7-1 新宿に、ひと狩り行こうぜ!
日曜日の朝。
大使館のスイートルームは、まるで時が止まったかのような、深い静寂に包まれていた。外界の喧騒と興奮が嘘のような、絶対的な安全圏。
岬は、キングサイズの広すぎるベッドの上でゆっくりと身を起こした。厚手の遮光カーテンの隙間から差し込む光が、上質な絨毯の上に鋭い一筋の線を描いている。
ベッドサイドのタブレット端末を起動する。
ここ数日ですっかり習慣になった、ウォー・ルームからの定時状況報告を確認するためだ。
画面が明るくなると、いくつかのウィンドウが即座に立ち上がった。
一つは、株式会社「星霜フロンティア」の株価チャート。金曜日の取引終了時点で無慈悲なストップ安に張り付いたまま、その赤い縦線は、組織の死を宣告していた。月曜日の東京市場が開けば、さらに暴落し、株は文字通り紙くずと化すだろう。
もう一つは、主要ニュースサイトのトップページ。尾張社長の少女買春と違法薬物使用疑惑は、週末の情報番組やワイドショーを席巻し、会社の信用そのものが回復不可能なまでに失墜していた。
ネット上では、二次被害、三被害の暴露が相次ぎ、炎上はもはや鎮火不可能な規模にまで広がっている。
そして、三つ目の小さなウィンドウ。
それは、大使館の地下の殺風景な小部屋を映し出す、監視カメラのライブ映像だった。
(まだ、生きてはいるのね)
金属製の電熱椅子に拘束されたまま、水戸茂はぐったりと項垂れていた。意識は朦朧としているように見える。無精髭は伸び放題で、目は虚ろに宙を彷徨っている。時折、監視役が厳格な管理のもとで差し入れる水分補給用のチューブを、意思があるのかないのか、ただ家畜のように口にするだけ。
かつて、あれほどまでに威圧的で、部下の人格を否定し、他人の尊厳を踏みにじることに快感を覚えていた男の姿は、完全に失われていた。
あるのは、地位、名誉、プライド、家族、未来その全てを奪われ、ただ呼吸することだけを許された、哀れな抜け殻だった。
復讐の第一段階は、完了した。
だが、岬の心は奇妙なほど静かだった。もちろん達成感がないわけではない。胸のすくような思いもあった。
それでも、水戸に対して抱いていた、身を焦がすような激しい憎しみは、彼が地下室で無様に命乞いをした瞬間から、少しずつ冷めていった。
水戸は、もう岬の人生にとって、何の価値もない存在も同然だった。
(次は、古河達哉。お前の番だ)
岬が思考を切り替え、ベッドから降りようとした時だった。
枕元に置いていた、偽名『荒川未沙』名義で作られた作戦用のスマートフォンが、ブブッと静かに振動した。
画面に表示されたのは、あの不気味なピエロの仮面を模したアイコン――『Myピカレスク』からの通知だった。
アプリを起動する。
金曜の夜、2000万円という巨額のコガコイン購入と引き換えに、Bランクの信者へと昇格した『ブラッディマリー33』のアカウントに、Sランクの側近からダイレクトメッセージが届いていた。
『Sランク(側近):ブラッディマリー33さん。先日は、古河様への多大なるご支援、誠に感謝申し上げます。古河様も、あなた様の熱意に大変お喜びでした』
金曜の夜、Bランク専用チャンネルで会話した時よりも、さらに丁寧な文面だった。2000万円を超える献上金が、彼らの「カモ」に対する対応を劇的に変えたのだ。
『Sランク(側近):さて、本日開催の『Bランク以上限定オフ会』の件ですが、場所が正式に決定しました。古河様と我々側近が、あなた様のような「真のファミリー」だけをお迎えするために用意した、特別な場所です。以下の場所へ、本日午後一時までにお越しください』
メッセージには、一つの位置情報データ。
そして、その場所を示す住所が、無機質に記されていた。
【東京都新宿区西新宿 13-1-13 新宿古河グラビティタワー 44階】
「……新宿古河グラビティタワー」
岬は、その名前を声に出して読み上げた。
自分の名前を、一等地にそびえる高層ビルにつける。その神経が信じられなかった。高校時代から何も変わらない、異常なまでに肥大化した自己愛と、歪んだ選民意識をまとった虚栄心の塊。
古河達哉の、醜悪の極みとしか言いようのない笑みが脳裏に蘇り、胃の奥が不快にざわついた。
(待っていろ)
岬はベッドから立ち上がり、シャワーを浴びるため、迷いなくバスルームへと向かった。
鏡に映る自分を見つめる。
肩にかからないほどの、軽やかな茶髪のショートボブ。その奥にある瞳は冷たく、静かに燃えていた。
今日は、古河の弱みとなる詐欺の証拠を仕留める、狩りの日だ。




