6-4 偽名潜入工作員
翌朝。
大使館内の日当たりの良い客室。そこにいたのは、岬、エリオット、そして広尾さやの三人だけだった。
作戦前の最後の確認のためだ。
「お待たせしました」
先に待機していた二人の元に現れた岬の姿を見て、エリオットは、思わず息を呑んだ。
昨日までの面影は、微塵もなかった。
長い黒髪は、肩にもかからないほどの、軽やかなショートカットに変わっている。髪の色も、光を柔らかく反射する明るいブラウンに染められていた。
そして、その目元は、知的な印象を与えるセルフレームの眼鏡で隠されている。
「広尾さんにお願いして、専門の美容師を呼んでもらいました。古河達哉のコミュニティに潜入する以上、万が一ということがある。彼が知る『滝乃川岬』の面影は、消しておくべきと考えましたので」
淡々と説明する岬に、エリオットは数秒の沈黙の後、感嘆の息を漏らした。
「……ショートカットも素敵だ。とてもよく似合っているよ、ミサキ。君の知的な部分が、より際立って見える」
「ほめ過ぎですよ」
「本心さ」
エリオットは微笑んだが、すぐに真剣な司令官の顔に戻った。
「だが、やはり心配は尽きない。我々が追っている狙撃犯は、まだ捕まっていないんだ。君、滝乃川岬が『偶然の彼女』だと、すでに犯人グループに特定されている可能性もゼロではない。君が大使館の外に出て、単独で行動する時間が増えるのは、大きなリスクだ」
彼は、護衛を常に複数人、尾行させると付け加えた。
「だが、万が一、護衛が間に合わない事態も想定しなければならない」
エリオットは、ビロードの小さなケースを取り出し、それを開いて岬に差し出した。
中には、小ぶりだが気品のある、美しい宝石がセットされた指輪が収められていた。
「このリングのセンターストーンの部分がボタンになっている。緊急時、ここを三秒間長押しするんだ」
エリオットは、その指輪をうやうやしく手に取り、岬の左手の薬指に、そっとはめた。
サイズは、測ったかのようにぴったりだった。
「長押しすると特殊な信号が送られ、大使館の護衛チームだけでなく、DIA(国防情報局)と、この国に駐留する我が国の特殊部隊にも同時に発信される。……必要であれば、軍隊すら、すぐに駆けつける。僕の権限で、それを可能にしてある」
「……」
「だから、決して無理はしないと約束してくれ」
その重すぎる贈り物に、岬は指輪を見つめたまま、言葉を失った。
「何から何まで、ありがとうございます」
「君を守るためなら、当然のことだ」
エリオットは、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
続いて、広尾さやが一歩前に出た。
「岬様。今作戦で使用する、ご注文のツールを用意しました」
彼女が差し出したのは、真新しいスマートフォンだった。
「信者に成りすました、我々の工作員数十名が、すでに昨夜からコミュニティへの潜入を開始しています。岬様には、その部隊の『隊長』として、彼らを指揮しつつ、ご自身にも潜入していただく予定です」
広尾は、淡々とスマホの機能を説明していく。
「そのスマートフォンは、あなたの個人情報とは一切紐づいていません。名義は偽名『荒川 未沙』で作成されています。古河達哉の配信チャンネルのアカウントも、その偽名で取得済みです」
「ありがとうございます」
「さらに」と広尾は続けた。「古河と彼の熱心な信者だけが、身分確認と連絡用に使用している専用チャットアプリ『Myピカレスク』もインストール済みです。このアプリは、参加者の位置情報を強制的に取得する機能がありますが、その端末は常にGPS情報を偽装し続けます。万が一、古河サイドがあなたの位置を特定しようとしても、追跡は極めて困難です」
完璧な準備だった。
これなら、高校時代の私を知る古河本人に万が一接触されても、ごまかし通せるかもしれない。
「さて、と」
準備が整ったのを見届けると、エリオットが不意に立ち上がった。
「僕は、これで失礼するよ。大事な用事があるので少し外出する」
「用事ですか?」
「ああ」エリオットは、わざとらしく悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「君と同世代の、とても魅力的な日本の女性と面会の予約があってね。……失礼、他意は無いんだが」
その言葉に、岬の心がチクリと小さく痛んだ。
あの夜のキスは、一体何だったのか。
(……いや、分かってる。あれは挨拶。私が勝手に勘違いしただけ)
だが、エリオットのその言い方は、明らかに岬の反応を試しているように思えた。
岬は、自分でも驚くほど冷静な声が出たことに安堵しながら、あえて一歩踏み込んだ。
「その女性のお名前を、お伺いしても?」
その問いに、エリオットは心底楽しそうに目を細めた。
「いずれ紹介するよ。彼女も、君の力になってくれるかもしれない」
彼はそう言うと、岬に近づいた。
「作戦、頑張って。また、僕が戻ってきたら、状況を聞かせてくれ」
そして、エリオットは、隣に立つ広尾の目を気にすることなく、岬の右手を取り、その甲に、そっと自分の唇を寄せた。
「……!」
指輪がはめられたばかりの左手ではなく、右手に。
確かな温もりと感触が、肌に焼き付く。
エリオットは、名残惜しそうに唇を離すと、今度こそ「では、後ほど」と言い残し、颯爽と部屋を出て行った。
一人残された岬は、熱が伝わったかのように感じる右手の甲を見つめ、呆然としていた。
やがて、我に返り、気まずさで広尾の方を恐る恐る見やる。
広尾は、その一部始終を無表情で見ていたが、岬の視線に気づくと小さく肩をすくめた。
「お気になさらず。昔から、ああいう方なのは知っていますので。あの方自身は、悪気はないのですが」
「……そう、なんですね」
広尾の意外な評価に、岬は少しだけ毒気を抜かれた。
同時に、胸の奥で、エリオットに対して、名前のつけられない漠然とした感情が渦巻いているのを感じていた。
(それより、今は作戦に集中しなきゃ)
岬は、自分の頬を軽く叩いて気合を入れた。
広尾に一礼し、客室を後にする。
自室であるスイートルームに戻った岬は、作戦用に用意されたノートパソコンを立ち上げた。
画面が明るくなり、デスクトップが現れる。
そこには、ただ一つ、PC版『Myピカレスク』アプリのアイコンだけが、不気味な光を放っていた。
「荒川 未沙」としてアカウントにログインする。
さあ、始めよう。
ネット世界の王を、玉座から引きずり下ろすための、最初の仕事を。




