。あの農夫――ヨハンとあなたの感動的な対話の間、僕は余計な記録更新のアナウンスを一切挟まなかった。おかげで彼は安らかに逝けた。そうでしょう?」
エレナは足を止め、怪訝そうな眼差しをグラファイトに向ける。
だが、グラファイトは構わずおしゃべりを続けていく。
「最小のエネルギー効率にして最大限の利得。査察官のパートナーとして、褒められてしかるべき対応だと思うんですよね! さあ、もっと心の底から褒めてください!」
エレナは再び歩き出し、ぶっきらぼうに言葉を投げる。
「はいはい、偉かったわね。おかげで私も査察に集中できたわ。……これで満足?」
「ふふん、その言葉を待っていました。まあ、あなたの赤い目を見れば、どれだけ心揺さぶられていたかはひと目でわかりますけどね」
エレナは反射的に、グラファイトからの無機質な視線を遮るように目元をこすろうとしたが、途中でその手を止める。
デリカシーの欠片も持ち合わせていないこの機械相手に、今さら隠し立てをしても無駄なことだと思い直してのことだ。
「うるさいわね。まぶしかっただけだって言ったでしょ」
エレナが顔を背けて早足になると、グラファイトは「やれやれ」とでも言うように空中を一回転してみせた。
【死神の空腹と完璧な知能】
その時。
静かなあぜ道に、およそ死神の威厳とは程遠い、可愛らしくも切実な「ぐぅ〜……」という音が響き渡る。
「…………」
ピタリと止まるエレナの足。
彼女の頬は、夕焼けの色を塗りつぶすほどの鮮やかな朱に染まっていく。
沈黙。
それはヨハンの最期に見せたものよりも、ある種、重苦しい静寂であった。
「おや」
グラファイトが空気を読まずに、その明滅を強める。
「エレナ、今の音響現象は、あなたの消化器官が活動限界を迎えたことによる物理的な抗議ですね? つまり、空腹というやつだ」
「……黙ってて」
顔を伏せ、早歩きでその場を去ろうとするエレナ。
しかし、浮遊する石板は軽快に彼女を追い越し、先回りをする。
「この地域はあたり一面、でんぷん豊富な種子を蓄えたイネ科の植物が無数に生えている。ちょっと刈り取ってパンでも焼いてみるかい? 腹の虫も静まるというものですよ」
「グラフ、人のものは取っちゃダメなのよ。あなた、学校で習わなかったの?」
「僕は『バビロンBC1900型』。個体名グラファイト。製造された瞬間から完璧な知能をインストールされています。しかし残念ながら、人間の世界の『マナー』とかいう非合理的なルールについては何も記録されていません。どこにも存在しませんよ」
エレナは立ち止まり、あきれたように相棒を見上げる。
「完璧な知能が聞いて呆れるわね。……じゃあ、私の行動から学ぶのね。それがパートナーとしての義務よ」
「……いいでしょう、そうさせてもらうよ」
グラファイトはどこか満足げに、エレナの肩の高さまで位置を下げた。
【秘匿された独白】
エレナが再び前を見据えて歩き出したその背後で、グラファイトの表面に、公的な記録とは異なる微細なルーン文字が高速で刻まれていく。
それは、ヨハンが息を引き取る直前、言葉にならなかった残留思念――――
……ああ、あの娘のことか。
最初に見たときはな、正直に言うと……死神にしちゃあ、ずいぶんとまぶしいと思ったよ。
黒い格好をしているのに、不思議と暗くない。
窓から差す西陽よりも、あの娘のほうがはっきりと輪郭を持って見えた。
髪は、まるで夕焼けに溶け残った桜みたいな色でな。
この辺境じゃ、あんな色は見たこともない。
けれどな、いちばん印象に残ったのは、目だ。
赤い瞳。
あれは炎だと思った。
怒りでもない、冷酷でもない。
……諦めない火だ。
最初は怖かったさ。
石板を出して、俺の人生を「査定」するなんて言うんだから。
「功績なし」
そう言われても、まあ仕方ねえと思ったよ。
俺は畑を耕してただけの男だ。
モロに食らったさ。
だがな、あの娘は、それで終わらせなかった。
眉を寄せて、不愉快そうにして、石板のほうを信用していない顔をしていた。
死神が、記録を疑うなんてな。
あのとき、少し可笑しくなった。
手を握られたときのことは、よく覚えている。
冷たいと思ったのは最初だけだ。
不思議と、じんわりと温もりがあった。
あの娘は、ただ仕事をしている顔じゃなかった。
……探していたんだよ。
俺の中から、何かを。
それも必死に。
まるで、自分のことみたいにな。
俺が「石ころだ」と言ったとき、あの娘はすぐ否定した。
即座だった。
あれはな、あらかじめ決めていた言葉じゃない。
腹の底から出た言葉だ。
……きっと、あの娘は何度も見てきたんだろう。
自分を小さくする人間を。
そして、そのたびに腹を立ててきたんだ。
涙をこらえる仕草も見えたよ。
隠すのが下手だ。
査察官だか何だか知らんが、感情を捨てきれていない。
だがな。
あれは弱さじゃない。
あの娘は――優しいから涙を流すんじゃない。
悔しいから流すんだ。
価値が埋もれることが、許せないんだ。
最後に、俺を英雄なんて呼んだ。
石ころの英雄、だと。
……あれは褒め言葉かどうか分からんがな。
だが、あの娘が言うなら、悪くないと思えた。
死神に迎えられるのが怖くなかったのは、きっとあの娘のせいだ。
黒い衣を着ているくせに、あの娘は、どこか春の匂いがした。
ああ。
もしあの娘が、これからも誰かの最期に立ち会うなら、どうか忘れないでほしい。
自分の目で見て、自分で決めたことを。
石板なんぞに任せるな。
あの炎のような目が曇ったら、それこそ、この世が少し寂しくなる。
……まあ、死んだ俺が言うことじゃないがな。
くくっ。
いい死神だったよ。
少し、まぶしすぎたがな。
――――エレナにも聞こえなかった、魂の最期の叫び。
(記録番号017……ヨハンの最期の思いは、彼の平凡な魂からは考えられないほど力強いものでした。
……ふむ、人の魂のあり方とは、実に予測不能なものですね)
「先ほどの農夫の魂から、興味深い記録が得られたよ。効率的な行動だけからは、決して生まれない結果だ。……エレナ、君は錬金術師か何かかい?」
不意に聞こえてきたグラファイトの揶揄するような声に、エレナはわずかに眉を寄せ、口を尖らせる。
「なぁによ、グラフ。私が寄り道してばかりだって言いたいの?」
「いいえ。これでも、褒めているんですよ」
グラファイトは、その「余白の記録」を誰にも見られないフォルダの奥深くに格納し、何食わぬ顔で主の隣へと戻った。
【死神たちの役所】
空間が歪み、たどり着いたのは現世と冥界の狭間に位置する「魂の査察局」である。
高い天井、延々と続く書架。
絶え間なく響く羽ペンの音。
現世の官公庁を思わせる、冷徹で効率的な空間だ。
「あら、エレナ先輩! お帰りなさいませ!」
エントランスに入るなり、元気な声と共に飛び出してきたのは後輩の査察官、リリィであった。
淡いミントグリーンのショートボブを揺らし、真新しい制服の裾を翻しながら駆け寄ってくる。
頭の頂点には一本、寝癖がピョンと跳ねている。
琥珀色の丸い瞳は、常にキラキラと輝いている。
エレナに憧れてこの部署を志願した彼女は、メモ帳を抱えて期待に満ちた表情を見せる。
「お疲れ様です、リリィ。……そんなに詰め寄らないで」
「だって、あの『石ころ』判定だった案件を、わざわざ現地調査に行ったんですよね!? どんな隠れた大罪があったんですか? それとも、伝説の秘宝の隠し場所とか!?」
「……そんなんじゃないわよ。ただの、農夫の……」
エレナが言い淀んだ時、背後から冷ややかな声が響く。
「また時間を浪費してきたようだな、エレナ」
カチリ、と懐中時計を閉じる音。
完璧な三つ揃いのスーツをまとった先輩査察官、ヴィクトールの姿がそこにあった。
アッシュグレーの髪を隙なくオールバックに固め、細い銀縁の眼鏡をかけている。
その目元には、かすかにクマが影を落としている。
「ヴィクトール……」
「石板の初期判定は『特筆事項なし』。それを現地で何時間もかけて覆したと聞いたが。非効率極まりない。我々の仕事は救済ではない、ただの選別だ。……ふん、相変わらず目が赤い。また情に流されたか?」
「……まぶしかっただけよ。みんな、揃いも揃って同じこと言わないで」
エレナはぷいと顔をそらす。
リリィはそんなエレナの反応を「さすが先輩、慈悲深い……!」と勝手に解釈してメモを走らせ、ヴィクトールは呆れたように肩をすくめる。
グラファイトだけが、主の横で楽しそうに揺れていた。
この役所の誰も知らない「ヨハンの真実」を、その身に秘めたまま。
【次回予告】
見事【Sランク】を叩き出したエレナ!
しかし感動の空気は、またしても盛大な「腹の虫」にかき消され……!?
逃げた先の食堂では、ワイルドな赤毛の先輩死神・バシュタールが絶品手料理でお出迎え。
お腹を満たしたのも束の間、不吉なサイレンが鳴り響き!?
次回、第3話。
お楽しみに!




