2-2 バズる虚像
私が、か弱く無力な契約社員だったのは、ほんの数時間前までのこと。
その事実は、まるで遥か遠い昔話か、赤の他人のゴシップ記事のように、急速に現実味をなくしていた。
広尾さやから身分証を受け取った後、次の部屋に案内された。その部屋は、さながらプライベートなシネコンだった。
壁一面を埋め尽くす巨大なスクリーンには、九分割された世界中のニュースチャンネルが、異なる言語で同じ映像を繰り返し流している。
「……凄いことになってる」
渋谷のスクランブル交差点。降りしきる雨。砕け散るショーウィンドウ。
そして、プラチナブロンドの青年を庇うようにして倒れ込む、コート姿の女――私だ。
「現在、SNS上ではこの女性を“The Girl by Chance”、“偶然の彼女”と呼び、その勇気を称える声が殺到しています。彼女はいったい何者なのでしょうか。専門家の分析によりますと……」
キャスターが神妙な顔で語る隣で、別の画面ではSNSのタイムラインが滝のように流れ落ちていく。
『マジ女神降臨じゃん!カッコよすぎ!』
『この人、何者?一般人なの?』
『特定班はよ!こんな逸材、野に放っておいていいわけがない』
『いや、特定はマズいだろ。狙撃犯に狙われるぞ』
『この反射神経は常人じゃない。もしかしてプロのエージェント……?』
『映画のワンシーンかと思った。ハリウッドは早くスカウトして』
憶測と賞賛、そして下世話な好奇心が渦巻くデジタル世界の奔流。通行人が撮影したであろう、不鮮明で手ブレのひどい動画は、すでに数百万回再生され、ありとあらゆる言語の字幕がつけられて拡散されていた。
動画はスローモーションで再生され、私の動き一つ一つに赤い丸がつけられ、「奇跡のコンマ1秒」「専門家も驚愕の危機回避能力」といった大げさなテロップが踊っている。
私は、ソファに深く身を沈め、渡されたタブレット端末で自分の名前を検索した。
まだ、実名や個人情報が特定されている様子はない。アメリア連邦国の諜報機関が、徹底的な情報統制を敷いているのだろう。
だが、それも時間の問題だろう。この情報化社会において、完全な匿名性など存在しない。
かつての私なら、恐怖で気を失っていたかもしれない。
自分の顔と行動が、世界中の見知らぬ人々の好奇の目に晒され、娯楽として消費されていく。それは、いじめのトラウマを抱える者にとって、悪夢そのものだ。
大勢の冷たい視線が、嘲笑が、悪意が、今度は世界規模になって自分に突き刺さるような感覚。
だが、今の私の心は、奇妙なほど静かだった。
恐怖がないわけではない。けれど、それ以上に強い感情が、私の中で根を張って心を支配していた。
――これはもう、「私」ではない。
画面の中で英雄視されている“偶然の彼女”は、過去の「滝乃川岬」という記号にすぎない。
人々が熱狂しているのは、虚像だ。彼らがその虚像に何を求め、何を語ろうと、今の私には関係ない。
私はもう、他人の評価に怯え、顔色を窺って生きる人間ではないのだから。
むしろ、この状況は好都合ですらあった。
「私の復讐は、白日の下に晒して行う」
そう宣言したのは、私自身だ。
世界中が注目するこの舞台。これ以上のスポットライトがあるだろうか。
復讐の対象者たちが、このニュースを目にした時、何を思うだろう。
あの女が、まさか。
いや、そんなはずはない。
だが、もしそうなら――。
彼らが私を認識し、恐怖し、混乱する。その過程を想像するだけで、腹の底から、暗く冷たい歓喜が込み上げてくるのを感じた。




