霧の奥の足音
霧の奥の足音
十月末、紅葉が谷を赤く染める頃。写真家の田島は、夜明け前の上高地に立っていた。梓川の流れは音を失い、薄靄の奥に穂高岳の影が浮かんでいる。
この時期に一人で撮影に入る者はいない。観光客も宿の灯も、すでに遠い。だが、田島は一枚の写真に執着していた。去年ここで消息を絶った友人のカメラマン、森川が残した最後の言葉――「朝霧の奥、もう一人の俺がいた」。
川沿いの遊歩道を進むと、砂利の下から湿った音がした。誰かが歩いたような新しい足跡。靴底の模様は、田島のものと同じ登山靴の跡だ。
心臓がひとつ跳ねる。まさか、森川が……?
霧の流れに影がひとつ現れた。田島はカメラを構える。望遠の先、岩の上に立つ人影は自分と同じ姿、同じジャケットを着ていた。
息を呑む間もなく、影は動き出す。足音が近づく。鏡の中から出てくるようにもう一人の田島が現れた。
「やっと来たな」
声も同じだった。
田島は後ずさる。霧が濃くなり、あたりが白く塗りつぶされていく。気がつくと、足元の川は深い淵へと変わっていた。
翌朝、登山道を整備していた係員が、川岸に残る二人分の足跡を見つけたという。どちらも同じ靴底。だが、川から上がった跡はひとつしかなかった。




