7-2 最後の保険
ウォー・ルームの重厚な自動ドアが音もなく開くと、そこはすでに戦場だった。
十数名のオペレーターたちが叩き出す無数のキーボードの音だけが、BGMのように響いている。
「おはよう、ミサキ。よく眠れたかい?」
司令官席に深く腰掛け、複数のモニターを監視していたエリオットが、岬の気配に気づいて穏やかに微笑んだ。だが、その目の奥には、徹夜明けのわずかな疲労の色と、油断も慢心もない理知的な光が宿っていた。
「おはようございます。はい、おかげさまで」
岬が自分の席に着くと、エリオットはメインスクリーンを操作した。
画面に映し出されたのは、西新宿のビル群の中でもひときわ異彩を放つ、黒いガラス張りの超高層ビル。先ほど岬がその名を知ったばかりの『新宿古河グラビティタワー』だった。
「君が今から向かおうとしている場所だ」
エリオットの声が、静かな司令室に響く。
「登記情報を確認した。このビルは、古河達哉の伯父である元総理・岸波文男の個人資産管理会社が所有している。表向きは最先端のIT企業が入居するインテリジェントビルだが、最上階の数フロアは、岸波の政治活動と、古河達哉の『ビジネス』のために使われている。いわば、彼らのホームグラウンドだよ」
「……」
「水戸の時とは訳が違う。相手は、この国の権力中枢と、その裏側に広がる闇にまで深く通じている。君は、ドラゴンの巣穴に、たった一人で乗り込もうとしているんだ」
エリオットの言葉に、周囲のオペレーターたちも息を呑む。
岬は、ゴクリと唾を飲んだ。あまり恐怖は感じなかった。むしろ、武者震いに似た高揚感が、背筋を駆け上がっていた。
「承知しています。だからこそ、私が直接行く必要があるんです。彼らの懐に入り込み、古河を、完全に社会から葬り去るため、詐欺の証拠を掴むために」
その揺るぎない答えに、エリオットは満足そうに頷いた。
「分かっている。君なら、そう言うと信じていた。だから、こちらも最高の保険を用意した」
彼はスクリーンを切り替え、一人の日本人男性の顔写真を表示させた。三十代半ばだろうか。鋭い目つきをしているが、同時に人当たりが良さそうにも見える、人混みに紛れればすぐに見失ってしまいそうな、良くも悪くも特徴のない顔だった。
「Sランク信者の一人、『神崎』だ」
「神崎?」
「ああ。彼は、我々が数年前から岸波の周辺を探るために送り込んでいた、DIA(国防情報局)のディープカバー・エージェントだ。コードネームは、スペイン語で「灯台」を意味する『ファロ』」
「……!」
岬は息を呑んだ。Sランクの側近に、すでにスパイが送り込まれていたとは。
エリオットは、真剣な表情で岬を見つめた。
「ファロ……神崎は、君がハルフォード家の保護下にある『ミサキ・タキノガワ』であり、今回の潜入作戦で『荒川未沙』を名乗っていることも、すべて認識している」
「では、会場で彼と……」
「いや」エリオットは、岬の言葉を遮った。
「彼の正体を守ることが最優先だ。彼は、君が絶体絶命の窮地に陥らない限り、向こうから君に接触することは絶対にない。オフ会でも、彼は他のSランク信者と同様に、君を『カモ』として扱う演技を続ける。彼は、あくまで最後の保険だ」
「……」
「万が一、広尾や護衛チームと連絡が取れず、君がはめている指輪も使えない……そんな最悪の事態に陥った場合のみ、彼にだけ分かるサインを伝えてくれ」
「サイン、ですか?」
「ああ」エリオットは、わずかに口元を緩めた。
「僕らが初めて出会った日、父が君に告げた、あのセリフだ」
『 It's time for justice! 』(さあ、正義の時間だ!)
「……!」
「それを、彼の前で言えばいい。第三者が偶然口にする可能性がゼロに近い言葉だ。彼は、それがアメリア連邦国からの『最優先救助要請』だと理解する」
エリオットは、付け加えた。
「まあ、そうなる前に、僕がこの国にいるエージェントや軍を動かすことになるだろうがね。このウォー・ルームの全員が、常時、君の足取りを追っているから」
その言葉の重みに、岬はただ、強く頷くことしかできなかった。




