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7-5 広尾にまつわる前日譚

 大使館の地下駐車場は薄暗く、ひんやりとした空気が満ちていた。

 岬が乗り込んだのは、窓がすべて防弾ガラスでできている重厚な黒塗りのセダン。運転席には、既に広尾さやが座っていた。


「シートベルトを」

 短く告げると、広尾は滑るように車を発進させた。

 都心の道路は、日曜日とは思えないほど混雑していた。だが、広尾の運転は、まさにプロフェッショナルだった。まるで精密機械のように、車と車の間を縫って、一切の無駄な動きなく進んでいく。


 数分後、表通りから一本入った人通りのない路地で、車が静かに停車した。

「降りてください。 次の車へ」

 路肩には、先ほどまでとは違う、銀色のSUVが音もなく停まっていた。運転手は、顔も知らない大使館のエージェントだ。

 岬が後部座席に乗り込むと、車はすぐに発進した。


 これを、三回繰り返した。

 セダンからSUVへ。SUVから、今度は清掃業者のロゴが入った、目立たない国産の小型バンへ。

 そして最後に乗り込んだのは、後部座席の窓が黒いスモークで覆われた、黒塗りのワンボックスカーだった。


「……すごい徹底ぶりですね」

 ようやく落ち着いた車内で、岬は感嘆の声を漏らした。

「当然です」

 助手席から後部座席に移ってきた広尾が、冷静に答えた。

「相手は、元総理大臣のコネを使えます。 警察内部に協力者がいてもおかしくない。 我々が大使館から直接向かったことがバレれば、どの車両を使ったか、Nシステムのデータから車のナンバーを照合されて、すぐに割り出されてしまいます。 この乗り換えは、追跡を撹乱するための最低限の処置です」


 ワンボックスカーは、西新宿の超高層ビル群へと向かっていく。

 運転席には、無口なエージェントが座っている。後部座席には、岬と広尾だけ。

 重い沈黙が車内を支配する。手持無沙汰になった岬は、ずっと気になっていたことを、意を決して尋ねてみることにした。


「あの、差し支えなければ、お聞きしてもいいですか」

「何でしょう」

「広尾さんは、どうしてアメリアの……エリオットさんのもとで働くことになったんですか?」


 意外な問いに、広尾は驚いたように目を見開いた。だが、すぐにいつもの無表情に戻り、窓の外を流れる景色に視線を移した。


「私は、かつて陸上自衛隊にいました」

 彼女の声は、淡々としていた。

「オリンピックの射撃競技で代表に選ばれた後、その技術を買われ、通常は男性しか参加が許されない、精鋭部隊の訓練課程にオブザーバーとして参加していました。 女性としては異例の抜擢でした」


「すごい……」

「ですが」と広尾は言葉を切った。

「ある国内での大規模な災害派遣任務中、土砂崩れが発生しました。 私の部隊は、二次災害の危険がある区域の最も近くに配置されていました」


 車内の空気が、一層重くなる。

「まだ救助可能な生存者がいる、と私は判断しました。 ですが、現場指揮官だった上官は、政治的な判断を優先しました。現場に視察に来る政治家の警護ルート確保を優先し、私の部隊に『待機』を命じたのです。 私は何度も、人命救助を優先すべきだと進言しましたが、聞き入れられませんでした」


「結果、救助は遅れ、救えたはずの命が失われました。 そして、その上官は保身に走った。 すべての責任を、現場で『命令を無視して勝手に動こうとした』私一人に押し付けたのです。 『広尾の独断行動のせいで、全体の指揮系統が乱れ、結果として救助が遅れた』と、虚偽の報告書が作成されました」


 岬は息を呑んだ。

 星霜フロンティア社で水戸茂や尾張社長がやっていたことと同じ。いや、人命がかかっている分、それ以上に醜悪な組織の論理。


「私は、謂れのない罪で懲戒免職寸前まで追い詰められました。 組織は、将来有望なエリートである上官のキャリアを守り、現場の私を切り捨てようとしたのです。 誤解を恐れずに言えば、岬様が水戸茂にされたことと、少し似た状況でした」

 広尾の拳が、膝の上で固く握りしめられているのを、岬は見た。


「私は不服を申し立て、最後まで戦うつもりでした。 ですが、組織という巨大な壁の前では、一個人の正義など無力でした。 ……その時です」

 広尾の声に、初めて熱がこもった。

「私の無実を信じてくれていた、別部隊の元上官が、当時から日本の防衛省と太いパイプを持っていたエリオット様に、私の窮状を密かに訴えてくれたのです」


「エリオットさんが……」

「はい。 彼は、私のような末端の自衛官のために動いてくださいました。 大使館付きの武官を通じて、防衛省の上層部に正式に情報開示を要求し、災害派遣時のすべての通信記録と活動ログを、第三者機関に再調査させたのです。 そこには、上官の政治的な判断ミスと、私が人命救助を最優先に進言していた記録が、明確に残っていました」


「結果、私への嫌疑は晴れました。 上官は更迭されましたが、組織は不祥事を隠蔽するため、私に『依願退職』という名の口封じを迫りました。 私は、それを受け入れ、自衛隊を去りました。 その後、行く当てのない私を高く評価してくださり、スカウトしてくださったのが、エリオット様なんです」


 広尾は、いったん言葉を切り、岬の目を真っ直ぐに見つめた。

「彼は私の恩人です。 彼のためなら、私はいつでもこの命を捧げる覚悟があります」


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