1-4 エリオット・ハルフォード
「……で、君の名前を、もう一度聞かせてもらえるかな?」
場所は変わって、港区にある駐日大使館の一室。外部の音を完全に遮断する、重厚な防音壁に囲まれた、美術館のように静謐な応接室だった。
濡れた服は丁重に預けられ、岬は肌触りの良いカシミアのバスローブと、温かいハーブティーを与えられていた。レモングラスの爽やかな香りが、ささくれだった神経を少しだけ和らげてくれる。
目の前の、豪奢な革張りのソファに腰掛けているのは、先ほどの青年――エリオット・ハルフォード。
彼の肩書を、大使館員らしい初老の紳士から、丁寧すぎるほどの日本語で説明された時、岬は自分の耳を疑った。
世界で最も強大な軍事力と経済力を誇る超大国。その現職大統領、ガブリエル・ハルフォードの一人息子。そして彼自身も、いくつもの国際企業を経営し、その辣腕で莫大な資産を築き上げた若き実業家だと、かつてニュースで聞いたことがあった。
つまり、岬が助けたのは、この地球上で最も殺されてはならない人間の一人だったのだ。その事実が、遅れてやってきた恐怖となって、岬の背筋を凍らせた。
「滝乃川……岬、です」
「ミサキ・タキノガワ」
エリオットは、まるで貴重な詩の一節を口にするかのように、ゆっくりと岬の名前を反芻した。昔、駐日大使をしていた父と共に日本で暮らしていたという彼の日本語は、とても流暢だった。
「美しい響きだ。ミサキ、君に心から感謝する。君がいなければ、私は今頃、冷たいアスファルトの上で、もの言えぬ亡骸になっていただろう」
彼は芝居がかった身振りもせず、ただ静かに事実としてそう告げた。その率直で誠実な態度に、岬は少しだけ緊張を解いた。
「どうして分かった? あの状況で、高所からの狙撃に気づくのは、常人には不可能だ。君は一体何者なんだ?」
SPのリーダーらしき、ジェームズと呼ばれた鋭い目つきの男が、詰問するように言った。その視線は、まだ岬への疑いを解いていない。
岬はビクッと肩を震わせる。
「やめなさい、ジェームズ。彼女は私の恩人だ。尋問のような口の利き方は許さない」
エリオットが、穏やかだが有無を言わせぬ口調で男を諌めた。そして、再び岬に、安心させるような優しい視線を向ける。
「驚かせてすまない。だが、我々も知る必要があるんだ。これは単なる暗殺未遂じゃない。重大なテロ行為だからね。何でもいい、君が気づいたことを、君の言葉で教えてくれないか?」
岬は、ごくりと喉を鳴らした。そして、自分が交差点で見た光景を、ぽつりぽつりと語り始めた。不自然な傘の角度。一点に集中する視線。SPたちの警備の死角。広報の仕事で培った、全体の空気を読む観察眼が無意識に危険を察知したこと。
それは、特別な訓練の賜物などではない。むしろ、弱い立場で生き抜くために嫌でも身についてしまった、悲しい処世術なのだと。
岬の話を、エリオットは身じろぎもせず、深い青色の瞳でじっと見つめながら聞いていた。その瞳は、まるで岬の心の中にある、誰にも見せたことのない傷や痛みのすべてを見透かしているかのようだった。
「……信じられないな」
話を聞き終えたジェームズが、呆れと感嘆の入り混じった声で呟いた。
「我々は最高の訓練を受けたプロだ。あらゆる状況を想定し、警備体制を敷いていた。その我々が見抜けなかった脅威を、一介の民間人が“傘の角度”だけで見抜いたというのか」
「だが、事実は事実だ」
エリオットはきっぱりと言った。
「彼女の観察眼が、我々の訓練と経験を上回った。それだけのことだ。ミサキ、君は素晴らしい才能を持っている」
「才能なんかじゃありません」
岬は、思わず強い口調で否定していた。
「これは才能なんていう、輝かしいものじゃありません。臆病で、人が怖くて、いつも他人の顔色を窺って、悪意の匂いに怯えて……そうやって生きているうちに、嫌でも身についてしまった、呪いみたいなものです」
自嘲気味にそう言うと、エリオットは小さく首を振った。その目に憐憫の色はなかった。あったのは、深い敬意。
「肩書が人間を作るんじゃない。人間が、その行動で自分を証明するんだ。君がそれを呪いと呼ぶのなら、その呪いが、君にしかできない方法で私の命を救った。君は、自分の命を危険に晒して、見ず知らずの私を救ってくれた。それだけで、君が誰よりも特別で、勇気のある人間だと証明している」
真っすぐな言葉だった。
これまで、誰にも言ってもらえなかった言葉だった。
水戸課長は、岬の功績を奪い、能力を貶めた。
平泉潤二郎は、岬の人格を否定し、自信を奪った。
古河達哉は、岬の存在そのものを嘲笑った。
だが、今、目の前にいる、住む世界が違いすぎるはずのこの人は、知り合ったばかりの岬を、何の疑いもなく認め、称賛してくれている。
岬の目頭が、じわりと熱くなった。堪えようとしても、涙腺が言うことを聞かない。




