2-1 復讐への招待状
大使館の廊下は、深い海の底のように静かだった。厚い絨毯が靴音をすべて吸い込み、壁にかけられた絵画の中の人物だけが、こちらを静かに見つめている。
案内された部屋の重厚なマホガニーの扉が開くと、岬は息を呑んだ。そこは、小さな会議室などという生易しい場所ではなかった。床から天井まで届く本棚、磨き上げられた長大なテーブル、そして窓の外に広がる、手入れの行き届いた日本庭園。
まるで、世界のルールを決めるための部屋。
「どうぞ」
促したのは、広尾さやと名乗る女性だった。短く切りそろえた髪、一切の無駄がないスーツの着こなし、隙の無い所作。品のある笑みをたたえながらも、彼女の視線は、覚悟の純度を値踏みするように、岬を真っ直ぐに捉えていた。
テーブルの上には、黒い革表紙のフォルダーが一つだけ、ぽつんと置かれている。それが、岬の人生の契約書だった。
「改めて自己紹介します。私は広尾さや。あなたの“家族保護プログラム”における現場責任者です」
広尾は抑揚のない声で言うと、フォルダーを開いた。
「最初に、あなたのスマートフォンを一時預からせてください。特別なセキュリティ対策を施すためです。後でお返しします」
岬は一瞬ためらったが、持っていたスマホを差し出した。
考えてみれば、当然なことだ。
形式的とは言え、大統領の家族になるのだ。個人情報の集積端末であるスマホにも、最高レベルの安全保障が備わっていなければならない。
「それでは、“大統領の娘”となるための手続きを開始します。といっても、実質的にやることは三つだけ。第一に、あなたの最終意思確認。第二に、法的保護関係の設定。第三に、あなたの新しい身分を証明するIDカードの発行。——形式上、あなたは大統領の“養女”となる。ですが、その実態は、あらゆる理不尽からあなたを守るための“安全の傘”だとご理解ください」
岬は、乾いた唇を舐めて頷いた。差し出されたグラスの水が、喉を焼くように熱く感じた。
「では、一つ目。滝乃川岬さん。あなたは、自らの自由意志に基づき、この保護プログラムに参加することを望みますか」
問いかけは、ただの事務確認だ。だが、その言葉の重さは、岬の肩にずしりと圧し掛かる。過去の自分を殺し、新しい自分に生まれ変わるための儀式。もう、後戻りはできない。
「……はい」
声が、震えなかったことに安堵する。岬は、広尾の目を真っ直ぐに見返して、言葉を続けた。
「ハルフォードという姓を借りることになっても、私の人生は、私のものですから」
その答えを聞いて、広尾の表情が初めて、ほんのわずかに緩んだ。それは、笑みというより、目の前の兵士が覚悟を決めたことに対する、上官のそれに似た満足感だった。
「二つ目。ここに記載されているのは、あなたに与えられる権利と、あなたが守るべき義務です。“身辺の絶対的安全保障”、“復讐対象に関する情報収集の全面協力”、“証拠保全及び法的支援”。そして——あなたの希望通り、『復讐の公開性の確保』。交渉や取引は、原則として白日の下に晒して行う。よろしいですね」
「はい」
その一言に、水戸課長の顔が、古河達哉の顔が、平泉潤二郎の顔が脳裏をよぎり、すぐに霧散していく。
「三つ目。要人向けの特別な身分証を作成します。名称は“S-REAL-IDカード”。これ一枚で、世界中の公的機関が、あなたを“ハルフォード大統領の家族”として最優先で保護します。では顔写真を撮ります。少し、あごを引いて」
焚かれたストロボの白い光が、一瞬、視界から色を奪った。その光の中で、岬は古い自分が剥がれ落ちていくのを感じた。指紋がスキャンされ、電子パッドに自分の名前を署名する。ペン先が走るカリカリという乾いた音だけが、静寂が満ちた会議室に響いた。
すべての手続きが終わり、しばらく待つと、広尾からカードを手渡された。銀色の縁取りが施された、深く美しい夜空のような藍色のカード。中央には、アメリア連邦国の紋章が見る角度によって姿を変えるホログラムで刻印されている。そして、右下には凛とした書体で刻まれた文字。
《 MISAKI TAKINOGAWA 》
「これが、あなたの新しい名前の傘です」
広尾の言葉と共に差し出されたカードを、岬は震える指で受け取った。ひんやりとしたカードの感触が、これが夢ではないことを実感させる。
——違う。これはただ守られるための傘じゃない。
これは、私が私であるために戦うことを許された、復讐という名の舞台への招待状だ。
岬は、カードに刻まれた紋章を指でなぞる。肩の力は抜けているのに、体の芯には、次第に熱い鉄の杭が打ち込まれたような覚悟が生まれていた。
奴らを終わらせるための、私のための正義の時間が始まろうとしていた。




