2-3 親友・大洗千影
「お待たせいたしました。岬様」
不意に、背後から凛とした声がした。振り返ると、広尾さやが、銀色のトレイを手に立っている。その上には、見覚えのある私のスマートフォンが置かれていた。
「セキュリティ強化、完了しました。通信は全て暗号化され、アメリア連邦国の専用サーバーを経由します。盗聴、ハッキング、位置情報の特定は、いかなる組織をもってしても不可能です。また、緊急時には、このボタンを5秒以上、長押ししたまま、虹彩認証を実施してください」
広尾は、スマホの側面に追加された小さな銀色のボタンを指し示した。
「半径50キロ以内にいる全ての友軍ユニットに、最高レベルの救難信号が発信されます。文字通り、空からでも人が飛んできますので、ご安心を」
「……ありがとうございます」
まるでスパイ映画の小道具だ。私はそれを受け取ると、ゆっくりと電源を入れた。
画面が明るくなると、振動と共に通知の嵐が叩きつけられるように表示された。ロック画面が、瞬く間にSNSやメッセージアプリなど、様々なアプリの通知で埋め尽くされていく。
岬は、それらの通知の中に、見慣れた名前が何度も表示されていることに気づいた。
『岬!?』
『ニュース見た!あれ、あんたでしょ!?』
『生きてるの!?』
『お願いだから返事して!』
『心臓止まるかと思ったんだからね!』
大洗千影。
私にとって、唯一といっていい親友。会社では部署が違ったが、同期入社ということもあり、すぐに意気投合した。
正義感が強く、竹を割ったような性格の彼女は、いつも私のことを気にかけてくれていた。水戸課長のパワハラについても、蘇我智和との歪な関係についても、気兼ねなく相談できた相手だ。
彼女は自分のことのように怒り、何度も「そんな奴、別れちゃいなよ!」「私が殴り込んでやろうか!」と息巻いていた。
そんな彼女に、どれだけ心配をかけたか。
着信履歴は、数えきれないほどの「大洗千影」で埋まっている。胸が、きゅっと痛んだ。
私がこれからやろうとしていることは、彼女のような真っ当な人間が、決して足を踏み入れてはいけない闇の世界だ。彼女を巻き込むわけにはいかない。
でも、何も言わずに消えるなんて、そんな不義理ができるはずもなかった。
私が電話をかけようと画面をタップしようとした瞬間、スマホが再び激しく震えた。ディスプレイに表示されたのは、やはり彼女の名前だった。
覚悟を決めて、通話ボタンをスライドさせる。
「……もしもし」
『岬—————っ!!』
鼓膜が破れるかと思うほどの絶叫だった。それは、安堵と怒りと心配がぐちゃぐちゃに混ざった、魂の叫び。
『よかった……!生きてた……!今どこにいるの!?何があったの!?ニュース見たんだから!あんたが男の人かばって……!心臓止まるかと思った……!』
「千影、落ち着いて。私は大丈夫。怪我もないし、今は安全な場所にいるから」
『安全な場所ってどこよ!なんで警察じゃなくて、黒スーツの外国人たちに連れてかれてんのよ! っていうか、あのイケメン誰!? あんた、いつの間にハリウッドスターと知り合いになったの!?』
矢継ぎ早の質問に、私は苦笑するしかなかった。これが千影だ。パニックになりながらも、決してポイントは外さない。
「ごめん。今は詳しいことは何も話せないんだ。本当に、ごめん」
『……何よ、それ。水臭いじゃない』
声のトーンが、少しだけ拗ねたように変わる。
『まあ、いいけど。あんたが無事なら、今はそれでいい。でも、私は納得してないからね。後で、ちゃんと全部説明しなさいよ。じゃないと、あんたが巻き込まれた事件のこと、独自に調査開始するから』
「……分かった。分かってる」
彼女なら本当にやりかねない。その真っすぐな情熱が、今は少しだけ眩しく、そして怖かった。
「会って話したい。でも、今すぐは無理なんだ。もう少し時間が欲しい」
『……。じゃあ、約束。絶対だからね』
「うん、約束する」
電話の向こうで、千影が大きく息を吐く音が聞こえた。
『はぁ〜……。マジで寿命縮んだ。……無事でよかった』
最後の言葉は、少しだけ震えていた。
その不器用な優しさに、私の目頭も熱くなる。
この繋がりだけは、失くしてはいけない。どんな道を進むことになっても。
「ありがとう千影。また、こっちから連絡する」
千影との通話を終え、スマホの画面を伏せる。張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩んだ気がした。




